夕暮れ時、放課後の校舎はどこか寂しげなオレンジ色に染まっていく。
私は、誰もいない廊下を一人、ゆっくりとした足取りで歩いていた。
私の名前は〇〇、どこにでもいる、極々平凡な学生だ。
自分でも嫌になるくらい、これといった特徴も、特別な才能もない。
そんな私が、密かに視線で追ってしまう人がいる。
同じクラスの学級委員で、生徒会役員も務めているジンくんだ。
ジンくんは、私とは住む世界が違うような人だった。
誰に対しても平等で、先生からの信頼も厚く、いつも輪の中心にいる。
「〇〇さん、おはよう。今日のプリント、回してくれてありがとう」
彼は私を呼ぶとき、いつだって丁寧な苗字呼びを崩さない。
その「〇〇さん」という響きを聞くたびに、嬉しいような、切ないような。
心のどこかで、彼にとって私は「クラスメートの女子の一人」でしかないことを突きつけられる。
平凡な私には、彼と深く関わるきっかけなんて、一生訪れないと思っていた。
あの日、あの帰り道ですれ違うまでは。
その日は、図書室で借りた本を読み耽ってしまい、下校時間が迫っていた。
少し急ぎ足で校門を出ると、街灯が灯り始めた坂道に、見覚えのある背中が見えた。
_____ジンくんだ。
彼は男友達と、何かの資料を眺めながら歩いていた。
二人は明日の行事の打ち合わせをしているのか、真剣な、でも楽しげな雰囲気だった。
(あ、邪魔しちゃいけないな……)
私は無意識に歩幅を緩め、彼らの会話を遮らないように、道の端っこを歩いた。
下を向いて、気づかれないように、気配を消してすれ違おうとした。
その時だった。
「あ、〇〇さんだ」
不意に、彼の穏やかな声が私の耳に届いた。
顔を上げると、ジンくんがこちらを向いて、足を止めていた。
彼は隣の子との話を一度中断して、わざわざ私の方を真っ直ぐに見ていた。
夕日に照らされた彼の瞳が、キラキラと優しく光っている。
彼は資料を男子に渡すと、自由になった右手を少しだけ高く上げた。
「ばいばーい」
ただ、それだけだった。
時間にして、たった五秒にも満たないような、一瞬の出来事。
でも、私にとっては、世界が止まったかと思うほどの衝撃だった。
彼は、誰かと一緒にいる時でも、目立たない私を無視したりしなかった。
普通なら、会話に夢中で通り過ぎてしまうような場面なのに。
彼は私を見つけ、私という存在を認め、そして優しい言葉をかけてくれた。
その、あまりにも自然で、細やかな気遣い。
いつもの呼び方の後に添えられた、少しだけ幼さの残る「ばいばーい」の挨拶。
私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
[太字][斜体]ああ、私はこの人の、こういうところが好きなんだ。[/斜体][/太字]
誰に媚びるわけでもなく、誰を見捨てるわけでもない。
彼のさりげない優しさが、私の平凡な日常に、鮮やかな色を付けていく。
彼が再び隣の男子と歩き出すのを、私はしばらく動けずに見送っていた。
遠ざかっていく彼の背中が、さっきよりもずっと大きく、愛おしく見えた。
「……ばいばい」
消え入りそうな声で、私は空に向かって呟いた。
冷たい冬の空気に、私の吐いた息が白く混ざり、ゆっくりと溶けていった。
まだ、私は彼の特別な存在じゃない。
けれど、あの一瞬の「ばいばーい」を思い出すだけで、明日も頑張れるような気がした。
平凡な私に訪れた、たった一度の、けれど消えない恋の魔法。
きっかけなんて、案外そんな小さなことの積み重ねなのかもしれない。