マスクの白と、咲かなかった春
わたしは、
体育館の前に立っている。
ここから校門も、
校庭も、
子どもたちの行き来も、
全部見える。
あの子たちが入学してきた春。
わたしは、
いつもより早く花を散らしていた。
校門をくぐってきたのは、
白いマスクをつけた小さな人たちだった。
顔の半分が隠れていて、
表情はよくわからなかった。
でも、
目だけは覚えている。
不安と緊張で揺れていた。
親と少し距離をあけて並び、
体育館へ向かう。
手をつなぎたいのに、
離れて歩く小さな背中。
わたしの下を通ったその子は、
立ち止まって空を見上げた。
マスクのせいで、
声は聞こえなかった。
でも、目が泣いていた。
―だいじょうぶ。
そう言ってあげたかった。
でも、
わたしはただ、
枝を揺らすことしかできなかった。
教室から聞こえてくる声は、
いつもより小さかった。
歌も、
笑い声も、
少しだけ遠慮していた。
「前にならえ」
そんな言葉が、
毎日のように風に乗って届いた。
給食は、
前を向いたまま。
話したい気持ちは、
マスクの内側にしまわれていた。
それでも、
子どもたちは成長する。
マスクの奥で笑い、
泣き、
友だちになっていった。
転んで泣いた日も。
うまく話せず、
目を伏せた日も。
わたしは、
全部見ていた。
やがて、
マスクを外す日が増えた。
初めて見た笑顔は、
少しぎこちなかった。
―こんな顔だったんだ。
きっと、
お互いそう思っただろう。
声は大きくなり、
笑い声は校庭に広がった。
わたしの枝にも、
また春が来た。
そして、
六年目の冬。
子どもたちは、
もう子どもではなかった。
あの頃より背は伸び、
声は低くなり、
でも、
時々ふと、
マスク越しに泣いていた目と同じ顔をする。
今日。
体育館から音楽が流れる。
卒業式。
わたしの枝には、
まだ花はない。
今年も、
間に合わなかった。
体育館の扉が開き、
子どもたちが出てくる。
もうマスクはしていない。
でも、
目は、あの春と同じだった。
わたしの前で、
ひとりが立ち止まる。
幹に、
そっと手を置いた。
小さかった手。
マスクで顔を隠していた、
あの日の手。
今は、少し大きい。
「ありがとう」
声は小さくて、
風にまぎれそうだった。
でも、
確かに聞こえた。
わたしの中で、
何かがほどけた。
泣くことも、
抱きしめることもできない。
ただ、
見ていただけ。
それでも、
見ていた時間は、
確かにここにある。
校庭が空になる。
風が吹き、
枝が鳴る。
それは、
涙の音に似ていた。
数日後。
あたたかい日差しが戻ってきた。
わたしは、
咲いた。
誰もいない体育館の前で。
卒業生のいない校庭で。
遅すぎた桜。
でも、
いい。
マスクの下で泣いていた春も、
笑顔を取り戻した夏も、
不安を抱えたまま前を向いた今日も。
全部、
ここにある。
もし、
これから先、
苦しい日があったら。
立ち止まってしまう日が来たら。
思い出してほしい。
体育館の前に、
何も言わず、
ずっと見ていた桜があったことを。
それだけで、
わたしは咲いてよかったと思える。
体育館の前に立っている。
ここから校門も、
校庭も、
子どもたちの行き来も、
全部見える。
あの子たちが入学してきた春。
わたしは、
いつもより早く花を散らしていた。
校門をくぐってきたのは、
白いマスクをつけた小さな人たちだった。
顔の半分が隠れていて、
表情はよくわからなかった。
でも、
目だけは覚えている。
不安と緊張で揺れていた。
親と少し距離をあけて並び、
体育館へ向かう。
手をつなぎたいのに、
離れて歩く小さな背中。
わたしの下を通ったその子は、
立ち止まって空を見上げた。
マスクのせいで、
声は聞こえなかった。
でも、目が泣いていた。
―だいじょうぶ。
そう言ってあげたかった。
でも、
わたしはただ、
枝を揺らすことしかできなかった。
教室から聞こえてくる声は、
いつもより小さかった。
歌も、
笑い声も、
少しだけ遠慮していた。
「前にならえ」
そんな言葉が、
毎日のように風に乗って届いた。
給食は、
前を向いたまま。
話したい気持ちは、
マスクの内側にしまわれていた。
それでも、
子どもたちは成長する。
マスクの奥で笑い、
泣き、
友だちになっていった。
転んで泣いた日も。
うまく話せず、
目を伏せた日も。
わたしは、
全部見ていた。
やがて、
マスクを外す日が増えた。
初めて見た笑顔は、
少しぎこちなかった。
―こんな顔だったんだ。
きっと、
お互いそう思っただろう。
声は大きくなり、
笑い声は校庭に広がった。
わたしの枝にも、
また春が来た。
そして、
六年目の冬。
子どもたちは、
もう子どもではなかった。
あの頃より背は伸び、
声は低くなり、
でも、
時々ふと、
マスク越しに泣いていた目と同じ顔をする。
今日。
体育館から音楽が流れる。
卒業式。
わたしの枝には、
まだ花はない。
今年も、
間に合わなかった。
体育館の扉が開き、
子どもたちが出てくる。
もうマスクはしていない。
でも、
目は、あの春と同じだった。
わたしの前で、
ひとりが立ち止まる。
幹に、
そっと手を置いた。
小さかった手。
マスクで顔を隠していた、
あの日の手。
今は、少し大きい。
「ありがとう」
声は小さくて、
風にまぎれそうだった。
でも、
確かに聞こえた。
わたしの中で、
何かがほどけた。
泣くことも、
抱きしめることもできない。
ただ、
見ていただけ。
それでも、
見ていた時間は、
確かにここにある。
校庭が空になる。
風が吹き、
枝が鳴る。
それは、
涙の音に似ていた。
数日後。
あたたかい日差しが戻ってきた。
わたしは、
咲いた。
誰もいない体育館の前で。
卒業生のいない校庭で。
遅すぎた桜。
でも、
いい。
マスクの下で泣いていた春も、
笑顔を取り戻した夏も、
不安を抱えたまま前を向いた今日も。
全部、
ここにある。
もし、
これから先、
苦しい日があったら。
立ち止まってしまう日が来たら。
思い出してほしい。
体育館の前に、
何も言わず、
ずっと見ていた桜があったことを。
それだけで、
わたしは咲いてよかったと思える。
クリップボードにコピーしました