或る日ラジオを聴いていたら〜チャーチルと私〜
或る日、ラジオを聴いていた。車の中で。
雨が車体を叩きつける音は、一定のリズムを刻む。
それはエンジンの低音と相まって、素晴らしい演奏をしているみたいだ。
車のスピーカーから聞こえてくるラジオの女性アナウンサーの声は、それにかき消されて少しばかり聞き取りづらい。
フロントガラスに雨が叩きつけられ、物の輪郭がボヤける。ワイパーが機械的に動くと、灰色の厚く立ち込めた雲が鮮明に見えた。
私は、私はこのままでいいのだろうか。
そんな思いが頭の中で、5週も10週もする。
ずっと考えていた。
なにかを変えたくて家を飛び出し、車を思いのままに走らせた。
でも、何も見つけられないまま、時間だけが私を嘲笑うように過ぎていく。
生来、私は人と関わることが苦手だ。青春は、全て勉強に費やした。おかげでいい大学に入る事ができ、いい会社に就職した。安定した収入と適切な労働時間。
それがなんだ。それが、私の人生を豊かにしてくれるのか?
会社では浮いていて、飲み会に付き合えなくて、同窓会に行っても一人ぼっちの私は、どうすればいい?
フロントガラスの向こう側には、より一層墨を流したように暗くなった空が、無限に広がっている。
空いている一本道を駆け抜けようとアクセルを
グッと踏み込む。その時、この場にそぐわない、やけに明るい音楽と、女性アナウンサーの声が聞こえた。
「時刻が午後3時を回りました。ここからは新コー
ナー『偉人と語る』の時間です!」
勉強一筋だった私の、唯一の趣味は歴史だった。
歴史だけは、勉強していて楽しかった記憶がある。
私はあの時の妙な高揚感を思い出し、少しラジオの音量を上げた。
「このコーナーでは、最新のAIに行動、演説、手紙、逸話などの生前の言動を学習させて、スタジオに完全再現した偉人と共に、リスナーからのお悩みを解決していきます」
私の関心が完全に、ラジオに持っていかれる。鮮明に聞こえるよう、もっと音量を上げた。
「さて、記念すべき第一回目のゲストはイギリスの元首相、ウィンストン・チャーチルさんです!」
聞き馴染みしかない人名を聞いて、雨の音をかき消すように、さらに音量を上げていく。
「チャーチルさん、本日はよろしくお願いします!」
「うむ。よろしく頼むよ」
彼の性格をそのまま反映したかのような、傲岸不遜な話し方。低く、少ししゃがれているが、その中に、威厳とユーモアを潜ませている。
AIがつくった音声だと言われなければ、本当に
チャーチルが話しているようだ。
「ところで、葉巻を1本くれんかね?」
「葉巻を所望するなんて、さすがですね!ですが、スタジオの関係で、それはできないんですよ」
チャーチルの愛用は確か、キューバ葉巻だったけ。懐かしい記憶を掘り起こして、1人笑う。
こんなこと、まだ覚えてたんだ。とっくに忘れてると思ってた。
「そうか。それは残念だ。アレがないと、どうしても頭のキレがちょっと鈍ってしまってね」
向こう側から聞こえてくる彼のぼやきに、私は思わず小さく吹き出した。
本当に教科書に載っていた通り、偏屈で、毒舌で、でもどこか憎めない老政治家の姿が、フロントガラスに打ちつける雨の向こう側に浮かんでくるようだ。
「いやー、すいません。さて、それはさておき、早速本題に入っていきましょう!」
ラジオの楽しみはやっぱりこれだ。だんだん複雑に、交通量の多くなる道路を、でたらめに走らせながら思った。
「それでは、本日最初のお悩み相談です。ラジオネーム、トースターさんから。『毎朝、朝食のトーストにバターとジャム、どちらを塗るか本気で悩んでしまい、いつも遅刻ギリギリになってしまいます。即決できるようになりたいです。コツを教えてください』だそうです」
それを聞いた瞬間、私はその軽さと落差にずっこけた。
⋯⋯なんて、平和なお悩みなんだろう。私は今、自分の人生に悩んでいるというのに。ただ闇雲にアクセルとブレーキを交互に踏み、途方に暮れている私とは、一番縁のない話のような気がした。
だいたい、せっかくチャーチルが答えてくださるとのだから、もっとマシな悩みはなかったのだろうか。
少し白けた気分になってアクセルを踏む足を緩め、ラジオの音量を下げようと手を伸ばす。
その時、チャーチルが真面目に考え込むように咳払いをした。手が虚空でピタリと止まる。
「トースト上の領土問題か。ふむ。実に悩ましい問題だ」
いやいやいや、待て待て待て。悩ましいか?どっちを塗るかの問題だけなのに?だいたい「トースト上の領土問題」って、どんな問題だよ!
そんな私の渾身の心のツッコミを無視して、
チャーチルは第二次世界大戦の戦況を分析するように低い声で語り始めた。
「バターの持つ伝統的な包容力と、ジャムがもたらす一時の芳醇な甘み。どちらも魅力的であり、選択に苦渋を味わうのは当然のことだ。しかしな、トースターくん。君の真の問題は、トーストの上にあるのではない」
スピーカーの声に威厳が宿る。音量を上げていないのに、雨音がすっと遠ざかる。
「君は、失敗を恐れているのだ。バターを選んで、後から『やっぱりジャムにすればよかった』と思う自分を恐れている。その結果、遅刻寸前という最悪の敗北を喫しているのではないかね?」
ドキッと、心拍数が跳ね上がった。
チャーチルの言葉が、私の胸に突き刺さる。
「決断とは、常にリスクを伴うものだ。完璧な選択など、最初から存在しない。大切なのは、選んだ後にそれを『正解』にすることだ。バターを選んだなら、その濃厚さを全力で味わえばいい。もし物足りなければ、明日はジャムにすればいいだけの話だ。一歩を踏み出さずに立ち尽くしていることこそが、最大の過ちなのだよ」
それは、ラジオの向こうにいる相談者に対しての言葉のはずなのに、私の心を深くえぐる。
私の頭の中で、ここ数年間の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
周囲に馴染めず、浮いている自分。飲み会を断っては「これで良かったのだろうか」と悩み、同窓会で孤立しては「行くべきではなかった」と後悔する。
私はずっと、誰からも非難されない「完璧な選択」を探し続けていた。失敗して傷つくのが怖くて、自分の殻に閉じこもり、何も選ばずに立ち尽くしていたのだ。
ワイパーが規則的な機械音を立てて、フロントガラスに溜まった雨粒を弾いた。
巨大なビルやマンションなどの建物が、行く手を遮るように立ち並ぶのが鮮明に見えたが、それはすぐに強くなってきた雨によって隠される。
「おお!名言ですね!『選んだものを正解にする』。トースターさん、明日からは迷わずに自分の直感を信じて選んでみてください!」
「うむ。ちなみに、私なら迷わずどちらも塗るね。欲張りだと言われても勝利とはそういうものだよ」
チャーチルのいたずら心が溢れた言葉に、スタジオの周りから笑いが起きる。
私もそれにつられて、ふっと少し顔を綻ばせた。
歴史の中のチャーチルも、数々の決断を下し、そのたびに多くの批判や失敗を経験してきたはずだ。それでも彼は進むことをやめなかった。教科書の中の遠い存在だった彼が、AIという技術を通して、今の私の足元を照らしてくれているような気がした。
私はアクセルを一定の強さで踏み直した。
まだ、自分がどこへ向かうべきかは分からない。会社での人間関係が急に良くなるわけでもない。
けれど、この暗雲の向こう側にある未来を、自分で「正解」に変えていく覚悟なら、今ここで持てるかもしれない。
「それでは次のくだらない……あっ失礼、切実なお悩みです!」
アナウンサーの弾んだ声を聞きながら、私は少しだけ背筋を伸ばした。窓の外の景色はまだ灰色だったが、車のライトが照らす複雑な道は、さっきよりもずっと鮮明に見えていた。
雨が車体を叩きつける音は、一定のリズムを刻む。
それはエンジンの低音と相まって、素晴らしい演奏をしているみたいだ。
車のスピーカーから聞こえてくるラジオの女性アナウンサーの声は、それにかき消されて少しばかり聞き取りづらい。
フロントガラスに雨が叩きつけられ、物の輪郭がボヤける。ワイパーが機械的に動くと、灰色の厚く立ち込めた雲が鮮明に見えた。
私は、私はこのままでいいのだろうか。
そんな思いが頭の中で、5週も10週もする。
ずっと考えていた。
なにかを変えたくて家を飛び出し、車を思いのままに走らせた。
でも、何も見つけられないまま、時間だけが私を嘲笑うように過ぎていく。
生来、私は人と関わることが苦手だ。青春は、全て勉強に費やした。おかげでいい大学に入る事ができ、いい会社に就職した。安定した収入と適切な労働時間。
それがなんだ。それが、私の人生を豊かにしてくれるのか?
会社では浮いていて、飲み会に付き合えなくて、同窓会に行っても一人ぼっちの私は、どうすればいい?
フロントガラスの向こう側には、より一層墨を流したように暗くなった空が、無限に広がっている。
空いている一本道を駆け抜けようとアクセルを
グッと踏み込む。その時、この場にそぐわない、やけに明るい音楽と、女性アナウンサーの声が聞こえた。
「時刻が午後3時を回りました。ここからは新コー
ナー『偉人と語る』の時間です!」
勉強一筋だった私の、唯一の趣味は歴史だった。
歴史だけは、勉強していて楽しかった記憶がある。
私はあの時の妙な高揚感を思い出し、少しラジオの音量を上げた。
「このコーナーでは、最新のAIに行動、演説、手紙、逸話などの生前の言動を学習させて、スタジオに完全再現した偉人と共に、リスナーからのお悩みを解決していきます」
私の関心が完全に、ラジオに持っていかれる。鮮明に聞こえるよう、もっと音量を上げた。
「さて、記念すべき第一回目のゲストはイギリスの元首相、ウィンストン・チャーチルさんです!」
聞き馴染みしかない人名を聞いて、雨の音をかき消すように、さらに音量を上げていく。
「チャーチルさん、本日はよろしくお願いします!」
「うむ。よろしく頼むよ」
彼の性格をそのまま反映したかのような、傲岸不遜な話し方。低く、少ししゃがれているが、その中に、威厳とユーモアを潜ませている。
AIがつくった音声だと言われなければ、本当に
チャーチルが話しているようだ。
「ところで、葉巻を1本くれんかね?」
「葉巻を所望するなんて、さすがですね!ですが、スタジオの関係で、それはできないんですよ」
チャーチルの愛用は確か、キューバ葉巻だったけ。懐かしい記憶を掘り起こして、1人笑う。
こんなこと、まだ覚えてたんだ。とっくに忘れてると思ってた。
「そうか。それは残念だ。アレがないと、どうしても頭のキレがちょっと鈍ってしまってね」
向こう側から聞こえてくる彼のぼやきに、私は思わず小さく吹き出した。
本当に教科書に載っていた通り、偏屈で、毒舌で、でもどこか憎めない老政治家の姿が、フロントガラスに打ちつける雨の向こう側に浮かんでくるようだ。
「いやー、すいません。さて、それはさておき、早速本題に入っていきましょう!」
ラジオの楽しみはやっぱりこれだ。だんだん複雑に、交通量の多くなる道路を、でたらめに走らせながら思った。
「それでは、本日最初のお悩み相談です。ラジオネーム、トースターさんから。『毎朝、朝食のトーストにバターとジャム、どちらを塗るか本気で悩んでしまい、いつも遅刻ギリギリになってしまいます。即決できるようになりたいです。コツを教えてください』だそうです」
それを聞いた瞬間、私はその軽さと落差にずっこけた。
⋯⋯なんて、平和なお悩みなんだろう。私は今、自分の人生に悩んでいるというのに。ただ闇雲にアクセルとブレーキを交互に踏み、途方に暮れている私とは、一番縁のない話のような気がした。
だいたい、せっかくチャーチルが答えてくださるとのだから、もっとマシな悩みはなかったのだろうか。
少し白けた気分になってアクセルを踏む足を緩め、ラジオの音量を下げようと手を伸ばす。
その時、チャーチルが真面目に考え込むように咳払いをした。手が虚空でピタリと止まる。
「トースト上の領土問題か。ふむ。実に悩ましい問題だ」
いやいやいや、待て待て待て。悩ましいか?どっちを塗るかの問題だけなのに?だいたい「トースト上の領土問題」って、どんな問題だよ!
そんな私の渾身の心のツッコミを無視して、
チャーチルは第二次世界大戦の戦況を分析するように低い声で語り始めた。
「バターの持つ伝統的な包容力と、ジャムがもたらす一時の芳醇な甘み。どちらも魅力的であり、選択に苦渋を味わうのは当然のことだ。しかしな、トースターくん。君の真の問題は、トーストの上にあるのではない」
スピーカーの声に威厳が宿る。音量を上げていないのに、雨音がすっと遠ざかる。
「君は、失敗を恐れているのだ。バターを選んで、後から『やっぱりジャムにすればよかった』と思う自分を恐れている。その結果、遅刻寸前という最悪の敗北を喫しているのではないかね?」
ドキッと、心拍数が跳ね上がった。
チャーチルの言葉が、私の胸に突き刺さる。
「決断とは、常にリスクを伴うものだ。完璧な選択など、最初から存在しない。大切なのは、選んだ後にそれを『正解』にすることだ。バターを選んだなら、その濃厚さを全力で味わえばいい。もし物足りなければ、明日はジャムにすればいいだけの話だ。一歩を踏み出さずに立ち尽くしていることこそが、最大の過ちなのだよ」
それは、ラジオの向こうにいる相談者に対しての言葉のはずなのに、私の心を深くえぐる。
私の頭の中で、ここ数年間の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
周囲に馴染めず、浮いている自分。飲み会を断っては「これで良かったのだろうか」と悩み、同窓会で孤立しては「行くべきではなかった」と後悔する。
私はずっと、誰からも非難されない「完璧な選択」を探し続けていた。失敗して傷つくのが怖くて、自分の殻に閉じこもり、何も選ばずに立ち尽くしていたのだ。
ワイパーが規則的な機械音を立てて、フロントガラスに溜まった雨粒を弾いた。
巨大なビルやマンションなどの建物が、行く手を遮るように立ち並ぶのが鮮明に見えたが、それはすぐに強くなってきた雨によって隠される。
「おお!名言ですね!『選んだものを正解にする』。トースターさん、明日からは迷わずに自分の直感を信じて選んでみてください!」
「うむ。ちなみに、私なら迷わずどちらも塗るね。欲張りだと言われても勝利とはそういうものだよ」
チャーチルのいたずら心が溢れた言葉に、スタジオの周りから笑いが起きる。
私もそれにつられて、ふっと少し顔を綻ばせた。
歴史の中のチャーチルも、数々の決断を下し、そのたびに多くの批判や失敗を経験してきたはずだ。それでも彼は進むことをやめなかった。教科書の中の遠い存在だった彼が、AIという技術を通して、今の私の足元を照らしてくれているような気がした。
私はアクセルを一定の強さで踏み直した。
まだ、自分がどこへ向かうべきかは分からない。会社での人間関係が急に良くなるわけでもない。
けれど、この暗雲の向こう側にある未来を、自分で「正解」に変えていく覚悟なら、今ここで持てるかもしれない。
「それでは次のくだらない……あっ失礼、切実なお悩みです!」
アナウンサーの弾んだ声を聞きながら、私は少しだけ背筋を伸ばした。窓の外の景色はまだ灰色だったが、車のライトが照らす複雑な道は、さっきよりもずっと鮮明に見えていた。
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