文字サイズ変更

コップの底

 コップの水は、一度こぼれたら二度と元には戻らない。
 それを“心”だと思うと、妙にしっくりくる──そんなことを、僕はいつから考えるようになったんだろう。

 最初に水がこぼれたのは、きっとあの日だ。
 親友だと思っていた奴が、僕のいないところで「アイツは扱いづらい」なんて笑っていた。
 帰り道、胸のあたりがざわざわして、何かがポタリと落ちる感覚がした。

 それだけなら、まだよかった。
 小さなこぼれだ。拭けば済む。
 でも、人って案外うまく拭けないらしい。

 次にこぼれたのは、恋人から来なかった返信だった。
 理由なんてどうでもよかった。ただ、スマホの画面を見つめる時間だけが増えていき、その間にまた水が一滴落ちた。
 そしてまた一滴。
 気づかれないほど小さな音で、少しずつ確実に。

 学校の笑い声、すれ違いざまの視線、誰かのため息。
 それら全部が、僕のコップを揺らした。

 気づけば僕は、人との距離をとるようになっていた。
 これ以上こぼさないためだった。
 けれど皮肉なことに、距離をとればとるほど、コップの中の水は減っていった。
 「自分を守る」という名目で誰かとの繋がりを断つたび、僕は自分の心を少しずつこぼしていたのだ。

 ある日、ほとんど空っぽになったコップを抱えて教室に入ると、クラスのほんの些細な会話が耳に入った。

「最近のアイツ、なんか冷たくない?」

 笑いながら言っただけの言葉。
 傷つける気なんてなかったのだろう。
 でも、その瞬間──僕のコップから、最後の一滴が落ちた。

 胸の中の“水が落ちる音”は、意外にも静かだった。
 ドクン、とも、カラン、とも違う。
 ただ、ふっと、何かが抜けるような。

 僕はそのまま、誰にも気づかれず席に座った。
 黒板の文字は意味を成さない。
 先生の声は遠い。
 世界がぼやけて、透明になっていく。

 そういえば、水って透明だよな。
 空っぽになれば、僕もこうなるのかもしれない。

 帰り道、夕陽が街を金色に染めていた。
 ポケットの中で、空のコップを握りしめるような気持ちで歩く。
 けれど、そのコップに水は戻らない。
 注いでくれる誰かがいたとしても、僕はもう受け取る場所を失っていた。

 立ち止まってふと空を見る。
 薄い雲が流れていく。
 その軽さが、どこか羨ましかった。

「……もう、いいよ」

 誰に向けたわけでもない言葉が漏れた。
 戻らないものを探すのはやめよう。
 失った水の重さを、何度も確かめるのもやめよう。

 僕は歩き出す。
 音のしないコップを抱えたまま。
 すでに空っぽの心を、なるべく揺らさないように。

作者メッセージ

いつもと違う感じです

2025/12/08 20:00

愛麗ちゃん@ありがとう
ID:≫ 1.6ekCz9QCfE6
コメント

クリップボードにコピーしました

この小説につけられたタグ

通報フォーム

お名前
(任意)
Mailアドレス
(任意)

※入力した場合は確認メールが自動返信されます
違反の種類 ※必須 ※ご自分の小説の削除依頼はできません。
違反内容、削除を依頼したい理由など※必須

盗作されたと思われる作品のタイトル

どういった部分が元作品と類似しているかを具体的に記入して下さい。

※できるだけ具体的に記入してください。

《記入例》
・3ページ目の『~~』という箇所に、禁止されているグロ描写が含まれていました
・「〇〇」という作品の盗作と思われます。登場人物の名前を変えているだけで●●というストーリーや××という設定が同じ
…等

備考欄
※伝言などありましたらこちらへ記入
メールフォーム規約」に同意して送信しますか?※必須
タイトル
URL

この小説の著作権は愛麗ちゃん@ありがとうさんに帰属します

TOP