ツバメの魔法使いと碧の記憶 つまらない日常はコインのように裏返ると彼に合った日に知った
目覚ましの音が鳴る前に、柊美沙(ひいらぎ みさ)は目を開けた。
まだ外は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む光は灰色だった。
窓の外では、どこか遠くのビルのクレーンが鈍い音を立てている。
世界が起きる前の時間。けれどその静けさに、もう特別な意味はなかった。
いつものようにインスタントコーヒーを淹れ、無音のテレビを点ける。
画面の中のキャスターが口を動かしているが、音は消してある。
ただ、唇の動きだけで「今日も変わらない一日」という言葉を読み取った気がした。
会社までは電車で三駅。
通勤ラッシュを避けるために少し早く家を出る。
イヤフォンの中では古いポップスが流れているが、心に響くことはない。
曲が終わるたびに、ひとつ息が消えていくようだった。
角を曲がった先の公園に、壊れた街灯が立っている。
電球が切れたまま、いつからか誰も気に留めなくなった街灯。
通り過ぎるたび、そこだけ空気が少し冷たい。
その朝、美沙はふと立ち止まった。
─街灯の下に、ツバメがいた。
季節外れの二月に、ツバメなどいるはずがない。
けれど確かにそこに、一羽の黒い影が羽を休めていた。
羽根の先に朝の光がかすかに宿り、まるで金属のように光っていた。
美沙が近づくと、ツバメは一度だけこちらを振り返り、短く鳴いて飛び立った。
風が頬を撫でた。冷たく、でもどこか懐かしい風だった。
それだけの出来事。
美沙は小さく首を振り、そのまま駅へ向かった。
─翌朝。
同じ時間、同じ道、同じ灰色の空。
けれど街灯の下には、今度はひとりの男が立っていた。
黒いコートの裾が風に揺れている。
背は高く、顔立ちは不思議なほど印象に残らない。
だがその目だけが、まるで深い空を閉じ込めたように澄んでいた。
美沙は思わず足を止めた。
男は穏やかに微笑み、何の前触れもなく言った。
「君、昨日のツバメを見たね。」
息が詰まる。なぜそれを知っているのか、考える前に男は続けた。
「この街には、忘れられた光がたくさん落ちているんだ。
ツバメは、それを探す旅の途中だった。」
美沙は返す言葉を失い、ただ立ち尽くす。
男はふと何かを思い出したように、美沙の足元を見つめた。
そこには、白いハンカチが落ちていた。
男はそれを拾い上げ、美沙に差し出す。
「落としたよ。……風が運んできたのかもしれない。」
彼の指先がほんの一瞬、美沙の手に触れた。
その瞬間、壊れたはずの街灯がふっと光った。
かすかに青い、冬の朝には似つかわしくない光。
「……え?」
美沙が見上げたときには、男はもう背を向けていた。
ゆっくりと歩き出しながら、振り返りもせずに言う。
「また、空の声が聞こえたら、ここに来て。」
そう言い残し、彼は街の人波に紛れて消えた。
光は一瞬の幻のように消え、街灯はまた沈黙した。
けれど美沙の胸の奥で、何かが微かに動いた。
長い間、凍りついていた感情の氷が、音もなく溶けていく。
─ツバメ。
なぜかその言葉だけが、心に残った。
その男に再び会ったのは、三日後の夜だった。
残業を終えた帰り道。街のネオンは雨に滲み、歩道には光の破片が散らばっていた。
壊れたままの街灯の下に、あの黒いコートの背中があった。
「また来たね。」
男は振り返ることなく言った。
声は風に溶けるように柔らかかった。
「あなた……誰ですか?」
思わず問いかけると、男は小さく笑った。
「ツバメの魔法使い。」
冗談とも本気ともつかないその言葉に、美沙は眉をひそめた。
「魔法使い? この街に?」
「魔法はもうほとんど残っていない。でも、まったく消えたわけじゃない。
僕は、それを少しだけ拾い集めているんだ。」
彼の手には、小さなガラスの瓶があった。
中には淡い青い光がひとつ、ゆらゆらと揺れている。
まるで夜の海の中に浮かぶ星のようだった。
「これは?」
「人がこぼした願いの光。形のないものが、時々こうして残るんだ。」
雨の雫が瓶の表面を滑り落ち、光と混じり合う。
その輝きに、美沙はなぜか息を呑んだ。
胸の奥が、懐かしい痛みで満たされる。
スバルはゆっくりと瓶を掲げた。
「この街には、誰かが置き去りにした願いがたくさんある。
君のも、もしかしたらどこかに落ちているかもしれない。」
「私の……?」
「そう。君は、空を見なくなって久しい。」
その言葉に、美沙は返す言葉を失った。
どうして彼が、自分のことを知っているのか。
けれど、不思議と怖くはなかった。
「昔の人はね、ツバメを“空の使い”と呼んでいた。
僕らはその名残だ。人と空のあいだを行き来して、
失われた光を探す。」
雨脚が強くなり、二人の間に小さな音の壁ができる。
スバルはふと視線を上げた。
ビルの屋上近く、暗い空の中で何かが一瞬、光った気がした。
「見える? あそこに……」
美沙が目を凝らしたとき、それはもう消えていた。
ただ、胸の奥で何かが小さく波打つ。
遠い記憶を呼び起こすような感覚。
「君には、まだ“風の記憶”が残っている。」
スバルは静かに言った。
「だから僕は、君に出会ったんだ。」
彼はそう言い残し、瓶をコートの内側にしまった。
そして傘も差さず、雨の街を歩き去っていった。
青い光が、彼の背中を淡く照らしていた。
─その夜、美沙は眠れなかった。
窓の外を流れる雨音が、まるで遠くで羽ばたく音のように聞こえた。
胸の奥で、誰かが呼んでいる。
忘れてはいけない何かを、そっと思い出させようとしている。
夜の街を歩くスバルの背を、美沙は小走りで追いかけた。
雨はすでに止んでいたが、舗道にはまだ水たまりが残っていて、ネオンの色を映していた。
彼のコートの裾が風に揺れるたび、かすかに青い光がこぼれる。
「……ねえ、あなたは本当に“魔法使い”なの?」
問いかけると、スバルは少しだけ立ち止まり、振り向いた。
「信じる?」
「さあ……わからない。ただ、あなたの言葉が、嘘だとは思えない。」
「それなら、少し見せてあげる。」
スバルは足元の水たまりを見つめ、指先で軽く弧を描いた。
すると、静かな波紋が広がり、水面からひとつ、青白い光の粒が浮かび上がった。
小指の先ほどの光は、淡く瞬きながら空へ昇り、やがて消える。
「これは……?」
「誰かの願いの欠片。叶わなかった想いは、時々こうして形になる。
誰にも気づかれないまま、街の隅で小さく光ってる。」
スバルは懐から小瓶を取り出した。
中では、無数の光がゆらゆらと漂っている。
それはまるで、小さな宇宙だった。
「どうして集めているの?」
「いつか、空に還すために。」
「空に……?」
「願いは、もともと空から生まれるんだ。
人が空を見上げて祈るたび、ほんのわずかに、光が落ちる。
でもこの街では、誰も空を見なくなった。」
スバルの言葉は穏やかだったが、その奥に、深い寂しさが潜んでいた。
「君もそうだね。」
「……私も?」
「君の中にも、落ちた光がある。
長い間、見ないふりをしていただけ。」
美沙は言葉を失った。
胸の奥がざわつく。
“落ちた光”──それが何を意味するのか、まだわからない。
二人は商店街の外れにある古い喫茶店へ入った。
看板の灯りは消えかけており、ガラス越しに見える店内はほとんど真っ暗だった。
だがスバルが扉に触れると、カラン、とベルが鳴り、淡い灯りが一つずつ点っていく。
「ここ、営業してないはず……」
「夜だけ開くんだ。光たちが、休む場所としてね。」
店内には人影もなく、埃をかぶったテーブルが並んでいる。
だが天井近くには、無数の小瓶が吊り下げられていた。
瓶の中には、それぞれ違う色の光が閉じ込められている。
青、緑、橙、そしてほとんど見えないほど淡い白。
美沙は息を呑んだ。
まるで夜空の中に立っているようだった。
「これ、全部……?」
「誰かの願い。壊れた心。消えかけた約束。」
スバルは一番奥の棚から一つの瓶を取り出した。
中には、淡く脈打つ青の光があった。
「これは、今日拾った光。」
「どこで?」
「駅前のホーム。ベンチの下に落ちてた。
“もう一度だけ会いたい”っていう声が、微かに残ってた。」
美沙は胸の奥がちくりと痛んだ。
似た言葉を、かつて自分も心の中で繰り返していた。
「……光は、誰のものか分かるの?」
「名前はない。ただ、感じるだけ。
手に取ると、その人の記憶が、少しだけ流れ込んでくる。」
スバルは瓶を両手で包み、目を閉じた。
その頬を淡い光が照らす。
「今のは、若い女の人の願いだった。
亡くなった父親に、最後にありがとうを言いたかったんだ。」
言葉の余韻が、店の中に静かに広がった。
美沙はその光を見つめながら、心の奥にある“何か”が疼くのを感じていた。
─父の病室。
冬の夕暮れ。
白い息をしながら、握った手の温度が少しずつ消えていくあの瞬間。
思い出すたびに、息苦しくなる記憶。
言えなかった言葉が、胸に残っている。
「……私にも、光はあるのかな。」
「あるよ。」スバルは微笑んだ。
「でも、自分では見つけられない。
誰かに“思い出して”もらわないと、光は眠ったままだ。」
「あなたが……それを探してるの?」
「そう。僕は“ツバメ”だからね。
空と地上を行き来して、眠ってる光を見つける。」
その言葉に、美沙はふと笑った。
「変な人。」
「そう言われるの、嫌いじゃないよ。」
二人の間に、小さな静けさが生まれた。
それは不思議と、心地よかった。
店を出るころには、雨は完全に止んでいた。
夜空には薄い雲が流れ、星は見えない。
だがスバルは空を見上げて言った。
「明日は晴れるよ。」
「どうして分かるの?」
「風が教えてくれる。……少しだけ、春の匂いがしたから。」
彼の横顔を見つめながら、美沙は問いかけた。
「スバル、あなたは、ずっとこの街にいるの?」
「もうすぐいなくなるよ。
この街の“光”がすべて見つかったら、僕の役目は終わる。」
「それって……死ぬってこと?」
「違う。帰るんだ。空の向こうに。」
淡く笑うその瞳は、どこか遠い記憶を映していた。
その夜、美沙は帰宅すると、机の上に置かれたコーヒーカップの隣に小さな封筒があるのに気づいた。
白い封筒の端に、ツバメの羽根の模様が描かれている。
中には、小さなガラスの欠片のようなものが入っていた。
光にかざすと、わずかに青く光る。
─“君の光を見つけたら、ここに返しておくね。”
封筒の中に、そう書かれた小さな紙片があった。
スバルの字だった。
見なくても、わかる。
胸が熱くなった。
あの瓶の中の光のように、今、心の奥で何かが微かに揺れている。
窓を開けると、夜風がカーテンを揺らした。
街灯の明かりが遠くで瞬き、そのうちの一つが、ふっと青く光った。
その光を見つめながら、美沙は小さく呟いた。
「…私の願い、覚えてる?」
答えはなかった。
けれど、風が優しく頬を撫でた。
まるで誰かが「まだここにいるよ」と囁くように。
次の朝、目覚ましが鳴る前に、美沙は目を開けた。
いつもと同じ灰色の朝。
けれど、その光の中に、ほんの少しだけ青が混じっていた。
コーヒーを淹れながら、机の上のガラスの欠片に目をやる。
それは夜よりも淡く光っていて、まるで息をしているようだった。
カップを手に取りながら、美沙はふと微笑んだ。
世界はまだ灰色のままだ。
でも、その中に確かに“色”があることを、今は知っている。
スバルが言っていた。
─「願いは、空に還る。けれど、誰かの心に触れた光は、形を変えて残る。」
窓の外では、まだ冷たい風が吹いていた。
その風の中に、ツバメの羽ばたきのような気配を感じた気がした。
美沙はコートを羽織り、外へ出た。
いつもの道。
壊れた街灯の下で、一瞬だけ、青い光が瞬いた。
彼がまだ、この街のどこかにいるような気がして─
美沙は小さく息を吸い込んだ。
空を見上げる。
薄い雲の向こうに、淡い青の光が漂っていた。
それは、スバルの瓶の中で揺れていた光と、同じ色をしていた。
の街が、少しだけ違って見え始めたのは、その次の晩だった。
残業を終え、駅の階段を上がる途中で、美沙はふと立ち止まった。
ホームの端に、見慣れない光が見えたのだ。
電車のライトではない。
蛍光灯の反射でもない。
ただ、宙にふわりと浮かぶ、小さな青の粒。
それは、まるで誰かの吐息のようにゆらぎながら、線路の上を流れていく。
その一瞬、風が吹いた。
髪が揺れ、頬に触れる空気が、やけに懐かしかった。
─風の中に、声がある。
そんな気がした。
「…スバル?」
名前を呼んでも、返事はない。
けれど光の粒が、ゆっくりとホームの端から街の方へ流れていく。
まるで「ついておいで」と言っているように。
美沙は躊躇いながらも、足を動かした。
街へ出ると、夜風が強く吹き抜けた。
看板の灯りが揺れ、街路樹の葉がざわめく。
風の音の中で、何かが囁いた。
─“忘れてはいけない”
その言葉が誰の声だったのか、美沙には分からなかった。
その夜、スバルは公園のベンチに座っていた。
薄い月明かりが降り注ぎ、彼の手の中の瓶がかすかに光っている。
「来たね。」
「あなた…ここにいると思った。」
スバルは微笑んだ。
しかし、その顔色はどこか薄く、まるで空気に溶けかけているように見えた。
「大丈夫?」
「少し、風に持っていかれてるだけ。」
「…持っていかれる?」
「魔法はね、風の記憶と一緒に流れるんだ。僕の“時間”も、それに近い。」
美沙はその言葉の意味を掴めず、ただ彼の手の瓶を見つめた。
中の光は、以前よりも弱くなっている。
「スバル…その瓶、少し暗くなってない?」
「ああ。もうこの街に、強い光は残ってないからね。」
「それって、あなたが消えるってこと?」
「うん、そうなるかな。」
スバルは小さく笑った。
「でも、最後に一つだけやらなきゃいけないことがある。」
美沙の胸が痛んだ。
「何をするの?」
「君の“風の記憶”を呼び覚ます。」
スバルは立ち上がり、手を差し出した。
「来て。少し、歩こう。」
二人は夜の街を歩いた。
スバルが指を鳴らすと、壊れた看板の灯りがふっと灯り、鳥の形をした光が空へ舞い上がった。
光の鳥はゆっくりと旋回し、やがて消える。
「見える?」
「うん…綺麗。」
「それ、誰かの“願いの影”なんだ。
忘れられた祈りが形を変えて、街に残ってる。」
美沙の目には、今まで見えなかったものが次々と浮かび上がった。
交差点の角には、膝を抱えて座る子どもの影。
アスファルトの隙間からは、細い光が揺れている。
古いビルの窓辺には、まるで夢の残り香のような色が漂っていた。
「…こんなにたくさん、あったんだ。」
「うん。世界はね、見えない層でできてる。
人の思い出や後悔、誰かの“まだ終わらない言葉”。
それが薄い膜みたいに重なって、現実を形づくってる。」
スバルは歩を止め、風を掴むように手を伸ばした。
その指先から、小さな光がいくつも舞い上がる。
夜空へ、ゆっくりと昇っていく。
「これが、僕の仕事。でもね、美沙。君の中にも“風”がある。」
「私の中に…?」
「昔、君が誰かに向けて放った願いが、まだ風の中を漂ってるんだ。」
その言葉に、美沙の胸が波立った。
─昔、願ったこと。
“また、春に会えますように。”
その言葉が、突然、脳裏に蘇る。
「…どうして、あなたはそれを知ってるの?」
「風が教えてくれた。」
スバルの声が少し遠くなる。
足元の影が薄れていく。
まるで彼自身が風になろうとしているようだった。
ビルの裏通りを抜けると、小さな広場に出た。
そこには、一本の大きな木が立っていた。
枝には誰が結んだのか、白いリボンや紙片がたくさん吊るされている。
風が吹くたび、それらがさざめき、柔らかい音を奏でていた。
「ここは、“願いの木”って呼ばれてる。誰かが手放せなかった言葉を、風がここに運んでくる。」
スバルはゆっくりと木の根元に近づき、瓶を置いた。
瓶の中の青い光が、木の影を照らす。
「美沙。君の願いも、ここにある。」
その瞬間、風が強く吹き抜けた。
リボンが一斉に舞い上がる。
光の粒が空へと散り、広場全体が淡い青に染まった。
美沙の胸の奥で、何かが開いた。
耳の奥で、遠い声がした。
─“泣かないで。春になったら、また会おう。”
幼い頃の記憶。
雨の降る庭。
一羽のツバメが、濡れた羽を震わせながら、自分の掌にとまっていた。
「帰るの?」と聞いた。
ツバメは鳴いて、空を見上げた。
その目が、今のスバルと同じ色をしていた。
あの時、自分は何を願ったのだろう。
─“また、春に。”
その言葉が蘇った瞬間、美沙の周囲に光が溢れた。
瓶の中の青が、一気に輝きを増していく。
木の枝のリボンがほどけ、風に乗って舞い上がる。
スバルが小さく微笑んだ。
「思い出したね。」
その声が、少し震えていた。
スバルの姿が、風の中で薄れていく。
「待って…行かないで。」
「大丈夫。君が光を見つけたから、もう迷わない。」
「でも、あなたは……」
「僕はツバメだから。春になれば、また空を渡るよ。」
スバルは最後の力で瓶を掲げた。
中の光が弾け、無数の青い羽となって宙を舞う。
羽たちは風に溶け、夜空へ昇っていった。
その瞬間、街全体が静まり返った。
まるで時間が止まったようだった。
美沙はただ、光の流れを見つめていた。
涙が頬を伝う。
けれど、その涙は冷たくなかった。
風が止んだとき、広場には瓶だけが残っていた。
中は空っぽだった。
美沙はその瓶を両手で包み、胸に抱いた。
掌に、まだ温もりが残っている。
風の匂い。
あの日、ツバメと交わした約束の匂い。
空を見上げると、雲の切れ間に一筋の光が見えた。
夜の終わりを告げる、淡い朝の兆し。
「…ありがとう、スバル。」
風が、そっと頬を撫でた。
それはまるで、返事のようだった。
そして、美沙の胸の奥に、確かに感じた。
─“まだ、君の中に風が吹いている。”
夜が明ける。
灰色の街が、ゆっくりと色を取り戻していく。
通勤の人々が歩き出すころ、美沙はもう一度、街灯の下に立っていた。
壊れたはずの電球が、かすかに明るんでいる。
その光は、青でも白でもない。
春の空のような、やわらかな光だった。
美沙は空を見上げた。
見えないはずのツバメの羽音が、どこか遠くで響いた気がした。
風が吹いた。
スバルの声が、微かに重なった。
─“君が信じる限り、光は消えない。”
美沙はそっと目を閉じ、笑った。
風の中に、春の匂いがした。
夢を見ていた。
どこまでも高い空。
風が吹き抜け、光がゆらめく。
子どもの自分が、庭の真ん中で空を見上げていた。
─あの日の記憶。
手のひらの上に、小さなツバメがいた。
羽が濡れて震えている。
幼い自分は、息を殺してその命を守ろうとしていた。
「もう大丈夫。飛べる?」
小さなツバメは、黒い瞳でこちらを見上げた。
その瞳の奥に、淡い青の光があった。
スバルの目と、同じ色。
風が吹き、ツバメは短く鳴いた。
「帰るね。空に。」
「行かないで。また来年、戻ってきて。」
「うん。約束する。春になったら、また会おう。」
ツバメは翼を広げ、空へ舞い上がった。
その瞬間、幼い自分は小さく呟いた。
「空に帰りたいの?」
ツバメは一度振り返り、光の中に消えた。
─それが、始まりだった。
目を覚ますと、まだ夜が明けきっていなかった。
カーテンの隙間から差し込む光が、ほのかに青みを帯びている。
胸の奥で、何かが静かに熱を持っていた。
机の上には、あの瓶があった。
昨夜は空だったはずの瓶の中に、淡い光が戻っている。
それは、小さな羽の形をしていた。
美沙は息を呑んだ。
瓶を手に取ると、光が微かに揺れた。
そして、どこからか風の音が聞こえた。
窓は閉まっているのに、部屋の中を風が通り抜けていく。
「スバル……?」
呼ぶと、瓶の中の羽が光を強めた。
声がした。
懐かしくて、少し遠い声。
─「君の中の空を、思い出して。」
その言葉が響いた瞬間、景色がゆらぎ、世界が変わった。
美沙は、光の中に立っていた。
見渡す限りの青。
地平も空も区別がつかない、柔らかな光の世界。
風が吹くたび、音にならない祈りが波のように流れていく。
遠くに、黒い影が見えた。
スバルだった。
「ここは…?」
「“風の記憶”の中だよ。」
「記憶?」
「君と僕が初めて出会った場所。」
スバルは空を見上げた。
無数のツバメたちが、光の中を飛んでいる。
その一羽一羽が、小さな願いの光を抱えていた。
「彼らはね、人がこぼした願いを空へ運んでいる。僕もその一羽だった。でも、地上で君に助けられて、空へ戻れなくなった。」
「…私のせいで?」
「違うよ。君が僕を“繋ぎとめた”んだ。その優しさが、僕をこの世界に留めた。だから、君の願いが叶うまで、僕はここにいた。」
美沙は唇を震わせた。
「私の願いって…?」
スバルは微笑み、指先で彼女の胸に触れた。
その瞬間、美沙の心の奥から光があふれ出す。
病室の窓辺、亡き父の寝息。
寒い冬の午後。
言えなかった言葉。
「ありがとう」と「さようなら」が、混ざり合って凍りついたままの記憶。
その氷が、いま溶けていく。
涙が頬を伝った。
「…私、ずっと止まってた。
あの日から、空を見上げられなくなった。
“願い”なんて、もう信じられなかったの。」
スバルは静かに頷いた。
「でも君は、また見つけた。
壊れた街灯の下で、光を見たでしょう?
それが、君の願いの欠片だったんだ。」
美沙は瓶を胸に抱いた。
中の羽が、柔らかく震えている。
その光が、スバルの体を少しずつ包み始めた。
「スバル、行かないで。まだ…話したいこと、たくさんあるのに。」
「大丈夫。君が風を感じる限り、僕はどこにでもいるよ。」
スバルの輪郭が淡く滲む。
光が羽の形に変わり、風の中へ舞い上がる。
「君が信じる限り、光は消えない。だから…もう、空を忘れないで。」
美沙は伸ばした手で、その光を掴もうとした。
けれど、指先をすり抜けていく。
風のように、優しく。
そして、スバルは笑った。
最初に出会った朝のような、穏やかな笑みで。
「春になったら、また会おう。」
風が吹き抜け、世界が青に染まった。
気がつくと、美沙は自分の部屋にいた。
カーテンが揺れ、窓の外では夜が明けかけている。
胸に抱えていた瓶の中で、光がゆっくりと消えていく。
最後に残った羽が、小さく震え、やがて透明になった。
美沙は静かに微笑んだ。
涙はもう流れない。
その代わり、胸の奥に温かな風が吹いている。
机の上に一枚のメモが残っていた。
─“空は、君の中にある。”
その文字の下に、青い羽が一枚、落ちていた。
朝。
通勤の人々が行き交う中、美沙はふと足を止めた。
空は澄みきって、どこまでも高い。
まだ冬の名残があるが、風は確かに春を運んでいた。
駅へ向かう途中の街灯が、ひとつだけ光っている。
壊れていたはずの電球。
淡い青の光が、静かに灯っていた。
美沙はその下で立ち止まり、そっと微笑んだ。
風が頬を撫でた。
空のどこかで、羽ばたく音がした。
「行ってらっしゃい。…また春に。」
そう呟くと、風が応えるように舞い上がった。
青い羽がひとつ、空へと消えていく。
その日、街の片隅にある古い喫茶店の灯りが、不思議と明るくなった。
天井に吊るされた瓶のひとつが、青く光り、やがて静かに消えた。
その光が消えた瞬間、店内を通り抜けた風が、まるで笑うようにカランとベルを鳴らした。
“ツバメの魔法使い”の気配はもうどこにもなかった。
けれど、風の音の中には、確かに彼の声が混じっていた。
─「君が信じる限り、光は消えない。」
美沙は空を見上げ、目を細めた。
空の高みに、小さな影がひとつ、円を描いていた。
ツバメが、帰ってきた。
そして彼女は、微笑んだ。
世界が、青く透き通って見えた。
翌朝。
目覚めると、部屋には冬の冷気がまだ残っていた。
けれど、空気の奥には柔らかな光が混じっている。
風が窓の隙間を通り抜け、淡く揺れるカーテンの影が壁に映った。
机の上には、あの瓶が置かれている。
光はもうない。
ただ、瓶の底に、かすかに青い輝きが残っていた。
それはまるで、羽の形をした記憶の残り香のようだった。
美沙はそっと手を伸ばし、瓶を包むように抱き上げた。
胸の奥で、まだ小さく、何かが波打っている。
─あの夜の雨、あの青い光、スバルの声。
すべてが、夢ではなく現実だったことを、静かに噛み締める。
街へ出ると、冬の名残を残した道路が、朝日に照らされていた。
通勤の人々が行き交う中、美沙はふと足を止めた。
壊れていた街灯のひとつが、静かに灯っている。
淡い青色。
まるで、昨夜の記憶の続きのように、街に光を返していた。
空を見上げると、すでに青さが濃く、春の匂いが混じる風が頬を撫でた。
視線の先、遠くの高い空を小さな群れが飛んでいく。
ツバメだった。
空の高みを舞うその姿に、微かに青い光が宿っているように見えた。
「行ってらっしゃい…また春に。」
美沙は小さく微笑んだ。
胸の奥の痛みも、凍りついた感情も、すべて静かに溶けていく。
世界が柔らかく、青く、透き通って見えた。
歩道を進むと、足元に小さな影が落ちていることに気がついた。
拾い上げると、白い羽が一枚。
昨夜の瓶の光が形を変えて、現実に残ったものだった。
風が通り抜け、羽をふわりと舞わせる。
美沙は風に手を伸ばし、羽を軽く握ったまま歩き出す。
その心は、まるで羽と同じくらい軽く、自由だった。
街角の古い喫茶店の扉が開き、ベルがカランと鳴る。
店内の灯りは温かく、少し明るくなっていた。
棚の奥には、まだいくつかの小さな瓶が置かれ、微かに青い光を宿している。
それはスバルが拾い集めた、願いの欠片たちの余韻だった。
美沙は微笑み、街を見渡した。
光の届かない場所もあるけれど、風が吹けば、光は必ずどこかに届く。
そして、誰かの記憶と願いを運んでいく。
駅に向かう途中、古い街灯の下で立ち止まる。
淡い青の光が、微かに瞬いた。
壊れたままだと思っていた街灯に、春の兆しが灯ったのだ。
美沙はそっと手を合わせるように胸に手を置いた。
目を閉じると、遠くで風が羽ばたく音が聞こえる。
それは、スバルの声であり、ツバメの声であり、
かつて自分が忘れていた“空の声”だった。
「ありがとう……」
静かに、でも確かに。
目を開けると、空は明るく澄み渡っていた。
街の片隅で、止まっていた街灯がひとりでに灯り、青い光を小さく揺らした。
世界は変わったわけではない。
けれど、美沙の目には、すべてが新しく、優しく、柔らかく映っていた。
春の風が、髪を撫でる。
街の音が、微かに歌うように聞こえる。
青い空の下、願いは形を変えながらも、確かに存在している。
美沙は深く息を吸い、空を見上げた。
胸の奥で、誰かが笑っている気がした。
見上げれば、ツバメの群れが春の光に包まれ、円を描く。
「行ってらっしゃい、また春に。」
美沙は、静かに笑った。
心の奥の光は、これからも消えずに、風に乗って羽ばたき続ける。
街は、今日も息をしている。
壊れた街灯の青い光が、ほんの少しの希望を灯して。
そして、風は確かに、春の兆しを運んでいた。
まだ外は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む光は灰色だった。
窓の外では、どこか遠くのビルのクレーンが鈍い音を立てている。
世界が起きる前の時間。けれどその静けさに、もう特別な意味はなかった。
いつものようにインスタントコーヒーを淹れ、無音のテレビを点ける。
画面の中のキャスターが口を動かしているが、音は消してある。
ただ、唇の動きだけで「今日も変わらない一日」という言葉を読み取った気がした。
会社までは電車で三駅。
通勤ラッシュを避けるために少し早く家を出る。
イヤフォンの中では古いポップスが流れているが、心に響くことはない。
曲が終わるたびに、ひとつ息が消えていくようだった。
角を曲がった先の公園に、壊れた街灯が立っている。
電球が切れたまま、いつからか誰も気に留めなくなった街灯。
通り過ぎるたび、そこだけ空気が少し冷たい。
その朝、美沙はふと立ち止まった。
─街灯の下に、ツバメがいた。
季節外れの二月に、ツバメなどいるはずがない。
けれど確かにそこに、一羽の黒い影が羽を休めていた。
羽根の先に朝の光がかすかに宿り、まるで金属のように光っていた。
美沙が近づくと、ツバメは一度だけこちらを振り返り、短く鳴いて飛び立った。
風が頬を撫でた。冷たく、でもどこか懐かしい風だった。
それだけの出来事。
美沙は小さく首を振り、そのまま駅へ向かった。
─翌朝。
同じ時間、同じ道、同じ灰色の空。
けれど街灯の下には、今度はひとりの男が立っていた。
黒いコートの裾が風に揺れている。
背は高く、顔立ちは不思議なほど印象に残らない。
だがその目だけが、まるで深い空を閉じ込めたように澄んでいた。
美沙は思わず足を止めた。
男は穏やかに微笑み、何の前触れもなく言った。
「君、昨日のツバメを見たね。」
息が詰まる。なぜそれを知っているのか、考える前に男は続けた。
「この街には、忘れられた光がたくさん落ちているんだ。
ツバメは、それを探す旅の途中だった。」
美沙は返す言葉を失い、ただ立ち尽くす。
男はふと何かを思い出したように、美沙の足元を見つめた。
そこには、白いハンカチが落ちていた。
男はそれを拾い上げ、美沙に差し出す。
「落としたよ。……風が運んできたのかもしれない。」
彼の指先がほんの一瞬、美沙の手に触れた。
その瞬間、壊れたはずの街灯がふっと光った。
かすかに青い、冬の朝には似つかわしくない光。
「……え?」
美沙が見上げたときには、男はもう背を向けていた。
ゆっくりと歩き出しながら、振り返りもせずに言う。
「また、空の声が聞こえたら、ここに来て。」
そう言い残し、彼は街の人波に紛れて消えた。
光は一瞬の幻のように消え、街灯はまた沈黙した。
けれど美沙の胸の奥で、何かが微かに動いた。
長い間、凍りついていた感情の氷が、音もなく溶けていく。
─ツバメ。
なぜかその言葉だけが、心に残った。
その男に再び会ったのは、三日後の夜だった。
残業を終えた帰り道。街のネオンは雨に滲み、歩道には光の破片が散らばっていた。
壊れたままの街灯の下に、あの黒いコートの背中があった。
「また来たね。」
男は振り返ることなく言った。
声は風に溶けるように柔らかかった。
「あなた……誰ですか?」
思わず問いかけると、男は小さく笑った。
「ツバメの魔法使い。」
冗談とも本気ともつかないその言葉に、美沙は眉をひそめた。
「魔法使い? この街に?」
「魔法はもうほとんど残っていない。でも、まったく消えたわけじゃない。
僕は、それを少しだけ拾い集めているんだ。」
彼の手には、小さなガラスの瓶があった。
中には淡い青い光がひとつ、ゆらゆらと揺れている。
まるで夜の海の中に浮かぶ星のようだった。
「これは?」
「人がこぼした願いの光。形のないものが、時々こうして残るんだ。」
雨の雫が瓶の表面を滑り落ち、光と混じり合う。
その輝きに、美沙はなぜか息を呑んだ。
胸の奥が、懐かしい痛みで満たされる。
スバルはゆっくりと瓶を掲げた。
「この街には、誰かが置き去りにした願いがたくさんある。
君のも、もしかしたらどこかに落ちているかもしれない。」
「私の……?」
「そう。君は、空を見なくなって久しい。」
その言葉に、美沙は返す言葉を失った。
どうして彼が、自分のことを知っているのか。
けれど、不思議と怖くはなかった。
「昔の人はね、ツバメを“空の使い”と呼んでいた。
僕らはその名残だ。人と空のあいだを行き来して、
失われた光を探す。」
雨脚が強くなり、二人の間に小さな音の壁ができる。
スバルはふと視線を上げた。
ビルの屋上近く、暗い空の中で何かが一瞬、光った気がした。
「見える? あそこに……」
美沙が目を凝らしたとき、それはもう消えていた。
ただ、胸の奥で何かが小さく波打つ。
遠い記憶を呼び起こすような感覚。
「君には、まだ“風の記憶”が残っている。」
スバルは静かに言った。
「だから僕は、君に出会ったんだ。」
彼はそう言い残し、瓶をコートの内側にしまった。
そして傘も差さず、雨の街を歩き去っていった。
青い光が、彼の背中を淡く照らしていた。
─その夜、美沙は眠れなかった。
窓の外を流れる雨音が、まるで遠くで羽ばたく音のように聞こえた。
胸の奥で、誰かが呼んでいる。
忘れてはいけない何かを、そっと思い出させようとしている。
夜の街を歩くスバルの背を、美沙は小走りで追いかけた。
雨はすでに止んでいたが、舗道にはまだ水たまりが残っていて、ネオンの色を映していた。
彼のコートの裾が風に揺れるたび、かすかに青い光がこぼれる。
「……ねえ、あなたは本当に“魔法使い”なの?」
問いかけると、スバルは少しだけ立ち止まり、振り向いた。
「信じる?」
「さあ……わからない。ただ、あなたの言葉が、嘘だとは思えない。」
「それなら、少し見せてあげる。」
スバルは足元の水たまりを見つめ、指先で軽く弧を描いた。
すると、静かな波紋が広がり、水面からひとつ、青白い光の粒が浮かび上がった。
小指の先ほどの光は、淡く瞬きながら空へ昇り、やがて消える。
「これは……?」
「誰かの願いの欠片。叶わなかった想いは、時々こうして形になる。
誰にも気づかれないまま、街の隅で小さく光ってる。」
スバルは懐から小瓶を取り出した。
中では、無数の光がゆらゆらと漂っている。
それはまるで、小さな宇宙だった。
「どうして集めているの?」
「いつか、空に還すために。」
「空に……?」
「願いは、もともと空から生まれるんだ。
人が空を見上げて祈るたび、ほんのわずかに、光が落ちる。
でもこの街では、誰も空を見なくなった。」
スバルの言葉は穏やかだったが、その奥に、深い寂しさが潜んでいた。
「君もそうだね。」
「……私も?」
「君の中にも、落ちた光がある。
長い間、見ないふりをしていただけ。」
美沙は言葉を失った。
胸の奥がざわつく。
“落ちた光”──それが何を意味するのか、まだわからない。
二人は商店街の外れにある古い喫茶店へ入った。
看板の灯りは消えかけており、ガラス越しに見える店内はほとんど真っ暗だった。
だがスバルが扉に触れると、カラン、とベルが鳴り、淡い灯りが一つずつ点っていく。
「ここ、営業してないはず……」
「夜だけ開くんだ。光たちが、休む場所としてね。」
店内には人影もなく、埃をかぶったテーブルが並んでいる。
だが天井近くには、無数の小瓶が吊り下げられていた。
瓶の中には、それぞれ違う色の光が閉じ込められている。
青、緑、橙、そしてほとんど見えないほど淡い白。
美沙は息を呑んだ。
まるで夜空の中に立っているようだった。
「これ、全部……?」
「誰かの願い。壊れた心。消えかけた約束。」
スバルは一番奥の棚から一つの瓶を取り出した。
中には、淡く脈打つ青の光があった。
「これは、今日拾った光。」
「どこで?」
「駅前のホーム。ベンチの下に落ちてた。
“もう一度だけ会いたい”っていう声が、微かに残ってた。」
美沙は胸の奥がちくりと痛んだ。
似た言葉を、かつて自分も心の中で繰り返していた。
「……光は、誰のものか分かるの?」
「名前はない。ただ、感じるだけ。
手に取ると、その人の記憶が、少しだけ流れ込んでくる。」
スバルは瓶を両手で包み、目を閉じた。
その頬を淡い光が照らす。
「今のは、若い女の人の願いだった。
亡くなった父親に、最後にありがとうを言いたかったんだ。」
言葉の余韻が、店の中に静かに広がった。
美沙はその光を見つめながら、心の奥にある“何か”が疼くのを感じていた。
─父の病室。
冬の夕暮れ。
白い息をしながら、握った手の温度が少しずつ消えていくあの瞬間。
思い出すたびに、息苦しくなる記憶。
言えなかった言葉が、胸に残っている。
「……私にも、光はあるのかな。」
「あるよ。」スバルは微笑んだ。
「でも、自分では見つけられない。
誰かに“思い出して”もらわないと、光は眠ったままだ。」
「あなたが……それを探してるの?」
「そう。僕は“ツバメ”だからね。
空と地上を行き来して、眠ってる光を見つける。」
その言葉に、美沙はふと笑った。
「変な人。」
「そう言われるの、嫌いじゃないよ。」
二人の間に、小さな静けさが生まれた。
それは不思議と、心地よかった。
店を出るころには、雨は完全に止んでいた。
夜空には薄い雲が流れ、星は見えない。
だがスバルは空を見上げて言った。
「明日は晴れるよ。」
「どうして分かるの?」
「風が教えてくれる。……少しだけ、春の匂いがしたから。」
彼の横顔を見つめながら、美沙は問いかけた。
「スバル、あなたは、ずっとこの街にいるの?」
「もうすぐいなくなるよ。
この街の“光”がすべて見つかったら、僕の役目は終わる。」
「それって……死ぬってこと?」
「違う。帰るんだ。空の向こうに。」
淡く笑うその瞳は、どこか遠い記憶を映していた。
その夜、美沙は帰宅すると、机の上に置かれたコーヒーカップの隣に小さな封筒があるのに気づいた。
白い封筒の端に、ツバメの羽根の模様が描かれている。
中には、小さなガラスの欠片のようなものが入っていた。
光にかざすと、わずかに青く光る。
─“君の光を見つけたら、ここに返しておくね。”
封筒の中に、そう書かれた小さな紙片があった。
スバルの字だった。
見なくても、わかる。
胸が熱くなった。
あの瓶の中の光のように、今、心の奥で何かが微かに揺れている。
窓を開けると、夜風がカーテンを揺らした。
街灯の明かりが遠くで瞬き、そのうちの一つが、ふっと青く光った。
その光を見つめながら、美沙は小さく呟いた。
「…私の願い、覚えてる?」
答えはなかった。
けれど、風が優しく頬を撫でた。
まるで誰かが「まだここにいるよ」と囁くように。
次の朝、目覚ましが鳴る前に、美沙は目を開けた。
いつもと同じ灰色の朝。
けれど、その光の中に、ほんの少しだけ青が混じっていた。
コーヒーを淹れながら、机の上のガラスの欠片に目をやる。
それは夜よりも淡く光っていて、まるで息をしているようだった。
カップを手に取りながら、美沙はふと微笑んだ。
世界はまだ灰色のままだ。
でも、その中に確かに“色”があることを、今は知っている。
スバルが言っていた。
─「願いは、空に還る。けれど、誰かの心に触れた光は、形を変えて残る。」
窓の外では、まだ冷たい風が吹いていた。
その風の中に、ツバメの羽ばたきのような気配を感じた気がした。
美沙はコートを羽織り、外へ出た。
いつもの道。
壊れた街灯の下で、一瞬だけ、青い光が瞬いた。
彼がまだ、この街のどこかにいるような気がして─
美沙は小さく息を吸い込んだ。
空を見上げる。
薄い雲の向こうに、淡い青の光が漂っていた。
それは、スバルの瓶の中で揺れていた光と、同じ色をしていた。
の街が、少しだけ違って見え始めたのは、その次の晩だった。
残業を終え、駅の階段を上がる途中で、美沙はふと立ち止まった。
ホームの端に、見慣れない光が見えたのだ。
電車のライトではない。
蛍光灯の反射でもない。
ただ、宙にふわりと浮かぶ、小さな青の粒。
それは、まるで誰かの吐息のようにゆらぎながら、線路の上を流れていく。
その一瞬、風が吹いた。
髪が揺れ、頬に触れる空気が、やけに懐かしかった。
─風の中に、声がある。
そんな気がした。
「…スバル?」
名前を呼んでも、返事はない。
けれど光の粒が、ゆっくりとホームの端から街の方へ流れていく。
まるで「ついておいで」と言っているように。
美沙は躊躇いながらも、足を動かした。
街へ出ると、夜風が強く吹き抜けた。
看板の灯りが揺れ、街路樹の葉がざわめく。
風の音の中で、何かが囁いた。
─“忘れてはいけない”
その言葉が誰の声だったのか、美沙には分からなかった。
その夜、スバルは公園のベンチに座っていた。
薄い月明かりが降り注ぎ、彼の手の中の瓶がかすかに光っている。
「来たね。」
「あなた…ここにいると思った。」
スバルは微笑んだ。
しかし、その顔色はどこか薄く、まるで空気に溶けかけているように見えた。
「大丈夫?」
「少し、風に持っていかれてるだけ。」
「…持っていかれる?」
「魔法はね、風の記憶と一緒に流れるんだ。僕の“時間”も、それに近い。」
美沙はその言葉の意味を掴めず、ただ彼の手の瓶を見つめた。
中の光は、以前よりも弱くなっている。
「スバル…その瓶、少し暗くなってない?」
「ああ。もうこの街に、強い光は残ってないからね。」
「それって、あなたが消えるってこと?」
「うん、そうなるかな。」
スバルは小さく笑った。
「でも、最後に一つだけやらなきゃいけないことがある。」
美沙の胸が痛んだ。
「何をするの?」
「君の“風の記憶”を呼び覚ます。」
スバルは立ち上がり、手を差し出した。
「来て。少し、歩こう。」
二人は夜の街を歩いた。
スバルが指を鳴らすと、壊れた看板の灯りがふっと灯り、鳥の形をした光が空へ舞い上がった。
光の鳥はゆっくりと旋回し、やがて消える。
「見える?」
「うん…綺麗。」
「それ、誰かの“願いの影”なんだ。
忘れられた祈りが形を変えて、街に残ってる。」
美沙の目には、今まで見えなかったものが次々と浮かび上がった。
交差点の角には、膝を抱えて座る子どもの影。
アスファルトの隙間からは、細い光が揺れている。
古いビルの窓辺には、まるで夢の残り香のような色が漂っていた。
「…こんなにたくさん、あったんだ。」
「うん。世界はね、見えない層でできてる。
人の思い出や後悔、誰かの“まだ終わらない言葉”。
それが薄い膜みたいに重なって、現実を形づくってる。」
スバルは歩を止め、風を掴むように手を伸ばした。
その指先から、小さな光がいくつも舞い上がる。
夜空へ、ゆっくりと昇っていく。
「これが、僕の仕事。でもね、美沙。君の中にも“風”がある。」
「私の中に…?」
「昔、君が誰かに向けて放った願いが、まだ風の中を漂ってるんだ。」
その言葉に、美沙の胸が波立った。
─昔、願ったこと。
“また、春に会えますように。”
その言葉が、突然、脳裏に蘇る。
「…どうして、あなたはそれを知ってるの?」
「風が教えてくれた。」
スバルの声が少し遠くなる。
足元の影が薄れていく。
まるで彼自身が風になろうとしているようだった。
ビルの裏通りを抜けると、小さな広場に出た。
そこには、一本の大きな木が立っていた。
枝には誰が結んだのか、白いリボンや紙片がたくさん吊るされている。
風が吹くたび、それらがさざめき、柔らかい音を奏でていた。
「ここは、“願いの木”って呼ばれてる。誰かが手放せなかった言葉を、風がここに運んでくる。」
スバルはゆっくりと木の根元に近づき、瓶を置いた。
瓶の中の青い光が、木の影を照らす。
「美沙。君の願いも、ここにある。」
その瞬間、風が強く吹き抜けた。
リボンが一斉に舞い上がる。
光の粒が空へと散り、広場全体が淡い青に染まった。
美沙の胸の奥で、何かが開いた。
耳の奥で、遠い声がした。
─“泣かないで。春になったら、また会おう。”
幼い頃の記憶。
雨の降る庭。
一羽のツバメが、濡れた羽を震わせながら、自分の掌にとまっていた。
「帰るの?」と聞いた。
ツバメは鳴いて、空を見上げた。
その目が、今のスバルと同じ色をしていた。
あの時、自分は何を願ったのだろう。
─“また、春に。”
その言葉が蘇った瞬間、美沙の周囲に光が溢れた。
瓶の中の青が、一気に輝きを増していく。
木の枝のリボンがほどけ、風に乗って舞い上がる。
スバルが小さく微笑んだ。
「思い出したね。」
その声が、少し震えていた。
スバルの姿が、風の中で薄れていく。
「待って…行かないで。」
「大丈夫。君が光を見つけたから、もう迷わない。」
「でも、あなたは……」
「僕はツバメだから。春になれば、また空を渡るよ。」
スバルは最後の力で瓶を掲げた。
中の光が弾け、無数の青い羽となって宙を舞う。
羽たちは風に溶け、夜空へ昇っていった。
その瞬間、街全体が静まり返った。
まるで時間が止まったようだった。
美沙はただ、光の流れを見つめていた。
涙が頬を伝う。
けれど、その涙は冷たくなかった。
風が止んだとき、広場には瓶だけが残っていた。
中は空っぽだった。
美沙はその瓶を両手で包み、胸に抱いた。
掌に、まだ温もりが残っている。
風の匂い。
あの日、ツバメと交わした約束の匂い。
空を見上げると、雲の切れ間に一筋の光が見えた。
夜の終わりを告げる、淡い朝の兆し。
「…ありがとう、スバル。」
風が、そっと頬を撫でた。
それはまるで、返事のようだった。
そして、美沙の胸の奥に、確かに感じた。
─“まだ、君の中に風が吹いている。”
夜が明ける。
灰色の街が、ゆっくりと色を取り戻していく。
通勤の人々が歩き出すころ、美沙はもう一度、街灯の下に立っていた。
壊れたはずの電球が、かすかに明るんでいる。
その光は、青でも白でもない。
春の空のような、やわらかな光だった。
美沙は空を見上げた。
見えないはずのツバメの羽音が、どこか遠くで響いた気がした。
風が吹いた。
スバルの声が、微かに重なった。
─“君が信じる限り、光は消えない。”
美沙はそっと目を閉じ、笑った。
風の中に、春の匂いがした。
夢を見ていた。
どこまでも高い空。
風が吹き抜け、光がゆらめく。
子どもの自分が、庭の真ん中で空を見上げていた。
─あの日の記憶。
手のひらの上に、小さなツバメがいた。
羽が濡れて震えている。
幼い自分は、息を殺してその命を守ろうとしていた。
「もう大丈夫。飛べる?」
小さなツバメは、黒い瞳でこちらを見上げた。
その瞳の奥に、淡い青の光があった。
スバルの目と、同じ色。
風が吹き、ツバメは短く鳴いた。
「帰るね。空に。」
「行かないで。また来年、戻ってきて。」
「うん。約束する。春になったら、また会おう。」
ツバメは翼を広げ、空へ舞い上がった。
その瞬間、幼い自分は小さく呟いた。
「空に帰りたいの?」
ツバメは一度振り返り、光の中に消えた。
─それが、始まりだった。
目を覚ますと、まだ夜が明けきっていなかった。
カーテンの隙間から差し込む光が、ほのかに青みを帯びている。
胸の奥で、何かが静かに熱を持っていた。
机の上には、あの瓶があった。
昨夜は空だったはずの瓶の中に、淡い光が戻っている。
それは、小さな羽の形をしていた。
美沙は息を呑んだ。
瓶を手に取ると、光が微かに揺れた。
そして、どこからか風の音が聞こえた。
窓は閉まっているのに、部屋の中を風が通り抜けていく。
「スバル……?」
呼ぶと、瓶の中の羽が光を強めた。
声がした。
懐かしくて、少し遠い声。
─「君の中の空を、思い出して。」
その言葉が響いた瞬間、景色がゆらぎ、世界が変わった。
美沙は、光の中に立っていた。
見渡す限りの青。
地平も空も区別がつかない、柔らかな光の世界。
風が吹くたび、音にならない祈りが波のように流れていく。
遠くに、黒い影が見えた。
スバルだった。
「ここは…?」
「“風の記憶”の中だよ。」
「記憶?」
「君と僕が初めて出会った場所。」
スバルは空を見上げた。
無数のツバメたちが、光の中を飛んでいる。
その一羽一羽が、小さな願いの光を抱えていた。
「彼らはね、人がこぼした願いを空へ運んでいる。僕もその一羽だった。でも、地上で君に助けられて、空へ戻れなくなった。」
「…私のせいで?」
「違うよ。君が僕を“繋ぎとめた”んだ。その優しさが、僕をこの世界に留めた。だから、君の願いが叶うまで、僕はここにいた。」
美沙は唇を震わせた。
「私の願いって…?」
スバルは微笑み、指先で彼女の胸に触れた。
その瞬間、美沙の心の奥から光があふれ出す。
病室の窓辺、亡き父の寝息。
寒い冬の午後。
言えなかった言葉。
「ありがとう」と「さようなら」が、混ざり合って凍りついたままの記憶。
その氷が、いま溶けていく。
涙が頬を伝った。
「…私、ずっと止まってた。
あの日から、空を見上げられなくなった。
“願い”なんて、もう信じられなかったの。」
スバルは静かに頷いた。
「でも君は、また見つけた。
壊れた街灯の下で、光を見たでしょう?
それが、君の願いの欠片だったんだ。」
美沙は瓶を胸に抱いた。
中の羽が、柔らかく震えている。
その光が、スバルの体を少しずつ包み始めた。
「スバル、行かないで。まだ…話したいこと、たくさんあるのに。」
「大丈夫。君が風を感じる限り、僕はどこにでもいるよ。」
スバルの輪郭が淡く滲む。
光が羽の形に変わり、風の中へ舞い上がる。
「君が信じる限り、光は消えない。だから…もう、空を忘れないで。」
美沙は伸ばした手で、その光を掴もうとした。
けれど、指先をすり抜けていく。
風のように、優しく。
そして、スバルは笑った。
最初に出会った朝のような、穏やかな笑みで。
「春になったら、また会おう。」
風が吹き抜け、世界が青に染まった。
気がつくと、美沙は自分の部屋にいた。
カーテンが揺れ、窓の外では夜が明けかけている。
胸に抱えていた瓶の中で、光がゆっくりと消えていく。
最後に残った羽が、小さく震え、やがて透明になった。
美沙は静かに微笑んだ。
涙はもう流れない。
その代わり、胸の奥に温かな風が吹いている。
机の上に一枚のメモが残っていた。
─“空は、君の中にある。”
その文字の下に、青い羽が一枚、落ちていた。
朝。
通勤の人々が行き交う中、美沙はふと足を止めた。
空は澄みきって、どこまでも高い。
まだ冬の名残があるが、風は確かに春を運んでいた。
駅へ向かう途中の街灯が、ひとつだけ光っている。
壊れていたはずの電球。
淡い青の光が、静かに灯っていた。
美沙はその下で立ち止まり、そっと微笑んだ。
風が頬を撫でた。
空のどこかで、羽ばたく音がした。
「行ってらっしゃい。…また春に。」
そう呟くと、風が応えるように舞い上がった。
青い羽がひとつ、空へと消えていく。
その日、街の片隅にある古い喫茶店の灯りが、不思議と明るくなった。
天井に吊るされた瓶のひとつが、青く光り、やがて静かに消えた。
その光が消えた瞬間、店内を通り抜けた風が、まるで笑うようにカランとベルを鳴らした。
“ツバメの魔法使い”の気配はもうどこにもなかった。
けれど、風の音の中には、確かに彼の声が混じっていた。
─「君が信じる限り、光は消えない。」
美沙は空を見上げ、目を細めた。
空の高みに、小さな影がひとつ、円を描いていた。
ツバメが、帰ってきた。
そして彼女は、微笑んだ。
世界が、青く透き通って見えた。
翌朝。
目覚めると、部屋には冬の冷気がまだ残っていた。
けれど、空気の奥には柔らかな光が混じっている。
風が窓の隙間を通り抜け、淡く揺れるカーテンの影が壁に映った。
机の上には、あの瓶が置かれている。
光はもうない。
ただ、瓶の底に、かすかに青い輝きが残っていた。
それはまるで、羽の形をした記憶の残り香のようだった。
美沙はそっと手を伸ばし、瓶を包むように抱き上げた。
胸の奥で、まだ小さく、何かが波打っている。
─あの夜の雨、あの青い光、スバルの声。
すべてが、夢ではなく現実だったことを、静かに噛み締める。
街へ出ると、冬の名残を残した道路が、朝日に照らされていた。
通勤の人々が行き交う中、美沙はふと足を止めた。
壊れていた街灯のひとつが、静かに灯っている。
淡い青色。
まるで、昨夜の記憶の続きのように、街に光を返していた。
空を見上げると、すでに青さが濃く、春の匂いが混じる風が頬を撫でた。
視線の先、遠くの高い空を小さな群れが飛んでいく。
ツバメだった。
空の高みを舞うその姿に、微かに青い光が宿っているように見えた。
「行ってらっしゃい…また春に。」
美沙は小さく微笑んだ。
胸の奥の痛みも、凍りついた感情も、すべて静かに溶けていく。
世界が柔らかく、青く、透き通って見えた。
歩道を進むと、足元に小さな影が落ちていることに気がついた。
拾い上げると、白い羽が一枚。
昨夜の瓶の光が形を変えて、現実に残ったものだった。
風が通り抜け、羽をふわりと舞わせる。
美沙は風に手を伸ばし、羽を軽く握ったまま歩き出す。
その心は、まるで羽と同じくらい軽く、自由だった。
街角の古い喫茶店の扉が開き、ベルがカランと鳴る。
店内の灯りは温かく、少し明るくなっていた。
棚の奥には、まだいくつかの小さな瓶が置かれ、微かに青い光を宿している。
それはスバルが拾い集めた、願いの欠片たちの余韻だった。
美沙は微笑み、街を見渡した。
光の届かない場所もあるけれど、風が吹けば、光は必ずどこかに届く。
そして、誰かの記憶と願いを運んでいく。
駅に向かう途中、古い街灯の下で立ち止まる。
淡い青の光が、微かに瞬いた。
壊れたままだと思っていた街灯に、春の兆しが灯ったのだ。
美沙はそっと手を合わせるように胸に手を置いた。
目を閉じると、遠くで風が羽ばたく音が聞こえる。
それは、スバルの声であり、ツバメの声であり、
かつて自分が忘れていた“空の声”だった。
「ありがとう……」
静かに、でも確かに。
目を開けると、空は明るく澄み渡っていた。
街の片隅で、止まっていた街灯がひとりでに灯り、青い光を小さく揺らした。
世界は変わったわけではない。
けれど、美沙の目には、すべてが新しく、優しく、柔らかく映っていた。
春の風が、髪を撫でる。
街の音が、微かに歌うように聞こえる。
青い空の下、願いは形を変えながらも、確かに存在している。
美沙は深く息を吸い、空を見上げた。
胸の奥で、誰かが笑っている気がした。
見上げれば、ツバメの群れが春の光に包まれ、円を描く。
「行ってらっしゃい、また春に。」
美沙は、静かに笑った。
心の奥の光は、これからも消えずに、風に乗って羽ばたき続ける。
街は、今日も息をしている。
壊れた街灯の青い光が、ほんの少しの希望を灯して。
そして、風は確かに、春の兆しを運んでいた。
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