言えなかった、ただそれだけ。
最初に、二人はただ隣にいただけだった。
特別な始まりはなかった。運命的な出会いも、ドラマみたいな告白もない。ただ、同じ時間に同じ場所にいて、気づいたら、そこに相手がいるのが当たり前になっていただけだ。
彼女は、誰かと一緒にいるのが得意な人間じゃなかった。誰かを好きになると、自分が壊れてしまう気がして、距離を保つ癖があった。彼も同じだった。踏み込まれすぎると息ができなくなる。だから二人は、近づかないことで、関係を保っていた。
それでも、気持ちは勝手に育った。止めようとしても、雑草みたいに隙間から伸びてくる。目が合えば嬉しくて、声を聞けば安心して、帰り道に一人になると、少しだけ寂しくなる。そんな感情に名前をつけなかったのは、臆病だったからじゃない。名前をつけた瞬間、選択を迫られるのが怖かったからだ。
いつからか、彼は無理をするようになった。笑顔が長く続かない。咳をしても、背中を向けて隠す。彼女は気づいていた。でも、聞かなかった。聞いてしまったら、今までと同じ時間が壊れる気がした。
彼が倒れたと聞いたのは、彼女がいない場所だった。
病院に行くべきか、迷った。行く資格があるのか分からなかった。恋人でも、家族でもない。ただ、隣にいただけの存在。そんな自分が、彼のベッドの横に立っていいのか、答えが出なかった。
結局、行かなかった。その選択が、彼女の中で一生残ることになるとも知らずに。
彼は入院した。直接会うことはなくなり、短い連絡だけが続いた。文章は明るく、軽かった。それが余計につらかった。本当のことを書いていないと、分かっていたからだ。
彼女は、何度も「会いたい」と書きかけて、消した。その言葉は、彼を縛る鎖になる気がした。代わりに「寒くなったね」とか、「桜が咲きそうだよ」とか、どうでもいい言葉だけを送った。
ある日、連絡が途切れた。
一日、二日、三日。時間が伸びるほど、胸の中に黒いものが溜まっていく。嫌な想像ばかりが浮かぶくせに、確認する勇気はなかった。もし終わっていたら、知ってしまったら、もう何も戻らない。
数日後、共通の知人から知らされた。彼は、もういないと。
その瞬間、彼女は泣かなかった。頭が真っ白になって、感情が置き去りになった。現実感がなくて、まるで誰かの話を聞いているみたいだった。
葬儀には行った。後ろの席で、静かに。彼の名前が呼ばれても、涙は出なかった。ただ、「間に合わなかった」という言葉だけが、胸の中で何度も反響していた。
数日後、彼女のもとに封筒が届いた。彼の字だった。震えていて、でも、確かに彼の文字だった。
中には、短い手紙が入っていた。
――会いに来なくてよかった。
君が来たら、きっと笑ってしまって、ちゃんと別れが言えなかった。
君と過ごした時間は、人生で一番、静かで、安心していた。
名前のない関係のままでいられたことが、救いだった。
最後に、こう書いてあった。
――ちゃんと生きて。
君が前を向くなら、それでいい。
読み終えた瞬間、彼女の中で、何かが壊れた。
声が出なくて、床に座り込んだ。涙は遅れてやってきた。止まらなかった。泣いても、呼んでも、もう返事はない。その当たり前の事実が、胸を引き裂いた。
彼女は、初めて気づいた。
自分は、彼を失ったのではない。
最初から、ちゃんと掴もうとしなかったのだと。
時間は流れた。彼女は生きている。笑うこともある。でも、ふとした瞬間、彼のいない世界が現実だと突きつけられる。隣にいないことが、永遠になったことを思い知る。
それでも彼女は歩く。
あのとき言えなかった言葉を、胸にしまったまま。
好きだった。
それだけは、間違いない。
言わなかった恋は、終わらない。
終わらないまま、彼女の人生に、静かに残り続ける。
特別な始まりはなかった。運命的な出会いも、ドラマみたいな告白もない。ただ、同じ時間に同じ場所にいて、気づいたら、そこに相手がいるのが当たり前になっていただけだ。
彼女は、誰かと一緒にいるのが得意な人間じゃなかった。誰かを好きになると、自分が壊れてしまう気がして、距離を保つ癖があった。彼も同じだった。踏み込まれすぎると息ができなくなる。だから二人は、近づかないことで、関係を保っていた。
それでも、気持ちは勝手に育った。止めようとしても、雑草みたいに隙間から伸びてくる。目が合えば嬉しくて、声を聞けば安心して、帰り道に一人になると、少しだけ寂しくなる。そんな感情に名前をつけなかったのは、臆病だったからじゃない。名前をつけた瞬間、選択を迫られるのが怖かったからだ。
いつからか、彼は無理をするようになった。笑顔が長く続かない。咳をしても、背中を向けて隠す。彼女は気づいていた。でも、聞かなかった。聞いてしまったら、今までと同じ時間が壊れる気がした。
彼が倒れたと聞いたのは、彼女がいない場所だった。
病院に行くべきか、迷った。行く資格があるのか分からなかった。恋人でも、家族でもない。ただ、隣にいただけの存在。そんな自分が、彼のベッドの横に立っていいのか、答えが出なかった。
結局、行かなかった。その選択が、彼女の中で一生残ることになるとも知らずに。
彼は入院した。直接会うことはなくなり、短い連絡だけが続いた。文章は明るく、軽かった。それが余計につらかった。本当のことを書いていないと、分かっていたからだ。
彼女は、何度も「会いたい」と書きかけて、消した。その言葉は、彼を縛る鎖になる気がした。代わりに「寒くなったね」とか、「桜が咲きそうだよ」とか、どうでもいい言葉だけを送った。
ある日、連絡が途切れた。
一日、二日、三日。時間が伸びるほど、胸の中に黒いものが溜まっていく。嫌な想像ばかりが浮かぶくせに、確認する勇気はなかった。もし終わっていたら、知ってしまったら、もう何も戻らない。
数日後、共通の知人から知らされた。彼は、もういないと。
その瞬間、彼女は泣かなかった。頭が真っ白になって、感情が置き去りになった。現実感がなくて、まるで誰かの話を聞いているみたいだった。
葬儀には行った。後ろの席で、静かに。彼の名前が呼ばれても、涙は出なかった。ただ、「間に合わなかった」という言葉だけが、胸の中で何度も反響していた。
数日後、彼女のもとに封筒が届いた。彼の字だった。震えていて、でも、確かに彼の文字だった。
中には、短い手紙が入っていた。
――会いに来なくてよかった。
君が来たら、きっと笑ってしまって、ちゃんと別れが言えなかった。
君と過ごした時間は、人生で一番、静かで、安心していた。
名前のない関係のままでいられたことが、救いだった。
最後に、こう書いてあった。
――ちゃんと生きて。
君が前を向くなら、それでいい。
読み終えた瞬間、彼女の中で、何かが壊れた。
声が出なくて、床に座り込んだ。涙は遅れてやってきた。止まらなかった。泣いても、呼んでも、もう返事はない。その当たり前の事実が、胸を引き裂いた。
彼女は、初めて気づいた。
自分は、彼を失ったのではない。
最初から、ちゃんと掴もうとしなかったのだと。
時間は流れた。彼女は生きている。笑うこともある。でも、ふとした瞬間、彼のいない世界が現実だと突きつけられる。隣にいないことが、永遠になったことを思い知る。
それでも彼女は歩く。
あのとき言えなかった言葉を、胸にしまったまま。
好きだった。
それだけは、間違いない。
言わなかった恋は、終わらない。
終わらないまま、彼女の人生に、静かに残り続ける。
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