「……はぁ。またこれか」
手元の資料の表紙に躍る『開海、および夏季観光資源の広域活用について』という文字を見て、僕は小さく溜息をついた。周囲の席からは、早くも磯の香りが漂ってきそうなほどの熱気が上がっている。
特に、四方を海に囲まれた島国根性の塊のような連中、沖縄や高知、神奈川、千葉あたりは、すでに夏の「主役」の座を巡って視線で火花を散らしている。
僕はそれを、少し離れた席から冷めた目で眺めていた。
……別に、羨ましくなんてない。海なんて、塩分濃度が高いだけの非効率な巨大な水溜まりだ。僕には、僕にしかないものがある。
「定刻だ。これより第3回全国会議を始める」
東京の声が、馬鹿みたいに熱くなっている連中の視線を叩き切る。前回、九州勢の「暑さ対策案」に一定の理解を示したせいか、今日の東京はいつもより一段と不機嫌そうで、眼鏡の奥の瞳は絶対零度だ。
「議題は開海。昨今の電力不足による屋内娯楽の制限、およびインバウンド需要の分散を鑑み、今夏の海開き計画を再編する。各道府県、調整案を出せ。」
「はい! 東京さん!」
まず勢いよく手を挙げたのは、徳島だった。フン。頭の中でもう海水浴してる、ありがたいヤツめ。
「うちらの鳴門の渦潮とセットで、四国の海を全面的に……」
「待て。徳島、君のところの宿泊キャパシティでは、予測される観光客の0.3%も捌ききれない。却下だ。」
「うわー、駄目だったー」
あはは。相変わらずの秒殺。流石だね。東京は数字の盾で次々と地方の希望をへし折っていく。
僕はその様子を見ながら、計算を始める。
海開き。海水浴。……ベタベタするし、シャワーは必要だし、何より水難事故のリスク管理コストが高い。
だが、ここで発言を控えて存在感を消しすぎると、後で「京都や大阪への送水コスト」という名目で、こっちの予算を削りにくるのが東京のやり方だ。
僕は、そっと資料の端を指でなぞった。一応、用意はしてある。通る確率は15%、でも通れば向こう十年の修繕費が浮く計算だ。
「あの、いいですか」
僕が声を出すと、一瞬だけ会議室が静かになった。
僕は、滅多に自分から動かない。貯金と湖の管理に人生を捧げている男だと、誰もが知っているからだ。
「何の用だ」
東京の視線が突き刺さる。……くっ。海がない君に、という前置詞の幻聴が聞こえる気がする。
「自分、ちょう待てや。海、無いやんけ」
大阪が心底驚いたのか、方言が口から出ている。そりゃそうだろうな。この議題で僕たち「内陸県」の出る幕なんて、本当は無いはずなんだからな。
でも。よく目に焼き付けておけ、海あり県ども。この議題は僕の物だ。
「海がない、というのは語弊がありますね。僕たちには[漢字]淡海[/漢字][ふりがな]あふみ[/ふりがな]がある。今夏の開海の定義に、『琵琶湖』の湖水浴を含めるべきだと提案します」
鼻で笑うような声がどこからか聞こえた。たぶん、千葉か愛知あたりだ。
「君、海開きっつってんのに湖? スケール小さくない?」
声のする方を見ると、予想通り千葉だった。東京の飼い犬め。調子乗りやがって。
「……スケール、ですか。」
僕は眼鏡を押し上げた。その瞬間、僕の背後に『近畿全域の飲料水を支えている』という自負が、静かなプレッシャーとなって立ち昇る。
「海水浴に伴う塩害被害のメンテナンスコスト。それから、水難事故時における淡水の生存率。これらを加味した上で、都心部からのアクセスコストを算出しました。……大阪、京都。」
僕は隣の席に座る京都と、その隣に座っている大阪の二人に視線をやって、にこっと笑う。
「君たちが夏に飲む水、どこから来てるか忘れてないよね? 僕の提案に協力するなら、今夏の水資源管理、少し融通を利かせてもいいけど?」
大阪が「げっ」という顔をし、京都が扇子で口元を隠して目を逸らした。よし。首根っこは掴んでいる。
僕は真剣な表情で、もう一度東京に向き直る。
「東京。琵琶湖を『海の代替案』ではなく、『上位互換の避暑地』として組み込めば、インフラ維持コストは2.1%削減できます。これが僕の、今月の『貯蓄』案です。」
東京の指が、ピタリと止まった。彼は無機質な瞳で僕を見つめ、それから手元のタブレットを高速で叩き始めた。
「……なるほど。淡水による機材劣化の抑制か。理屈は通る」
東京の言葉に、周囲がざわつく。僕は内心で小さくガッツポーズをした。
目立たず、着実に。相手の弱みを握りつつ、自分に有利な数字を叩きつける。
「ただし、その分、琵琶湖周回道路の整備費は、君の『積立金』から出すことになるが、構わないな?」
「それは……」
絶句した。……こいつ、僕の個人口座(県の貯蓄)まで把握してやがるのか。
「……検討します。」
絞り出すように言うと、隣の岐阜が「流石だね」と感心したように笑ったのが見えた。
会議は続く。
海のない僕が、海の議題で主導権の一部を掠め取った。その事実に僕は少しだけ満足する。
結局、この国は数字と、それから「誰が命の綱を握っているか」で決まるんだ。
僕は、まだ少し震える指先を隠すように、資料を丁寧に閉じ、カバンの中に綺麗に収めた。
手元の資料の表紙に躍る『開海、および夏季観光資源の広域活用について』という文字を見て、僕は小さく溜息をついた。周囲の席からは、早くも磯の香りが漂ってきそうなほどの熱気が上がっている。
特に、四方を海に囲まれた島国根性の塊のような連中、沖縄や高知、神奈川、千葉あたりは、すでに夏の「主役」の座を巡って視線で火花を散らしている。
僕はそれを、少し離れた席から冷めた目で眺めていた。
……別に、羨ましくなんてない。海なんて、塩分濃度が高いだけの非効率な巨大な水溜まりだ。僕には、僕にしかないものがある。
「定刻だ。これより第3回全国会議を始める」
東京の声が、馬鹿みたいに熱くなっている連中の視線を叩き切る。前回、九州勢の「暑さ対策案」に一定の理解を示したせいか、今日の東京はいつもより一段と不機嫌そうで、眼鏡の奥の瞳は絶対零度だ。
「議題は開海。昨今の電力不足による屋内娯楽の制限、およびインバウンド需要の分散を鑑み、今夏の海開き計画を再編する。各道府県、調整案を出せ。」
「はい! 東京さん!」
まず勢いよく手を挙げたのは、徳島だった。フン。頭の中でもう海水浴してる、ありがたいヤツめ。
「うちらの鳴門の渦潮とセットで、四国の海を全面的に……」
「待て。徳島、君のところの宿泊キャパシティでは、予測される観光客の0.3%も捌ききれない。却下だ。」
「うわー、駄目だったー」
あはは。相変わらずの秒殺。流石だね。東京は数字の盾で次々と地方の希望をへし折っていく。
僕はその様子を見ながら、計算を始める。
海開き。海水浴。……ベタベタするし、シャワーは必要だし、何より水難事故のリスク管理コストが高い。
だが、ここで発言を控えて存在感を消しすぎると、後で「京都や大阪への送水コスト」という名目で、こっちの予算を削りにくるのが東京のやり方だ。
僕は、そっと資料の端を指でなぞった。一応、用意はしてある。通る確率は15%、でも通れば向こう十年の修繕費が浮く計算だ。
「あの、いいですか」
僕が声を出すと、一瞬だけ会議室が静かになった。
僕は、滅多に自分から動かない。貯金と湖の管理に人生を捧げている男だと、誰もが知っているからだ。
「何の用だ」
東京の視線が突き刺さる。……くっ。海がない君に、という前置詞の幻聴が聞こえる気がする。
「自分、ちょう待てや。海、無いやんけ」
大阪が心底驚いたのか、方言が口から出ている。そりゃそうだろうな。この議題で僕たち「内陸県」の出る幕なんて、本当は無いはずなんだからな。
でも。よく目に焼き付けておけ、海あり県ども。この議題は僕の物だ。
「海がない、というのは語弊がありますね。僕たちには[漢字]淡海[/漢字][ふりがな]あふみ[/ふりがな]がある。今夏の開海の定義に、『琵琶湖』の湖水浴を含めるべきだと提案します」
鼻で笑うような声がどこからか聞こえた。たぶん、千葉か愛知あたりだ。
「君、海開きっつってんのに湖? スケール小さくない?」
声のする方を見ると、予想通り千葉だった。東京の飼い犬め。調子乗りやがって。
「……スケール、ですか。」
僕は眼鏡を押し上げた。その瞬間、僕の背後に『近畿全域の飲料水を支えている』という自負が、静かなプレッシャーとなって立ち昇る。
「海水浴に伴う塩害被害のメンテナンスコスト。それから、水難事故時における淡水の生存率。これらを加味した上で、都心部からのアクセスコストを算出しました。……大阪、京都。」
僕は隣の席に座る京都と、その隣に座っている大阪の二人に視線をやって、にこっと笑う。
「君たちが夏に飲む水、どこから来てるか忘れてないよね? 僕の提案に協力するなら、今夏の水資源管理、少し融通を利かせてもいいけど?」
大阪が「げっ」という顔をし、京都が扇子で口元を隠して目を逸らした。よし。首根っこは掴んでいる。
僕は真剣な表情で、もう一度東京に向き直る。
「東京。琵琶湖を『海の代替案』ではなく、『上位互換の避暑地』として組み込めば、インフラ維持コストは2.1%削減できます。これが僕の、今月の『貯蓄』案です。」
東京の指が、ピタリと止まった。彼は無機質な瞳で僕を見つめ、それから手元のタブレットを高速で叩き始めた。
「……なるほど。淡水による機材劣化の抑制か。理屈は通る」
東京の言葉に、周囲がざわつく。僕は内心で小さくガッツポーズをした。
目立たず、着実に。相手の弱みを握りつつ、自分に有利な数字を叩きつける。
「ただし、その分、琵琶湖周回道路の整備費は、君の『積立金』から出すことになるが、構わないな?」
「それは……」
絶句した。……こいつ、僕の個人口座(県の貯蓄)まで把握してやがるのか。
「……検討します。」
絞り出すように言うと、隣の岐阜が「流石だね」と感心したように笑ったのが見えた。
会議は続く。
海のない僕が、海の議題で主導権の一部を掠め取った。その事実に僕は少しだけ満足する。
結局、この国は数字と、それから「誰が命の綱を握っているか」で決まるんだ。
僕は、まだ少し震える指先を隠すように、資料を丁寧に閉じ、カバンの中に綺麗に収めた。