夜の街は、
そろそろ朝の気配を思い出し始めていた。
空気がほんの少しだけ軽くなる。
けれど、まだ完全には戻らない。
その中間の時間―
均衡が揺れる刻。
裏道の角で、
一人の少年が立ち止まっていた。
「…」
天真 稔は、
手の中の小さな本を無意識に撫でる。
星の図鑑。
角が少し丸くなった、
何度も読み返された跡のある一冊。
「ここ…だよな?」
地図にはない場所。
でも、
なぜか知っている。
黒いYシャツの袖を肘までまくり、
白いズボンのポケットに片手を入れたまま、
稔は小さく息を吸った。
大丈夫。
雑談なら得意だ。
そう、
真面目な話じゃなければ。
ランプの光が揺れる。
「…喫茶店?」
看板はない。
でも、
星みたいな灯りだけが、
ちゃんとそこにあった。
「ま、入るだけ入ってみよっか」
自分にそう言い聞かせて、
扉を押す。
カラン。
鈴の音が鳴った瞬間、
胸の奥が―
ほんの少しだけ、軽くなる。
店内は静かで、あたたかい。
壁には星図。
時計はあるのに、時間が曖昧だ。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
カウンターの向こうのマスターが、
穏やかに言う。
稔は反射的に笑った。
「こんちは! 僕天真ゆうねん!」
…言ってから、
少しだけ恥ずかしくなる。
「天真 稔。天秤座だよ」
マスターは頷くだけで、
余計な反応はしない。
それが、
なぜか助かった。
差し出された紅茶は、
淡い色で、
香りが何層にも重なっている。
一口飲む。
「…」
味は、
甘すぎず、苦すぎず。
ちょうどいい。
「どうしたんどうしたん?」
沈黙が怖くなって、
稔は笑顔で言う。
「この店さ、
星好きの人がやってるん?」
マスターは答えない。
代わりに、
静かにポットを温め直す。
その仕草を見ているうちに、
言葉が、自然とほどけてしまった。
「あのさ…」
声が、少しだけ落ちる。
「僕、喋るのは得意なんだよ?」
自分でも分かるくらい、
上手に人と関われる。
「○○宿題どうなーん??
とかさ、
僕は終わったよー、とか」
笑って言える。
軽くて、楽で。
「でも…」
言葉が、止まる。
「あ…ぇっと…」
喉の奥が、
急に重くなる。
真面目な話。
大切な話。
それに触れようとすると、
頭が真っ白になる。
「…無理なんだ」
稔は、
カップの縁を見つめたまま言う。
「ちゃんとした話、しようとする……
何も、出てこなくなる」
星の図鑑を、
ぎゅっと抱える。
「昔さ…」
そこで、
完全に言葉が途切れた。
マスターは、
一切急かさない。
ただ、
紅茶の温度を保つ。
「天秤座は」
静かな声。
[明朝体][太字][大文字][斜体]「言葉と沈黙、
その両方の重さを知る星です」[/斜体][/大文字][/太字][/明朝体]
稔は、
顔を上げない。
「…喋らなかったんじゃない」
マスターは続ける。
[太字][明朝体][大文字]「喋れなくなった、のですね」
[/大文字][/明朝体][/太字]
その一言で、
胸の奥が、きしっと鳴った。
「……」
否定も、肯定もできない。
ただ、
紅茶を一口飲む。
「僕さ」
小さな声。
「バランス取るの、好きなんだ」
皆が楽しくなるように。
空気が重くならないように。
「でも…
重たい話って、
一回崩れると、戻らんやん」
だから―
触れない。
「それは、逃げではありません」
マスターは言う。
「失わないために、
沈黙を選んだのです」
稔の指先が、
わずかに震えた。
「…また、来てもいい?」
ほとんど、
息みたいな声。
「ええ」
マスターは、はっきり頷く。
「扉は、
あなたを覚えています」
カラン。
扉が閉まる。
星図の壁に、
細く、対になる線が刻まれた。
片方は、
誰かと繋ぐための線。
もう片方は、
言葉にならなかった沈黙の線。
二本は、
まだ完全には重ならない。
けれど、
確かに釣り合っていた。
マスターはそれを見つめ、
静かに呟く。
「語らないことも、
語りすぎないことも―
天秤の上では、同じ重さです」
ランプの光が、
穏やかに揺れる。
夜は、まだ終わらない。
次の星もまた、
自分の沈黙に、
名前をつける準備をしている。
そろそろ朝の気配を思い出し始めていた。
空気がほんの少しだけ軽くなる。
けれど、まだ完全には戻らない。
その中間の時間―
均衡が揺れる刻。
裏道の角で、
一人の少年が立ち止まっていた。
「…」
天真 稔は、
手の中の小さな本を無意識に撫でる。
星の図鑑。
角が少し丸くなった、
何度も読み返された跡のある一冊。
「ここ…だよな?」
地図にはない場所。
でも、
なぜか知っている。
黒いYシャツの袖を肘までまくり、
白いズボンのポケットに片手を入れたまま、
稔は小さく息を吸った。
大丈夫。
雑談なら得意だ。
そう、
真面目な話じゃなければ。
ランプの光が揺れる。
「…喫茶店?」
看板はない。
でも、
星みたいな灯りだけが、
ちゃんとそこにあった。
「ま、入るだけ入ってみよっか」
自分にそう言い聞かせて、
扉を押す。
カラン。
鈴の音が鳴った瞬間、
胸の奥が―
ほんの少しだけ、軽くなる。
店内は静かで、あたたかい。
壁には星図。
時計はあるのに、時間が曖昧だ。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
カウンターの向こうのマスターが、
穏やかに言う。
稔は反射的に笑った。
「こんちは! 僕天真ゆうねん!」
…言ってから、
少しだけ恥ずかしくなる。
「天真 稔。天秤座だよ」
マスターは頷くだけで、
余計な反応はしない。
それが、
なぜか助かった。
差し出された紅茶は、
淡い色で、
香りが何層にも重なっている。
一口飲む。
「…」
味は、
甘すぎず、苦すぎず。
ちょうどいい。
「どうしたんどうしたん?」
沈黙が怖くなって、
稔は笑顔で言う。
「この店さ、
星好きの人がやってるん?」
マスターは答えない。
代わりに、
静かにポットを温め直す。
その仕草を見ているうちに、
言葉が、自然とほどけてしまった。
「あのさ…」
声が、少しだけ落ちる。
「僕、喋るのは得意なんだよ?」
自分でも分かるくらい、
上手に人と関われる。
「○○宿題どうなーん??
とかさ、
僕は終わったよー、とか」
笑って言える。
軽くて、楽で。
「でも…」
言葉が、止まる。
「あ…ぇっと…」
喉の奥が、
急に重くなる。
真面目な話。
大切な話。
それに触れようとすると、
頭が真っ白になる。
「…無理なんだ」
稔は、
カップの縁を見つめたまま言う。
「ちゃんとした話、しようとする……
何も、出てこなくなる」
星の図鑑を、
ぎゅっと抱える。
「昔さ…」
そこで、
完全に言葉が途切れた。
マスターは、
一切急かさない。
ただ、
紅茶の温度を保つ。
「天秤座は」
静かな声。
[明朝体][太字][大文字][斜体]「言葉と沈黙、
その両方の重さを知る星です」[/斜体][/大文字][/太字][/明朝体]
稔は、
顔を上げない。
「…喋らなかったんじゃない」
マスターは続ける。
[太字][明朝体][大文字]「喋れなくなった、のですね」
[/大文字][/明朝体][/太字]
その一言で、
胸の奥が、きしっと鳴った。
「……」
否定も、肯定もできない。
ただ、
紅茶を一口飲む。
「僕さ」
小さな声。
「バランス取るの、好きなんだ」
皆が楽しくなるように。
空気が重くならないように。
「でも…
重たい話って、
一回崩れると、戻らんやん」
だから―
触れない。
「それは、逃げではありません」
マスターは言う。
「失わないために、
沈黙を選んだのです」
稔の指先が、
わずかに震えた。
「…また、来てもいい?」
ほとんど、
息みたいな声。
「ええ」
マスターは、はっきり頷く。
「扉は、
あなたを覚えています」
カラン。
扉が閉まる。
星図の壁に、
細く、対になる線が刻まれた。
片方は、
誰かと繋ぐための線。
もう片方は、
言葉にならなかった沈黙の線。
二本は、
まだ完全には重ならない。
けれど、
確かに釣り合っていた。
マスターはそれを見つめ、
静かに呟く。
「語らないことも、
語りすぎないことも―
天秤の上では、同じ重さです」
ランプの光が、
穏やかに揺れる。
夜は、まだ終わらない。
次の星もまた、
自分の沈黙に、
名前をつける準備をしている。
- 1.ティータイムの始まり。
- 2.乙女座 やさしく、つよくなれなくて。
- 3.蟹座 甘さの奥で、息を止めてきた
- 4.牡牛座 余裕の仮面と、足りない甘さ
- 5.山羊座 ゆっくりでいいと、知らなかった
- 6.双子座 言葉が二つに割れたまま
- 7.天秤座 言葉を量る、沈黙の重さは。
- 8.獅子座 微笑みの奥で、拳を握るひと
- 9.射手座 遠くを願い、声を置いてきた
- 10.水瓶座 笑っているあいだは、自由でいられた
- 11.牡羊座 引き受ける勇気と、静かな覚悟
- 12.魚座 仮の笑顔と振り返ってしまったこと
- 13.蟹座 信じられなかった手の、ぬくもりを思い出すまで
- 14.宇宙という名の空を結びに。
- 15.蛇遣い座 13番目になれなくて。
- 16.第二期 惑星たちの夜
- 17.金星 一行の本音は、金星に預けて
- 18.土星 抱え込めてしまった者は、零れ方を知らない
- 19.天王星 光を残す星