存在しないはずの駅
真夜中の終電。
僕は指定された駅で降りた。
駅名は「霧ノ下(きりのした)」
そんな駅名、時刻表には載っていないはずだった。
乗る前にスマートフォンで路線図を何度も確認したのだ。
確かに、僕の目的地である「朝日ヶ丘(あさひがおか)」駅の二つ手前までは知っている駅名だった。
しかし、車内アナウンスは、「次は、霧ノ下〜」と、抑揚のない女性の声で告げたのだ。
車窓の外は濃い霧で何も見えなかったが、駅のホームだけは、蛍光灯の光でぼんやりと浮かび上がっていた。
他の乗客は誰一人降りる様子もなく、皆、死んだように眠りこけているか、虚ろな目をして前を見つめていた。
まるでこの駅が彼らにとっては透明な存在であるかのように。
僕は不思議に思いながらも、なぜか逆らうことなく、ふらふらとホームに降り立った。
僕が降りた瞬間、ドアが閉まり、電車は静かに、しかし驚くほど速く霧の中へと消えていった。
ホームに残されたのは僕一人。
肌寒い空気が頬を撫でた。
駅舎は古く、木造だった。
改札を抜けると、外はやはり濃い霧に包まれていた。
街灯の光すら、その先1メートルも届かない。
音もなく静まり返った世界。
僕は仕方なく、駅前にあった唯一の建物に足を踏み入れた。
古びた喫茶店「カフェ・ド・ファントム」と看板には書かれていた。
カウベルが鳴り、店内に入ると、マスターらしき白髪の老人がカウンターの中で新聞を読んでいた。
「いらっしゃい」
老人は新聞から目を離さずに言った。
「あの、すみません。ここから朝日ヶ丘駅まではどう行けばいいでしょうか?」
僕は尋ねた。
老人はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
その目は、まるで僕の存在自体が不思議であるかのように細められていた。
「……朝日ヶ丘駅?」
「はい。ここから次の駅ですよね?」
老人はふっと笑い、新聞を折りたたんだ。
「お兄さん、この駅には『次』も『前』もないよ。あるのは『今』だけだ」
僕は背筋が凍りついた。
老人はカウンターの向こうから、古びたメニュー表を差し出した。
「まずはコーヒーでも飲みなさい。ここのコーヒーは、忘れられない味がするよ」
僕は無言でカウンター席に座り、コーヒーを注文した。
コーヒーカップが目の前に置かれた。
湯気が立っている。
しかし、その香りは、コーヒー豆の香りではなく、どこか懐かしい、甘酸っぱい記憶のような匂いがした。
一口飲むと、僕の頭の中に、忘れていたはずの記憶がフラッシュバックした。
幼い頃に亡くした愛犬のこと、十年前に喧嘩別れした親友のこと、そして、ずっと蓋をしていた、未来への不安のこと。
このコーヒーは、記憶の味だった。
老人は静かに語り始めた。
「この『霧ノ下』駅はね、道に迷った人、何かを忘れた人、そして、まだ見ぬ未来に立ち尽くしている人が辿り着く場所だ。電車に乗っている間、みんな自分がどこへ向かっているのかを忘れてしまう。そして、降りるべき人が、自然とこの駅に降りるんだ」
「僕は……どうすればいいんですか?」
僕は震える声で尋ねた。
「さあね。このコーヒーを飲み干せば、霧が晴れるかもしれないし、さらに濃くなるかもしれない。それは、お兄さん次第だ」
僕はカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。
店を出ると、霧は少し薄くなっていた。
駅舎の向こうに、ぼんやりと線路が見える。
もう終電は行ってしまったはずなのに、遠くから列車のヘッドライトが見えた。
ゴオオオ……。
それは、僕が乗ってきた電車とは違う、古めかしい蒸気機関車だった。
駅のホームには止まらず、轟音を立ててそのまま走り去っていく。
僕は駅舎を振り返った。
「カフェ・ド・ファントム」も「霧ノ下駅」も、跡形もなく消えていた。
あるのは、草木が生い茂る、ただの廃線跡だけ。
僕は自分がどこにいるのか、どうやって帰ればいいのか分からなかった。
ただ、胸の中には、コーヒーが呼び覚ました、忘れていたはずの未来への希望が、確かに芽生えていた。
僕は霧の中、あてもなく歩き始めた。
この道がどこに続いているのかは分からない。
しかし、もう迷っていないような気がした。
僕は指定された駅で降りた。
駅名は「霧ノ下(きりのした)」
そんな駅名、時刻表には載っていないはずだった。
乗る前にスマートフォンで路線図を何度も確認したのだ。
確かに、僕の目的地である「朝日ヶ丘(あさひがおか)」駅の二つ手前までは知っている駅名だった。
しかし、車内アナウンスは、「次は、霧ノ下〜」と、抑揚のない女性の声で告げたのだ。
車窓の外は濃い霧で何も見えなかったが、駅のホームだけは、蛍光灯の光でぼんやりと浮かび上がっていた。
他の乗客は誰一人降りる様子もなく、皆、死んだように眠りこけているか、虚ろな目をして前を見つめていた。
まるでこの駅が彼らにとっては透明な存在であるかのように。
僕は不思議に思いながらも、なぜか逆らうことなく、ふらふらとホームに降り立った。
僕が降りた瞬間、ドアが閉まり、電車は静かに、しかし驚くほど速く霧の中へと消えていった。
ホームに残されたのは僕一人。
肌寒い空気が頬を撫でた。
駅舎は古く、木造だった。
改札を抜けると、外はやはり濃い霧に包まれていた。
街灯の光すら、その先1メートルも届かない。
音もなく静まり返った世界。
僕は仕方なく、駅前にあった唯一の建物に足を踏み入れた。
古びた喫茶店「カフェ・ド・ファントム」と看板には書かれていた。
カウベルが鳴り、店内に入ると、マスターらしき白髪の老人がカウンターの中で新聞を読んでいた。
「いらっしゃい」
老人は新聞から目を離さずに言った。
「あの、すみません。ここから朝日ヶ丘駅まではどう行けばいいでしょうか?」
僕は尋ねた。
老人はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
その目は、まるで僕の存在自体が不思議であるかのように細められていた。
「……朝日ヶ丘駅?」
「はい。ここから次の駅ですよね?」
老人はふっと笑い、新聞を折りたたんだ。
「お兄さん、この駅には『次』も『前』もないよ。あるのは『今』だけだ」
僕は背筋が凍りついた。
老人はカウンターの向こうから、古びたメニュー表を差し出した。
「まずはコーヒーでも飲みなさい。ここのコーヒーは、忘れられない味がするよ」
僕は無言でカウンター席に座り、コーヒーを注文した。
コーヒーカップが目の前に置かれた。
湯気が立っている。
しかし、その香りは、コーヒー豆の香りではなく、どこか懐かしい、甘酸っぱい記憶のような匂いがした。
一口飲むと、僕の頭の中に、忘れていたはずの記憶がフラッシュバックした。
幼い頃に亡くした愛犬のこと、十年前に喧嘩別れした親友のこと、そして、ずっと蓋をしていた、未来への不安のこと。
このコーヒーは、記憶の味だった。
老人は静かに語り始めた。
「この『霧ノ下』駅はね、道に迷った人、何かを忘れた人、そして、まだ見ぬ未来に立ち尽くしている人が辿り着く場所だ。電車に乗っている間、みんな自分がどこへ向かっているのかを忘れてしまう。そして、降りるべき人が、自然とこの駅に降りるんだ」
「僕は……どうすればいいんですか?」
僕は震える声で尋ねた。
「さあね。このコーヒーを飲み干せば、霧が晴れるかもしれないし、さらに濃くなるかもしれない。それは、お兄さん次第だ」
僕はカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。
店を出ると、霧は少し薄くなっていた。
駅舎の向こうに、ぼんやりと線路が見える。
もう終電は行ってしまったはずなのに、遠くから列車のヘッドライトが見えた。
ゴオオオ……。
それは、僕が乗ってきた電車とは違う、古めかしい蒸気機関車だった。
駅のホームには止まらず、轟音を立ててそのまま走り去っていく。
僕は駅舎を振り返った。
「カフェ・ド・ファントム」も「霧ノ下駅」も、跡形もなく消えていた。
あるのは、草木が生い茂る、ただの廃線跡だけ。
僕は自分がどこにいるのか、どうやって帰ればいいのか分からなかった。
ただ、胸の中には、コーヒーが呼び覚ました、忘れていたはずの未来への希望が、確かに芽生えていた。
僕は霧の中、あてもなく歩き始めた。
この道がどこに続いているのかは分からない。
しかし、もう迷っていないような気がした。
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