病室の時計は、音を立てなかった。
正確には、秒針は動いているはずなのに、澪には進んでいないように見えた。
朝と夜の区別は、看護師が来るかどうかだけで判断する。
食事のトレーが置かれ、下げられ、また置かれる。
その繰り返しの中で、澪は少しずつ現実感を失っていった。
眠っても、休まらない。
目を閉じると、ステージの照明が浮かぶ。
歓声が、期待が、失敗した瞬間の空白が、順番もなく押し寄せる。
――次は、どうなる?
その問いが、何度も頭に浮かぶ。
答えは出ない。
出ないのに、考えるのをやめられない。
身体は横になっているのに、脳だけが走り続けていた。
「考えすぎるとさ」
隣から、叶音の声がした。
カーテン越しで、姿は見えない。
「自分が自分じゃなくなる感じ、しない?」
澪は、一瞬言葉に詰まった。
それは、今まさに感じていることだった。
「……する」
小さな声だった。
でも、確かに音になった。
「だよね。私も最初、怖かった」
叶音の声は、淡々としている。
慣れてしまった人の声だった。
「何もしない時間って、心の中を全部引きずり出すから」
澪は、その言葉を噛みしめる。
何もしない。
それは休息のはずだった。
でも実際は、逃げ場を失うことだった。
ここでは、笑顔を作らなくていい。
頑張っているふりをしなくていい。
でもその代わり、
「何者でもない自分」から目をそらせない。
夜、消灯後。
病室は音を飲み込む。
カーテンの向こうで、誰かが寝返りを打つ気配。
廊下を遠くで歩く足音。
それだけで、心臓が跳ねる。
――私は、もう終わった人間なんじゃないか。
そんな考えが、突然浮かぶ。
否定しようとするほど、輪郭がはっきりする。
ステージに立てない。
歌えない。
期待に応えられない。
それでも、時間は進む。
自分だけが取り残されている感覚が、
じわじわと恐怖に変わっていった。
澪は、布団の中で指を強く握った。
感覚を確かめるみたいに。
――私は、ここにいる。
そう思おうとした瞬間、
逆に不安が広がった。
ここにいるだけで、いいのか。
ここにいる意味は、あるのか。
考えが堂々巡りになる。
止めようとすればするほど、深く沈む。
そのとき、カーテン越しに紙の擦れる音がした。
叶音が、何かを書いているらしい。
「……それ、何してるの?」
澪がそう聞くと、少し間があって返事が来た。
「書いてる。頭の中、外に出さないと壊れそうだから」
その言葉に、澪の胸がざわついた。
壊れる。
その表現が、やけに現実味を帯びて聞こえた。
「書くとね、少しだけ“自分”が戻ってくるんだよ」
澪は、天井を見つめたまま、目を閉じる。
頭の中は、相変わらずうるさい。
でも、その騒音の中に、
小さな逃げ道が見えた気がした。
――このままじゃ、だめだ。
何が「だめ」なのかは、まだわからない。
それでも、
考え続けるだけの夜より、
何かを外に出す夜の方が、まだましだと思えた。
白い病室の中で、
澪の恐怖は、静かに形を変え始めていた。
正確には、秒針は動いているはずなのに、澪には進んでいないように見えた。
朝と夜の区別は、看護師が来るかどうかだけで判断する。
食事のトレーが置かれ、下げられ、また置かれる。
その繰り返しの中で、澪は少しずつ現実感を失っていった。
眠っても、休まらない。
目を閉じると、ステージの照明が浮かぶ。
歓声が、期待が、失敗した瞬間の空白が、順番もなく押し寄せる。
――次は、どうなる?
その問いが、何度も頭に浮かぶ。
答えは出ない。
出ないのに、考えるのをやめられない。
身体は横になっているのに、脳だけが走り続けていた。
「考えすぎるとさ」
隣から、叶音の声がした。
カーテン越しで、姿は見えない。
「自分が自分じゃなくなる感じ、しない?」
澪は、一瞬言葉に詰まった。
それは、今まさに感じていることだった。
「……する」
小さな声だった。
でも、確かに音になった。
「だよね。私も最初、怖かった」
叶音の声は、淡々としている。
慣れてしまった人の声だった。
「何もしない時間って、心の中を全部引きずり出すから」
澪は、その言葉を噛みしめる。
何もしない。
それは休息のはずだった。
でも実際は、逃げ場を失うことだった。
ここでは、笑顔を作らなくていい。
頑張っているふりをしなくていい。
でもその代わり、
「何者でもない自分」から目をそらせない。
夜、消灯後。
病室は音を飲み込む。
カーテンの向こうで、誰かが寝返りを打つ気配。
廊下を遠くで歩く足音。
それだけで、心臓が跳ねる。
――私は、もう終わった人間なんじゃないか。
そんな考えが、突然浮かぶ。
否定しようとするほど、輪郭がはっきりする。
ステージに立てない。
歌えない。
期待に応えられない。
それでも、時間は進む。
自分だけが取り残されている感覚が、
じわじわと恐怖に変わっていった。
澪は、布団の中で指を強く握った。
感覚を確かめるみたいに。
――私は、ここにいる。
そう思おうとした瞬間、
逆に不安が広がった。
ここにいるだけで、いいのか。
ここにいる意味は、あるのか。
考えが堂々巡りになる。
止めようとすればするほど、深く沈む。
そのとき、カーテン越しに紙の擦れる音がした。
叶音が、何かを書いているらしい。
「……それ、何してるの?」
澪がそう聞くと、少し間があって返事が来た。
「書いてる。頭の中、外に出さないと壊れそうだから」
その言葉に、澪の胸がざわついた。
壊れる。
その表現が、やけに現実味を帯びて聞こえた。
「書くとね、少しだけ“自分”が戻ってくるんだよ」
澪は、天井を見つめたまま、目を閉じる。
頭の中は、相変わらずうるさい。
でも、その騒音の中に、
小さな逃げ道が見えた気がした。
――このままじゃ、だめだ。
何が「だめ」なのかは、まだわからない。
それでも、
考え続けるだけの夜より、
何かを外に出す夜の方が、まだましだと思えた。
白い病室の中で、
澪の恐怖は、静かに形を変え始めていた。