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オタクは今日も恋をする

#30

もう、そんな時期か

 冬が終わり、春が近づいてきた。まだ冬の名残があるけれど、空気は暖かくなってきた気がする。そんなある朝、先生が普段通り、教卓に立ち、少しだけ笑みを浮かべた。
「約一ヶ月で、あなたたちは卒業します。なので、卒業準備をしたいと思います」
 その言葉に、教室の空気がふっと変わった。卒業。どこか他人事のように感じていたその言葉が、急に現実味が出てきたように感じた。
「先生、卒業準備って何をするんですか?」と、光くんが元気な声で手を挙げる。
「簡単に言うと、遊びます」
一瞬、耳を疑った。遊ぶの? 本当に、と心の中で思わず呟く。荷物整理や、教室の大掃除、そういうのではないのか。
 先生は生徒たちのざわつきにも動じず、軽く頷いた。
「倉庫に入っている器具で自由に遊んでもいいです。ただし、怪我には十分気をつけてください」
本当に遊ぶらしい。
 その瞬間、教室にわっと声が上がった。浮き足立つ空気に包まれて、みんなが急にソワソワし出す。だけど私は少しだけ戸惑っていた。何をしたらいいか、すぐには思いつかなかったからだ。
 そんな中で慎二くんが、隣に座る私に静かに尋ねた。
「結月、何する?」
「私は……何でも……。慎二くんはどう?」
「俺は何でもいい」
本当はバドミントンがやりたい。シャトルを追いかけて風の中を走るのが好きなのだ。だけど、自分の意見を言うのが怖かった。
「わ、私も」
気づけば、声が小さくなっていた。まるで、誤魔化すような口調のようだった。だけど、慎二くんは、じっと私の目を見つめて言った。
「結月、正直に言って。俺は絶対に結月の考えを否定しない」
その言葉はまっすぐで、まるで私の心の奥を見透かされたようだった。隠していた気持ちが、ふいに浮かび上がってくる。
「……じゃあ……バドミントンがいいかな……」
 すると、「お、いいな」と後ろから声がした。
振り返ると光くんと淳司くんと明くんの三人がニコニコ笑いながら立っていた。
「慎二、俺たちも混ぜてよ」
「うん、いいよ」
「そうすると……奇数になっちゃう」
慎二くんが私の方を向いて、ふと思いついたように言った。
「結月は得意なのか?」
「プロ程ではないけれど、得意」
「じゃあ、俺と結月。で、光と淳司と明でいいか?」
「オッケー!」
 試合が始まる。風が心地よく吹き抜ける校庭。シャトルが空を切って舞う音、ラケットが空を切る音、笑い声。何もかもが、特別に思えた。この時間がずっと続けばいいのにな、と思った。
 慎二くんと私は、息を合わせて動いた。どちらかが前に出れば、もう一人が後ろをカバーする。シャトルが高く打ち上がったその瞬間──
パーン!
鋭い音とともにシャトルが遠くへ飛んでいった。試合が終わった。
「やったー!」
 思わず跳ねるように声を上げると、光くんたちは肩を落としていた。
「負けた……」
でも、みんな笑っていた。
 楽しい時間が終わり、教室に戻った。
「遊び終わったので、本題の卒業準備に移りたいと思います」
なんとなく予想していた通りの展開だった。けれど、胸の奥が少しだけざわつく。
「まず、卒業式に歌う曲の伴奏から決めます。してくれる人は手を挙げてください」
静まり返った教室。誰も手を挙げない。沈黙の中で、私は両手を開き、自分の手を見つめた。
私はピアノが好きだ。ずっと習っていたし、弾くのも楽しい。でも、「伴奏」はやったことがない。
──そもそも、やらせてもらえなかった。

 合唱コンクールの時、伴奏を募集していた。私はやりたかったので、思い切って手を挙げた。だけど、別の子が元気よく手を挙げて──
「はいっ!」
「じゃあ、○○ちゃんに決定!」
 私は見向きもされなかった。その時、何も言えなかった自分に腹が立った。無力な自分に、泣きたくなった。

 こんな私が立候補していいのかだろうか。
誰かに嫌われていたら? 「またあの子か」って思われたら?
不安が心を支配していく。
 その時だった。手を挙げようか迷っている私に気づいていたかのように慎二くんが言った。
「挙げなよ。迷ってるんだろ?」
「でも──」
嫌われていたらどうしようと言いかけたが、慎二がすぐに、「結月は嫌われてない。大丈夫」と、考えていた事が分かったかのように言った。
私の胸の奥がじんと温かくなった。
「……うん。分かった。挙げてみる」
私は力強く頷いてから、「はいっ!」と真っ直ぐに手を挙げた。
慎二くんが微笑んだ。優しくて、あったかくて、心がふわっと軽くなるような笑顔で。
私の魂は抜けた。

「はい、これが楽譜」
楽譜を受け取って、慎二くんにこう言った。
「帰ってピアノの練習しないといけないから今日は早く帰るね」
「分かった。頑張れよ」
私はうなずき、譜面を胸に抱えて駆け出した。
 家に帰って音を立てながら階段を上り、早速練習した。
ピアノの前に座り、深呼吸して、鍵盤に指を置いた。
難しい。でも、楽しい。だから、私はピアノがやめられない。
「結月ー。ご飯だよー」と下の階から母の声が聞こえた。
「はーい!」
私は鍵盤の上から手を離し、バタバタと音を立てて階段を降りていった。

作者メッセージ

サボっててごめん
体調不良。
でも凝ったからね

2025/06/05 16:17

貴志柚夏
ID:≫ 14ODATaJ5tCFM
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