森の空気が変わったのは、泉を離れてしばらく歩いた頃だった。
鳥の声が途絶え、風の流れがぴたりと止まる。
木々の影が濃くなり、まるで森そのものが息を潜めているようだった。
「……ここから先、気をつけて」
カイルが低い声で言う。
リリアは思わず足を止め、周囲を見回した。
「さっきから、森が静かすぎる……」
「そう。動物たちが避けている場所だ。何かがいる」
カイルの言葉に、リリアの胸がざわつく。
小鹿を襲った“何か”が、この先にいるのだろうか。
それでも、引き返すという選択肢は浮かばなかった。
――わたしの涙が鍵になる。
カイルの言葉が、胸の奥で静かに響いている。
「行こう」
リリアが小さく頷くと、カイルは前に立ち、慎重に歩き出した。
森の奥へ進むほど、空気は冷たく、重くなっていく。
木々の幹には黒い染みのようなものが広がり、葉は色を失っていた。
「……これ、全部“影”のせいなの?」
「断言はできないけど、時期は一致している。森の異変は、影が現れた頃からだ」
カイルの声は落ち着いているが、その瞳には緊張が宿っていた。
やがて、二人は開けた場所に出た。
そこは本来、陽光が差し込むはずの小さな広場だった。
だが今は、黒い霧のようなものが地面を覆い、空気を濁らせている。
「……なに、これ」
リリアは思わず後ずさる。
霧は生き物のようにゆらゆらと揺れ、近づく者を拒むようだった。
「触れないほうがいい。生き物の力を奪う」
カイルが手を伸ばし、リリアを制した。
その瞬間――。
霧の奥で、何かが動いた。
「っ……!」
リリアの心臓が跳ねる。
黒い影が、ゆっくりと形を成し始めた。
人のようで、人ではない。
獣のようで、獣でもない。
輪郭は曖昧で、黒い煙が渦を巻くように集まり、ひとつの“存在”となっていく。
「これが……影……?」
リリアの声は震えていた。
影は音もなく近づいてくる。
その中心には、深い闇のような“目”があった。
――ぞくり。
背筋を冷たいものが走る。
「リリア、下がって!」
カイルが剣を抜く。
その刃は淡い光を帯び、影の黒をわずかに押し返した。
だが影は怯まない。
むしろ、リリアのほうへとゆっくり手を伸ばしてくる。
「……え?」
影の“目”が、リリアを見つめていた。
その瞬間、胸の奥が強く締めつけられる。
――悲しい。
理由もなく、涙がこぼれそうになるほどの深い哀しみが流れ込んできた。
「リリア!」
カイルの叫びが遠く聞こえる。
影の手が、リリアの頬に触れようとした――。
ぽたり。
涙が落ちた。
淡い光が弾け、影の手が一瞬だけ揺らぐ。
「……!」
リリアは驚きに目を見開いた。
涙の光が影を押し返している。
カイルがその隙を逃さず、影に向かって踏み込んだ。
「今だ!」
剣が光を放ち、影を切り裂く。
影は苦しげに揺らめき、霧のように散っていった。
広場に静寂が戻る。
リリアは胸に手を当て、震える息を整えた。
「……いまの、わたしの涙……?」
カイルは剣を収め、リリアのほうを振り返った。
「やっぱり……君の涙には力がある。影を退けるほどの」
リリアは言葉を失った。
自分の涙が、誰かを傷つけるものではなく――
誰かを救う力になるのだと、初めて知った。
「リリア。君の力が必要だ。この森を救うために」
カイルの言葉は真剣だった。
リリアは胸元の革袋を握りしめ、静かに頷いた。
「……わたしにできることなら、やるよ」
その瞳には、もう迷いはなかった。
森の奥には、まだ多くの影が潜んでいる。
そしてその先には、リリア自身の“涙の秘密”が待っている。
少女の旅は、さらに深い闇と光の中へ進んでいく。