[太字][斜体]2022年 冬:都内・テレビ局 バックヤード[/斜体][/太字]
採用から数週間。年末の大型音楽特番の現場である。
迷路のような廊下を、あなたは迷うことなく進む。
手には分刻みのタイムスケジュールが記された香盤表と、メンバー3人分のケアセットが入ったトートバッグがある。
楽屋の前では、他事務所のマネージャーやテレビ局員が慌ただしく行き交う。
あなたはすれ違う関係者に対し、適切な角度の会釈と、相手の役職に応じた過不足ない挨拶を繰り返す。
「新人とは思えないな」
後ろを歩くチーフマネージャーが、あなたの無駄のない動きを見て独り言のようにつぶやいた。
楽屋のドアを開ける。
中では、衣装に着替えた3人が、それぞれ発声練習をしたり、スマホで映像をチェックしたりしている。
「大森さん、15分後にマイクチェックです。若井さん、ギターのピックアップの件、先ほどテックの方と最終確認済みました。藤澤さん、喉用の温かい飲み物、こちらに置いておきます」
あなたは淀みなく報告を終え、メンバーの私物が散らかり始めたテーブルを、彼らの集中を妨げない速度で整えていく。
大森が鏡越しに、あなたの動きをじっと見ていた。
「……なんか、すごく慣れてますね。前からここにいたみたい」
「以前の現場で叩き込まれましたから。お気になさらず」
あなたは表情を崩さず、淡々と返した。
まだ彼らに対してファンとしての感情はない。
あくまで「預かっている商品」であり「守るべき表現者」という認識だ。
「本番まであと10分です。廊下、少し冷えるので上着持っていきますか?」
あなたの問いかけに、若井が「あ、お願いします」と少し緊張した面持ちで答える。
スタジオへの移動中。
煌びやかなセットの裏側、暗い通路を歩く彼らの背中を、あなたは数歩後ろから見つめる。
世間が熱狂する「Mrs. GREEN APPLE」という存在が、今はただの「次のスケジュールをこなすべき対象」として、あなたの視界に収まっている。
ステージ袖に到着した。
スタッフの「本番30秒前です!」という声が響く。
あなたは彼らの上着を受け取り、代わりに使い捨てのカイロや水を手渡す。
「いってらっしゃい」
背中を見送りながら、ストップウォッチを押し、次の移動車両の手配のためにスマホを取り出した。