三日月は[漢字]天心[/漢字][ふりがな]てんしん[/ふりがな]に登り、夜も終盤となった頃だというのに、この[漢字]朱霄楼[/漢字][ふりがな]しゅしょうろう[/ふりがな]だけはやけに明るい。
煌々と照りつける赤と金。
そこはかとない危険な華やぎが、闇夜に咲く悪の花のように見えた。
店の中は濃密な酒瓶と、汗と香水と、隠しきれない欲望の匂いでごった返しだった。
吐き出された煙草の煙が、この世の苦悩のように天井にへばりつき、揺らめく灯りを歪ませている。
「おい、さっさと行きな。客は“[漢字]翠憐[/漢字][ふりがな]すいれん[/ふりがな]”を待ってんだ」
すすけた石壁に反響する、下卑た声。
背中からの衝撃に、思わず視界が揺れる。
薄暗くひんやりとした廊下の床が、目の前に急接近した。
薄汚れた[漢字]旗袍[/漢字][ふりがな]チーパオ[/ふりがな]を着た給仕の女が、溜まりに溜まった日頃の嫉妬と不満をぶつけるように、わざと背中を蹴り上げたのだ。
背中から腕に沿わせていた薄青の絹の肩巾が、さらりと床へ萎れるように垂れる。
「…あ?何だい。その、バカみたいに生意気な目は」
女はドスのきいた声で翠憐を睨め付ける。
翠憐は、そんな彼女のことを、哀れな虫だと心底思ってしまった。
この朱霄楼にいる誰もが、[斜体][太字]いつか誰かの餌となる運命にいる[/太字][/斜体]。
そのことを理解できていない彼女は、あまりにも無邪気で、惨めだ。
そんなことを思う暇があるならばさっさと逃げろという話だが、反論できるものならとうにしているのだ。
その様子を見て、女は嬉しそうに、醜悪に口を歪める。
「ククッ…“[太字][斜体]口封じ[/斜体][/太字]”されてるアンタが、あたしに口答えできるはずないよなぁ?」
下町の言葉を扱う女は、心底楽しそうに翠憐の顎を掴みあげた。
朱で染められてはいるものの乾燥してぱさついた女の唇は、今宵の月のように歪んでいる。
黒く濁った瞳に見つめられ、翠憐は呼吸の苦しさに少し目を細めた。
それは息苦しさのせいなのか、女の穢れた眼差しのせいなのか、翠憐自身にも判別がつかなかった。
「……喋んない玩具は、遊び甲斐が無いもんだね」
女は言葉を紡げぬ自分に飽きたのか、翠憐を勢いよく突き放す。
「…!!……」
受け身が取れずに右腕を強く打ち、足首も少し捻った。
じゃら、と冷たい手枷が揺れるも、これが取れる気配は一向にない。
苦悶の表情を押し殺し、翠憐はなんとか顔を上げだが、女は満足気に踵を返して、広間のざわめきの中へ戻っていった。