世界は、最初から意味を持っていない。
それでも人は、意味があるふりをして生きる。
数学は、そのための最も誠実な嘘だと、彼女は言っていた。
出会ったのは、夏休みが始まって三日目の図書室だった。
冷房は効きすぎていて、机は冷たく、
俺は自分がこの場所に存在している理由を見失っていた。
十六進法の問題集を開きながら、
俺はずっと「十で足りない理由」を探していた。
零から九までで世界は回っているはずなのに、
なぜAやBを連れてこなければならないのか。
「それはね」
いつの間にか、向かいの席に彼女が座っていた。
「世界が、人間の都合を待ってくれなかったから」
彼女はそう言って、
0x7F、0x80、0xFFと書き並べた。
「境界を越えた瞬間に、
表現が変わることってあるでしょ」
俺は、その言葉が
数の話なのか、人間の話なのか、判断できなかった。
彼女は、いつも静かだった。
けれど、沈黙は空虚ではなく、
考えきれなかった思考の残骸で満ちていた。
俺たちは数について話し、
次第に「数で表せないもの」について話すようになった。
「人は、自分を有限だと理解した瞬間に、
無限を欲しがる」
彼女はそう言った。
人間の時間は有限。
心臓の拍動にも回数があり、
記憶には必ず欠落が生じる。
「だから、無限集合を考える」
「無量大数なんて、存在しないものを名前で縛る」
それは、希望だった。
届かないとわかっているからこそ、
想像する自由。
俺は彼女を好きになった。
それは疑いようのない事実だった。
けれど同時に、
彼女を「理解したい」と思ってしまった自分を、
どこかで軽蔑していた。
理解とは、境界を引くことだ。
定義し、範囲を決め、
「これ以上ではない」と確定させる行為。
「好きって、証明できると思う?」
ある日、俺がそう聞くと、
彼女は少しだけ目を伏せた。
「できないものを、
できるふりをするのが一番残酷」
愛を定理にした瞬間、
それは愛ではなくなる。
ゼロの話をした夜がある。
彼女はノートに、ただ一つ、零を書いた。
「ゼロは、何もないわけじゃない」
「すべてと同じ距離にあるだけ」
原点。
正も負も、未来も過去も、
すべてが等距離で並ぶ場所。
「私はね、ゼロみたいでいたい」
どこにも属さず、
どこへでも行ける可能性。
けれど、その言葉の裏にある孤独を、
俺は見ないふりをした。
夏は、有限だった。
どんなに延ばそうとしても、
八月三十一日は必ずやってくる。
彼女がいなくなることは、
どこかで予感していた。
理由は語られなかった。
未定義のまま、彼女は世界から引き算された。
机の中に残っていたのは、
無限に続く数列の途中で、
突然止まったノート。
最後のページに、
こう書かれていた。
「人は、
ゼロから始まって、
無限を夢見て、
有限のまま終わる」
俺はその言葉を、
何度も何度も読み返した。
夏休みが終わっても、
俺の中では何も終わらなかった。
失ったものは、
数えようとするたびに増えた。
悲しみは、
時間とともに薄れるのではなく、
別の形に変換されていくだけだった。
十進法では足りない感情。
二進法では割り切れない記憶。
十六進法ですら表せない喪失。
俺の夏休みは、
十六進法から見つけた恋で始まり、
ゼロが無量大数になって終わった。
ゼロだったはずの心は、
今では測定不能な重さを持っている。
それでも俺は、
答えを出さない。
証明できないからこそ、
問いは生き続ける。
彼女がいなくなった世界で、
俺は今日も、
未定義のまま考え続けている。
あの夏から、いくつかの季節が過ぎた。
俺はもう、図書室に通う理由を失っていたし、十六進法を「世界の裏口」だと思うこともなくなった。
それでも、数から離れることはできなかった。
大学では情報工学を選んだ。
理由を聞かれるたび、俺は少し困った顔をして、「なんとなく」と答える。
本当はわかっている。
彼女がいた場所に、できるだけ近づこうとしているだけだ。
プログラムは正直だった。
曖昧さを許さず、未定義を放置すると、必ずエラーを吐く。
俺はそれが嫌いで、同時に、どこか安心していた。
現実よりも残酷で、現実よりも誠実だからだ。
ある日、符号なし整数の最大値を扱う課題で、俺は手を止めた。
0xFF
あの夏、彼女が書いた数。
境界。
越えた瞬間に、表現が変わる場所。
「ゼロは、何もないわけじゃない」
その声が、今でも思考の底で反響する。
俺は気づいた。
彼女は消えたのではなく、「定義から外れただけ」なのだと。
名前も、理由も、所属も。
世界が理解できる範囲の外に、そっと移動しただけ。
ゼロは、特別な数だ。
掛ければすべてを無にし、足せば何も変えない。
存在しているのに、痕跡を残さない。
それは、彼女の生き方そのものだった。
社会は、有限を好む。
期限、成果、評価、数値。
無限を夢見ることは許されても、そこに留まることは許されない。
彼女は、留まらなかった。
俺は今でも、ときどき「もし」を考える。
もし、あの時、理解しようとしなかったら。
もし、境界線を引かずに、ただ隣にいられたなら。
でも、それは反実仮想だ。
存在しない世界を、数式の中で美しく整えているだけ。
ある夜、研究室で一人、無限級数を眺めていた。
収束するもの。
発散するもの。
どれだけ項を足しても、決して届かない値。
そのとき、ふと思った。
もしかすると彼女は、
「届かない」という性質そのものになりたかったのではないか。
誰かに所有されず、
誰かに理解されず、
ただ、考え続けるための余白として存在すること。
俺はノートに、零を書いた。
昔と同じように、ただ一つ。
ゼロは、始まりであり、終わりではない。
原点は、必ずしも戻る場所じゃない。
そこから、どこへでも向かえるというだけだ。
彼女は今も、どこかで未定義のまま生きているのかもしれない。
あるいは、もう生きていないのかもしれない。
そのどちらも、俺には証明できない。
だから俺は、今日も答えを出さない。
証明できない問いだけが、
時間を超えて、生き残る。
俺の夏休みは終わった。
けれど、あのゼロから始まった思考は、
今もなお、無限に向かって発散し続けている。
未定義のまま。
それでも人は、意味があるふりをして生きる。
数学は、そのための最も誠実な嘘だと、彼女は言っていた。
出会ったのは、夏休みが始まって三日目の図書室だった。
冷房は効きすぎていて、机は冷たく、
俺は自分がこの場所に存在している理由を見失っていた。
十六進法の問題集を開きながら、
俺はずっと「十で足りない理由」を探していた。
零から九までで世界は回っているはずなのに、
なぜAやBを連れてこなければならないのか。
「それはね」
いつの間にか、向かいの席に彼女が座っていた。
「世界が、人間の都合を待ってくれなかったから」
彼女はそう言って、
0x7F、0x80、0xFFと書き並べた。
「境界を越えた瞬間に、
表現が変わることってあるでしょ」
俺は、その言葉が
数の話なのか、人間の話なのか、判断できなかった。
彼女は、いつも静かだった。
けれど、沈黙は空虚ではなく、
考えきれなかった思考の残骸で満ちていた。
俺たちは数について話し、
次第に「数で表せないもの」について話すようになった。
「人は、自分を有限だと理解した瞬間に、
無限を欲しがる」
彼女はそう言った。
人間の時間は有限。
心臓の拍動にも回数があり、
記憶には必ず欠落が生じる。
「だから、無限集合を考える」
「無量大数なんて、存在しないものを名前で縛る」
それは、希望だった。
届かないとわかっているからこそ、
想像する自由。
俺は彼女を好きになった。
それは疑いようのない事実だった。
けれど同時に、
彼女を「理解したい」と思ってしまった自分を、
どこかで軽蔑していた。
理解とは、境界を引くことだ。
定義し、範囲を決め、
「これ以上ではない」と確定させる行為。
「好きって、証明できると思う?」
ある日、俺がそう聞くと、
彼女は少しだけ目を伏せた。
「できないものを、
できるふりをするのが一番残酷」
愛を定理にした瞬間、
それは愛ではなくなる。
ゼロの話をした夜がある。
彼女はノートに、ただ一つ、零を書いた。
「ゼロは、何もないわけじゃない」
「すべてと同じ距離にあるだけ」
原点。
正も負も、未来も過去も、
すべてが等距離で並ぶ場所。
「私はね、ゼロみたいでいたい」
どこにも属さず、
どこへでも行ける可能性。
けれど、その言葉の裏にある孤独を、
俺は見ないふりをした。
夏は、有限だった。
どんなに延ばそうとしても、
八月三十一日は必ずやってくる。
彼女がいなくなることは、
どこかで予感していた。
理由は語られなかった。
未定義のまま、彼女は世界から引き算された。
机の中に残っていたのは、
無限に続く数列の途中で、
突然止まったノート。
最後のページに、
こう書かれていた。
「人は、
ゼロから始まって、
無限を夢見て、
有限のまま終わる」
俺はその言葉を、
何度も何度も読み返した。
夏休みが終わっても、
俺の中では何も終わらなかった。
失ったものは、
数えようとするたびに増えた。
悲しみは、
時間とともに薄れるのではなく、
別の形に変換されていくだけだった。
十進法では足りない感情。
二進法では割り切れない記憶。
十六進法ですら表せない喪失。
俺の夏休みは、
十六進法から見つけた恋で始まり、
ゼロが無量大数になって終わった。
ゼロだったはずの心は、
今では測定不能な重さを持っている。
それでも俺は、
答えを出さない。
証明できないからこそ、
問いは生き続ける。
彼女がいなくなった世界で、
俺は今日も、
未定義のまま考え続けている。
あの夏から、いくつかの季節が過ぎた。
俺はもう、図書室に通う理由を失っていたし、十六進法を「世界の裏口」だと思うこともなくなった。
それでも、数から離れることはできなかった。
大学では情報工学を選んだ。
理由を聞かれるたび、俺は少し困った顔をして、「なんとなく」と答える。
本当はわかっている。
彼女がいた場所に、できるだけ近づこうとしているだけだ。
プログラムは正直だった。
曖昧さを許さず、未定義を放置すると、必ずエラーを吐く。
俺はそれが嫌いで、同時に、どこか安心していた。
現実よりも残酷で、現実よりも誠実だからだ。
ある日、符号なし整数の最大値を扱う課題で、俺は手を止めた。
0xFF
あの夏、彼女が書いた数。
境界。
越えた瞬間に、表現が変わる場所。
「ゼロは、何もないわけじゃない」
その声が、今でも思考の底で反響する。
俺は気づいた。
彼女は消えたのではなく、「定義から外れただけ」なのだと。
名前も、理由も、所属も。
世界が理解できる範囲の外に、そっと移動しただけ。
ゼロは、特別な数だ。
掛ければすべてを無にし、足せば何も変えない。
存在しているのに、痕跡を残さない。
それは、彼女の生き方そのものだった。
社会は、有限を好む。
期限、成果、評価、数値。
無限を夢見ることは許されても、そこに留まることは許されない。
彼女は、留まらなかった。
俺は今でも、ときどき「もし」を考える。
もし、あの時、理解しようとしなかったら。
もし、境界線を引かずに、ただ隣にいられたなら。
でも、それは反実仮想だ。
存在しない世界を、数式の中で美しく整えているだけ。
ある夜、研究室で一人、無限級数を眺めていた。
収束するもの。
発散するもの。
どれだけ項を足しても、決して届かない値。
そのとき、ふと思った。
もしかすると彼女は、
「届かない」という性質そのものになりたかったのではないか。
誰かに所有されず、
誰かに理解されず、
ただ、考え続けるための余白として存在すること。
俺はノートに、零を書いた。
昔と同じように、ただ一つ。
ゼロは、始まりであり、終わりではない。
原点は、必ずしも戻る場所じゃない。
そこから、どこへでも向かえるというだけだ。
彼女は今も、どこかで未定義のまま生きているのかもしれない。
あるいは、もう生きていないのかもしれない。
そのどちらも、俺には証明できない。
だから俺は、今日も答えを出さない。
証明できない問いだけが、
時間を超えて、生き残る。
俺の夏休みは終わった。
けれど、あのゼロから始まった思考は、
今もなお、無限に向かって発散し続けている。
未定義のまま。