[太字][斜体]2023年8月:ベルーナドーム・初日午前[/斜体][/太字]
真夏の熱気がドーム内にこもっている。設営スタッフ数百人が動き回り、巨大なLEDモニターが組み上がっていく。
あなたはインカムを装着し、会場の図面が挟まったバインダーを抱えてステージ下を歩いている。
今回はアシスタントではなく、現場のセクションリーダーの一人として動く。
「物販列、すでに1000人越え。最後尾、日陰への誘導徹底を。救護室の看護師、もう1名待機の準備を」
無線で指示を飛ばしながら、あなたは刻一刻と変わる状況を整理する。
数万人規模の動員。一歩間違えれば事故に繋がる。
これまでのホールツアーとは、背負う責任の重さが違う。
「マネージャー、大森さんが入り口で止まってる。……少し、様子が変だ」
若手スタッフからの連絡を受け、あなたはすぐにアーティスト搬入口へ向かった。
[太字][斜体]同日13:00:搬入口近くの通路[/斜体][/太字]
車から降りた大森が、完成した巨大なステージセットを遠くから見つめたまま、動かずに立っていた。
横には若井と藤澤もいるが、いつもの軽口はない。
あまりの規模の大きさと、自分たちが背負うものの巨大さに、一瞬、空気に呑まれているように見えた。
「大森さん」
あなたが声をかけると、彼は少し肩を揺らして振り返った。
その目は、少しだけ焦点が定まっていない。
「……大きいね。本当にここでやるんだ」
「はい。3万5千人が待っています。リハーサルまであと30分です」
あなたは感情を挟まず、事実だけを告げる。
大森がふっと視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……ねえ。もし今日、僕の声が出なくなったり、何か台無しにするようなことがあったら、どうする?」
一瞬の沈黙。若井と藤澤も、あなたの回答を待っている。
あなたは視線を逸らさず、大森の目を真っ直ぐ見て答えた。
「その場合の準備は、既にしてあります。機材、演出、そして私たちが。大森さんがステージで倒れても、観客にはそれが演出に見えるように、あるいは最高の結果として記憶に残るように、裏で全てをコントロールします」
少し突き放したような、けれど絶対的な「仕事」への自信。
「ですから、大森さんはただ、そこで歌うことだけを考えてください。それ以外の責任は、すべて私たちが預かります」
大森は数秒間、あなたの顔をじっと見ていたが、やがて口角を少しだけ上げた。
「……相変わらず、冷たいっていうか、頼もしいっていうか。……わかった。じゃあ、預けるよ。全部」
大森が歩き出す。若井と藤澤も、顔つきが変わった。
[太字][斜体]「よっしゃ、行こう」[/斜体][/太字]
と若井が藤澤の背中を叩き、三人はステージへと続くスロープを上がっていく。
あなたは彼らの背中を見送り、インカムのスイッチを入れた。
「アーティスト、ステージイン。リハーサル開始。各セクション、最終チェック。……最高の準備を」
ドームに一発目のドラムの音が鳴り響く。
あなたは彼らの音楽に浸る間もなく、次の懸念事項である規制退場のシミュレーションを確認するため、客席の最後方へと走り出した。