『[漢字]翠憐[/漢字][ふりがな]すいれん[/ふりがな]』。
その名は、清流に咲きながら、触れる者に死をもたらす美しき睡蓮の毒を連想させた。
本名、[漢字]水瀬 憂姫[/漢字][ふりがな]みなせ ゆうき[/ふりがな]。
極東の神秘を宿す生粋の日本人――だが彼女の胸に宿るは、血縁の温もりとは無縁の冷たさだった。
混沌渦巻く零番街の片隅、程近い橋の下に、まるで神の過ちのように捨てられていた彼女を拾ったのは、一人の商人。彼は裕福で、何不自由ない生活、安全な衣食住、そして黄金の檻とも呼べる専用の寝床まで与えた。
幼い翠憐は、幸福の定義を知らないまま、満たされていた。
――彼女を育てたその男が、『奴隷商人』でさえなければ。
質の良い食事は、最高の商品に仕上げるため。厳格に叩き込まれた礼儀作法は、富裕な貴族により高値で売りつけるための装飾。
愛情だと信じ込んだその偽りの全てが、周到な『仕込み』に過ぎなかったと知ったのは、彼女がこの朱霄楼へ売られた、18の春だった。
彼女の容姿は、まるで精巧な工芸品。非現実的なまでの華奢な痩躯に、雪のように白く、光を反射してさらりとなびく絹糸の髪。薄く形の良い唇に添えられたのは、わずかな淡い紅。鼻筋の通った孤高な相貌は、一目で忘れられない印象を与える。そして何より、この地では奇跡的な、暗く、深く、全てを見透かす夜の帳のような黒の双眸。
世界が彼女を『絶世の美人』と讃えることは知っている。きっと、神は彼女にあまりにも多くの『美』を盛りすぎた。
だが、翠憐は己の顔を愛せない。
美しすぎる美貌は、呪いだ。 男女を問わず、底なしの嫉妬と羨望を浴びせられる。やっと手に入れたと信じた友情さえ、彼女の『顔』や『価値』という残酷な色眼鏡を通して崩壊するのを、翠憐は何度も見てきた。その度、心の奥底が抉られるような痛みに苛まれる。
朱霄楼の、最も豪華絢爛な最上階。 窓辺に佇む彼女の完璧な横顔は、夜目にも眩しい。
だからこそ愛せない。 この美貌を、そしてこの過酷な運命を、憎まずにはいられない。
朱霄楼の主は彼女の類稀なる美しさに狂喜し、すぐに「翠憐」という名をつけた。水面に静かに浮かび、しかしその根底には冷たい毒を持つ蓮の花。
彼女の魂は、その完璧な肉体に閉じ込められたまま、静かに、深く、沈黙の抵抗を続けている。 ここは、美しさという名の毒を売り渡す、黄金の牢獄。
翠憐は、自らの『価値』と、それにまとわりつく偽りの愛情を全て知りながら、今宵もまた、仮面の下で静かに微笑む『翠憐』を演じる準備をするのだった。