窓際の特等席
古びたレンガ造りの建物が並ぶ一角。
その二階にある「カトル」という小さな看板は、知らなければ見過ごしてしまうほど控えめだ。
大通りから一本入ったその場所は、常に穏やかな静けさに包まれている。
店内に足を踏み入れると、まず迎えてくれるのは煎りたてのコーヒー豆の香りと店主こだわりのジャズピアノの調べ。低い音量の音楽が、空間全体に心地よいリズムを与えている。
店の最も奥、窓際に設えられた一組のソファ席。
そこが、この空間における唯一無二の特等席だ。座り心地の良い深いソファは、訪れる者を優しく受け止める。
窓からは、季節によって緑濃くなったり赤や黄色に染まったりする街路樹が見える。
行き交う人々の足音は、二重窓によって遠い記憶のように遮断されている。
カウンターの中では、いつも同じリズムで仕事が進む。豆を計量する音、グラインダーが微かに唸る音、そして丁寧に湯を注ぐ静かな動作。
やがて、小さなトレイに乗せられた一杯のカフェラテと、素朴な形のクッキーが窓際の席に運ばれてくる。
カップの上に広がる白いミルクの海には、熟練の技術で描かれた、葉のような、あるいは鳥のような繊細なアート。その視覚的な美しさが味への期待感を高める。
一口飲めば、温かい液体が喉を通り過ぎ、胃の腑にじんわりと染み渡る。
ミルクの甘さと、豆本来の持つほのかな苦みが絶妙なバランスで混ざり合う。
添えられたクッキーはバターの香りが強く、サクサクとした食感の後に優しい甘さを残す。
店内の他のテーブルでも、それぞれの時間が静かに流れている。
アンティークな照明の下で開かれた本のページが、ゆっくりとめくられる。
別のテーブルでは、使い込まれたノートパソコンのキーボードが、とても小さな音を立てている。どの席にも急ぎの様子はなく、皆、この場所に流れる独特の時間を享受している。
午後の日差しは刻々とその角度を変えていく。
窓ガラスを通した光が、床の木目やテーブルの上のカップに影を落とし、時間の経過を視覚的に知らせる。
天井から吊るされたドライフラワーの影が、壁に長く伸びる。
特別な出来事は何も起こらない。ただ、穏やかな時間がまるで厚い毛布のように空間を包み込んでいる。
夕暮れが近づき、外の空がオレンジ色から深い藍色へと変化し始めると、店内の照明が優しく瞬く。
コーヒーカップは空になり、残されたクッキーの食べかすだけが、過ぎ去った穏やかな時間を物語っている。静かな満足感だけが、空間に残る。
そして、また次の日の午後、この窓際の特等席は、変わることなく次の訪れる者を待ち構えている。
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