「入れ。福岡」
東京の声が低くドアの内側から聞こえた。ノックをしようとしていた福岡の手が止まり、硬直する。なぜいる事が分かったのか。
ここは東京が働く都庁の一角。地獄のような資料作りを終えた福岡が、それを提出しようと東京の部屋の前に立っていた。
ドアノブに手をかけ、深呼吸をして慎重に開ける。
「持ってきたぞ」
東京の部屋はこぢんまりとしていた。左右の壁にはぎっしりと資料やらファイルやら古そうな分厚い本まで並んでいた。
それを目の端に捉えて正面を見ると、奥の方に机が置いてある。その上には紙の束が所狭しと並んでいて、華奢な主の姿を隠している。
福岡は机の目の前に立ち、無造作に持ってきた資料を渡す。東京はそれを一瞥すると言った。
「そこに置け」
福岡は不満そうに鼻を鳴らして指示された場所に置く。そして隅っこの方ぽつんと置かれた椅子に座った。東京の走らせるペンの音だけが響く。
ようやく東京がペンを置き、福岡に持ってきた資料に手を伸ばす。そして、恐ろしいほどのスピードでページをめくり始め、あっという間に全部に目を通し終わったかと思うと、今度は目にも止まらぬ速さでパソコンのキーボードを叩き始めた。
「机の前に来い」
福岡は渋々、東京の机の前に立った。
「では、提出されたモデルについて検証する」
東京がタイピングをしながら、静かにそう言った。空気が張り詰める。あの第2回全国会議から今日、5月23日までほとんど寝ていない。ここで否定されたら、全部無駄になってしまう。
「まず、客観モデル。気温、湿度、搬送数を基にした複合指標。これは妥当だ」
福岡がわずかに息を吐く。第一関門は通った。
「次に主観モデル。不快指数、アンケートベースの負荷評価……」
一瞬、間が空く。福岡の息が詰まる。
「設計としては悪くない」
その言葉に、場の空気がほんの少し緩んだ。いけるかもしれない。そう思った瞬間だった。
「だが、結論は却下だ」
一変して空気が凍る。
「…は?」
思わず声が漏れる。福岡の動揺をよそに、東京は淡々と続ける。
「君たちの主張は理解した。ズレも確認した。客観モデルと主観モデルの乖離は最大で23.4%。確かに無視できる数値ではない」
そこまで認めておいて、なぜ。福岡は反撃の仕方を必死に考える。そのとき突然、タイピングをする音が止み、東京の目が福岡の後ろにあるドアを射抜いた。
「佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄。いるなら入ってこい」
「…は?」
福岡の喉からまた声が漏れた。ゆっくり後ろを振り向くと、ドアが控えめに開いた。
「バレてぃねーん」
沖縄がいつもの笑顔で入ってくる。その後に続いて資料作りに奮闘した仲間たちが次々に部屋に入ってくる。福岡の頭は追いつかない。
「なんで、ここに…?」
「やっぱり気になって、つい」
宮崎がおっとりと言う。だが、その目には緊張の色が濃く漂っている。東京は全員が入ってきたのを見て、眼鏡の奥の目を細める。
「…続けよう」
その一言で空気が引き締まる。
「先ほども言った通り、無視できないズレが生じていることは確認した。だが、そのズレは政策介入の必要性を示すものであって、地域別予算配分の根拠にはならない」
頭が、一瞬ついていかない。
「どういう、意味……?」
佐賀の声がかすれる。東京はタブレットを操作し、新たなグラフを投影した。
「こちらを見ろ」
彼のパソコンに表示されたのは、見覚えのないモデルだった。
「君たちのデータを再計算した。主観的負荷が高い地域に対して、個別の労働規制を導入した場合のシミュレーションだ」
「なんだって?」
長崎が首を横に振りながら呟く。
「例えば、WBGTが一定値を超えた場合の強制休憩、作業時間の短縮、夜間シフトへの移行」
淡々と、容赦なく続く。
「その結果、主観的負荷は平均で18.7%改善する。一方で追加コストは、インフラ投資の約32%に抑えられる」
嫌な予感がする。
「つまり」
東京は一度、全員を見渡した。
「君たちのズレは、インフラ整備ではなく運用改善で解決可能だ」
完全な沈黙。全員、理解したくないのに理解できてしまう。
「地域ごとにインフラを作り変える必要はない。全国一律の基盤を維持したまま、運用ルールだけを可変にすればいい」
それはつまり、
「予算を増やす理由にはならない」
切り捨てるように言い切った。宮崎の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。彼らは必要性は示した。だがそれは、最適解ではない。
「……待てや」
低い声が静かな部屋に響く。福岡が東京を睨みつけていた。
「それやと、現場は回らんちゃろ」
「回る」
即答だった。
「人員配置を再最適化すればいい。非効率な時間帯の稼働を削減し、高負荷時間帯の密度を下げる。既存リソースで対応可能だ」
「机上ん空論や」
「いいや」
東京の視線が鋭く福岡を射抜く。
「君たちのモデルと同じデータを使っている」
誰も何も言わない。いや、言えるはずがなかった。
「感情は理解する。だが」
一瞬だけ、言葉を区切る。
「それを最も効率のいい形に変換するのが私の役割だ」
静かで、冷たい声だった。だが、前とは違う。完全な否定ではなく、こちらのデータを使って潰してきている。
「くそ」
福岡が小さく吐き捨てる。全員悔しさで滲んでいる。でも、これが東京だ。宮崎はゆっくりと拳を握った。
まだ、終わっていない。まだ、決着はついていない。
東京の声が低くドアの内側から聞こえた。ノックをしようとしていた福岡の手が止まり、硬直する。なぜいる事が分かったのか。
ここは東京が働く都庁の一角。地獄のような資料作りを終えた福岡が、それを提出しようと東京の部屋の前に立っていた。
ドアノブに手をかけ、深呼吸をして慎重に開ける。
「持ってきたぞ」
東京の部屋はこぢんまりとしていた。左右の壁にはぎっしりと資料やらファイルやら古そうな分厚い本まで並んでいた。
それを目の端に捉えて正面を見ると、奥の方に机が置いてある。その上には紙の束が所狭しと並んでいて、華奢な主の姿を隠している。
福岡は机の目の前に立ち、無造作に持ってきた資料を渡す。東京はそれを一瞥すると言った。
「そこに置け」
福岡は不満そうに鼻を鳴らして指示された場所に置く。そして隅っこの方ぽつんと置かれた椅子に座った。東京の走らせるペンの音だけが響く。
ようやく東京がペンを置き、福岡に持ってきた資料に手を伸ばす。そして、恐ろしいほどのスピードでページをめくり始め、あっという間に全部に目を通し終わったかと思うと、今度は目にも止まらぬ速さでパソコンのキーボードを叩き始めた。
「机の前に来い」
福岡は渋々、東京の机の前に立った。
「では、提出されたモデルについて検証する」
東京がタイピングをしながら、静かにそう言った。空気が張り詰める。あの第2回全国会議から今日、5月23日までほとんど寝ていない。ここで否定されたら、全部無駄になってしまう。
「まず、客観モデル。気温、湿度、搬送数を基にした複合指標。これは妥当だ」
福岡がわずかに息を吐く。第一関門は通った。
「次に主観モデル。不快指数、アンケートベースの負荷評価……」
一瞬、間が空く。福岡の息が詰まる。
「設計としては悪くない」
その言葉に、場の空気がほんの少し緩んだ。いけるかもしれない。そう思った瞬間だった。
「だが、結論は却下だ」
一変して空気が凍る。
「…は?」
思わず声が漏れる。福岡の動揺をよそに、東京は淡々と続ける。
「君たちの主張は理解した。ズレも確認した。客観モデルと主観モデルの乖離は最大で23.4%。確かに無視できる数値ではない」
そこまで認めておいて、なぜ。福岡は反撃の仕方を必死に考える。そのとき突然、タイピングをする音が止み、東京の目が福岡の後ろにあるドアを射抜いた。
「佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄。いるなら入ってこい」
「…は?」
福岡の喉からまた声が漏れた。ゆっくり後ろを振り向くと、ドアが控えめに開いた。
「バレてぃねーん」
沖縄がいつもの笑顔で入ってくる。その後に続いて資料作りに奮闘した仲間たちが次々に部屋に入ってくる。福岡の頭は追いつかない。
「なんで、ここに…?」
「やっぱり気になって、つい」
宮崎がおっとりと言う。だが、その目には緊張の色が濃く漂っている。東京は全員が入ってきたのを見て、眼鏡の奥の目を細める。
「…続けよう」
その一言で空気が引き締まる。
「先ほども言った通り、無視できないズレが生じていることは確認した。だが、そのズレは政策介入の必要性を示すものであって、地域別予算配分の根拠にはならない」
頭が、一瞬ついていかない。
「どういう、意味……?」
佐賀の声がかすれる。東京はタブレットを操作し、新たなグラフを投影した。
「こちらを見ろ」
彼のパソコンに表示されたのは、見覚えのないモデルだった。
「君たちのデータを再計算した。主観的負荷が高い地域に対して、個別の労働規制を導入した場合のシミュレーションだ」
「なんだって?」
長崎が首を横に振りながら呟く。
「例えば、WBGTが一定値を超えた場合の強制休憩、作業時間の短縮、夜間シフトへの移行」
淡々と、容赦なく続く。
「その結果、主観的負荷は平均で18.7%改善する。一方で追加コストは、インフラ投資の約32%に抑えられる」
嫌な予感がする。
「つまり」
東京は一度、全員を見渡した。
「君たちのズレは、インフラ整備ではなく運用改善で解決可能だ」
完全な沈黙。全員、理解したくないのに理解できてしまう。
「地域ごとにインフラを作り変える必要はない。全国一律の基盤を維持したまま、運用ルールだけを可変にすればいい」
それはつまり、
「予算を増やす理由にはならない」
切り捨てるように言い切った。宮崎の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。彼らは必要性は示した。だがそれは、最適解ではない。
「……待てや」
低い声が静かな部屋に響く。福岡が東京を睨みつけていた。
「それやと、現場は回らんちゃろ」
「回る」
即答だった。
「人員配置を再最適化すればいい。非効率な時間帯の稼働を削減し、高負荷時間帯の密度を下げる。既存リソースで対応可能だ」
「机上ん空論や」
「いいや」
東京の視線が鋭く福岡を射抜く。
「君たちのモデルと同じデータを使っている」
誰も何も言わない。いや、言えるはずがなかった。
「感情は理解する。だが」
一瞬だけ、言葉を区切る。
「それを最も効率のいい形に変換するのが私の役割だ」
静かで、冷たい声だった。だが、前とは違う。完全な否定ではなく、こちらのデータを使って潰してきている。
「くそ」
福岡が小さく吐き捨てる。全員悔しさで滲んでいる。でも、これが東京だ。宮崎はゆっくりと拳を握った。
まだ、終わっていない。まだ、決着はついていない。