【カウントダウン投稿#17】0秒のスタートライン
スタジアムの床は白く、静かだった。
観客席に人はいる。だが、歓声はない。ここでは試合前の沈黙が、最も重要な準備だからだ。
この競技は「同時走」と呼ばれている。
百人が横一列に並び、合図と同時に走り出す。ただそれだけだ。ゴールも順位もない。記録されるのは、最初の一歩にかかった時間だけ。
ゼロ秒にどれだけ近づけるか。
それがすべてだった。
参加者は年齢も職業もばらばらだ。
学生、研究者、配送員、主婦、引退した元選手。共通点はひとつだけ。全員が「一歩目」を意識しすぎて、普通に歩くことができなくなった経験を持っている。
スタートラインに立つと、足の裏が床に吸い付くような感覚がある。
動きたいのに、動けない。
その一瞬を、機械が測る。
公式記録は公開されない。
比較されることを目的とした競技ではないからだ。
「今日はどうですか」
隣に立つ人が、小声で話しかけてきた。
顔は見ない。ルールで決まっている。
「昨日よりは、軽いです」 「それなら、たぶん大丈夫」
この競技に「大丈夫」の定義はない。
それでも、誰かにそう言われるだけで、足の力が少し抜ける。
合図は光だ。
音では、人の反応が遅れる。
床の端に設置されたランプが点灯する。
次の瞬間、百人が同時に前へ踏み出す。
走る必要はない。
一歩でいい。
だがその一歩が、思っている以上に遠い。
過去の自分が、足首をつかむ。
失敗した場面、躊躇した瞬間、判断が遅れた記憶。
それらすべてが、床の上に重なっている。
それでも、踏み出す。
競技が終わると、各自の端末に数値が表示される。
他人の記録は見えない。
見えるのは、自分の「一歩目」だけだ。
今日の数値は、昨日よりわずかに良かった。
誤差の範囲と言われれば、それまでの差だ。
だが、胸の奥が少しだけ静かだった。
控室では、誰も結果について話さない。
代わりに、今日の天気や帰りの交通手段の話をする。
「また来ますか」 「たぶん」
それで十分だった。
この競技が生まれた理由は単純だ。
社会が速くなりすぎた。
判断、決断、選択、そのすべてが「すぐ」に求められる。
だから、人は一歩目を失う。
踏み出す前に、考えすぎてしまう。
同時走は、それを思い出させる。
考えたあとではなく、考える前に体が動く感覚を。
スタジアムを出ると、夕方の風が吹いていた。
信号が変わり、横断歩道を渡る。
今日は、足が止まらなかった。
それだけで、この競技に参加した意味はあった。
順位はない。
勝者もいない。
あるのは、次の一歩が少し軽くなることだけだ。
観客席に人はいる。だが、歓声はない。ここでは試合前の沈黙が、最も重要な準備だからだ。
この競技は「同時走」と呼ばれている。
百人が横一列に並び、合図と同時に走り出す。ただそれだけだ。ゴールも順位もない。記録されるのは、最初の一歩にかかった時間だけ。
ゼロ秒にどれだけ近づけるか。
それがすべてだった。
参加者は年齢も職業もばらばらだ。
学生、研究者、配送員、主婦、引退した元選手。共通点はひとつだけ。全員が「一歩目」を意識しすぎて、普通に歩くことができなくなった経験を持っている。
スタートラインに立つと、足の裏が床に吸い付くような感覚がある。
動きたいのに、動けない。
その一瞬を、機械が測る。
公式記録は公開されない。
比較されることを目的とした競技ではないからだ。
「今日はどうですか」
隣に立つ人が、小声で話しかけてきた。
顔は見ない。ルールで決まっている。
「昨日よりは、軽いです」 「それなら、たぶん大丈夫」
この競技に「大丈夫」の定義はない。
それでも、誰かにそう言われるだけで、足の力が少し抜ける。
合図は光だ。
音では、人の反応が遅れる。
床の端に設置されたランプが点灯する。
次の瞬間、百人が同時に前へ踏み出す。
走る必要はない。
一歩でいい。
だがその一歩が、思っている以上に遠い。
過去の自分が、足首をつかむ。
失敗した場面、躊躇した瞬間、判断が遅れた記憶。
それらすべてが、床の上に重なっている。
それでも、踏み出す。
競技が終わると、各自の端末に数値が表示される。
他人の記録は見えない。
見えるのは、自分の「一歩目」だけだ。
今日の数値は、昨日よりわずかに良かった。
誤差の範囲と言われれば、それまでの差だ。
だが、胸の奥が少しだけ静かだった。
控室では、誰も結果について話さない。
代わりに、今日の天気や帰りの交通手段の話をする。
「また来ますか」 「たぶん」
それで十分だった。
この競技が生まれた理由は単純だ。
社会が速くなりすぎた。
判断、決断、選択、そのすべてが「すぐ」に求められる。
だから、人は一歩目を失う。
踏み出す前に、考えすぎてしまう。
同時走は、それを思い出させる。
考えたあとではなく、考える前に体が動く感覚を。
スタジアムを出ると、夕方の風が吹いていた。
信号が変わり、横断歩道を渡る。
今日は、足が止まらなかった。
それだけで、この競技に参加した意味はあった。
順位はない。
勝者もいない。
あるのは、次の一歩が少し軽くなることだけだ。
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