氷の欠片と彼女の背中
冬が死んでいく音がした。
屋上から滴り落ちる雪解け水が、コンクリートを規則正しく叩いている。その音を聞きながら、僕は数歩先を歩く彼女の背中をただ見つめていた。
「ねえ、見て。あんなところにまだ雪が残ってる」
彼女が指差したのは、校舎の影にひっそりとへばりついた、薄汚れた氷の塊だった。春の光に怯えるように、そこだけが冬の名残を必死に守っている。
その歪な形が、僕の胸の中にある想いと似ている気がして僕は少しだけ目を逸らした。
「本当だ。でも、明日にはもうなくなってるよ」
僕の言葉に、彼女はふいに行足を止めて振り返った。
風に揺れる髪が、彼女の頬を撫でる。その向こう側に見える瞳は、もうここにはない遠くの街の景色を映しているようだった。
三月の風は、残酷なほどに心地いい。
この暖かさが、彼女を僕の手の届かない場所へと連れ去っていく。
僕は、彼女が巻いているそのマフラーの端を掴んで、「行くな」と言えたらどれだけ楽だろうかと考える。けれど、僕が喉の奥で飼いならしているその言葉は、口に出した瞬間に温かな空気に触れて、跡形もなく溶けてしまうことを知っていた。
「僕、春ってあんまり好きじゃないんだ」
「どうして? 綺麗じゃない?桜も咲くし」
彼女は不思議そうに小首を傾げる。
彼女にとっての春は「始まり」で、僕にとっての春は、彼女という形をした光を失う「喪失」でしかない。その決定的な温度差が、僕の足元を凍えさせた。
「……眩しすぎるからかな」
僕は精一杯の嘘をついて、彼女を追い越すように歩き出した。
彼女は知らない。
冬が終わるこの季節、僕がどれほど祈るような気持ちで、溶け残った雪を数えていたか。
振り返れば、彼女はまた歩き始めていた。
僕と彼女の間に広がる、アスファルトの黒い隙間。
そこにはもう、二人の歩幅を繋いでくれる雪は一粒も残っていなかった。
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