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ステージの下で呼吸する

#5

本番という名の密室

本番当日の朝、天城澪は目覚めた瞬間からおかしかった。
目は開いているのに、現実に触れている感覚が薄い。
天井が遠く、身体は鉛みたいに重い。
起き上がろうとすると、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
息を吸う。
途中で止まる。
もう一度吸おうとしても、身体がそれを拒む。
――まずい。
そう思った瞬間、心拍が跳ね上がった。
鼓動がうるさい。
まるで「気づくな」と言われているみたいだった。
それでも、澪は現場に向かった。
行かなければならない理由が、恐怖よりも先に来る。
行かない選択肢は、最初から存在していなかった。
楽屋は白く、静かで、妙に狭く感じた。
メイクの匂い。照明の熱。
すべてが圧迫してくる。
黒瀬が何か話しかけていたが、内容が頭に入らない。
言葉が膜越しに聞こえる。
自分だけ、透明な箱に閉じ込められているみたいだった。
[明朝体]「澪、顔色が——」[/明朝体]
その言葉が終わる前に、スタッフが扉を開けた。
[明朝体]「本番五分前です」[/明朝体]
逃げ道が、音を立てて閉じた。
衣装に着替え、マイクを持つ。
手が冷たい。
震えているのが、はっきりわかる。
ステージ袖に立った瞬間、歓声が押し寄せてきた。
期待。視線。信頼。
それらが全部、澪に向けられている。
[小文字]――応えなきゃ。[/小文字]
そう思った瞬間、頭の中が真っ白になった。
歌詞が、旋律が、すべて抜け落ちる。
イントロが流れる。
ライトが当たる。
カメラが寄る。
息を吸う。
吸えない。
喉が閉じる感覚。
空気があるのに、ない。
身体が「ここは危険だ」と叫んでいる。
それでも口を開く。
出たのは、音にならない息だけだった。
視界の端で、メンバーがこちらを見る。
ほんの一瞬の、その視線。
それが永遠みたいに長く感じた。
――失敗した。
その認識が脳に届いた瞬間、
世界が傾いた。
床が近づく。
照明が歪む。
音が水の中みたいにくぐもる。
倒れる直前、澪は思った。
――やっと、終われる。
意識が途切れる寸前、
歓声が悲鳴に変わった気がした。
次に目を開けたとき、天井は知らない白だった。
身体は動かない。
マイクの重さも、ステージの熱も、もうない。
代わりに残っていたのは、
「戻れない」という、はっきりした感覚だけだった。

2026/01/05 20:42


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