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宝石の涙記

#3

第三話 ――森の奥に潜む気配



 森の空気が変わったのは、泉を離れてしばらく歩いた頃だった。

 鳥の声が途絶え、風の流れがぴたりと止まる。
 木々の影が濃くなり、まるで森そのものが息を潜めているようだった。

 「……ここから先、気をつけて」

 カイルが低い声で言う。
 リリアは思わず足を止め、周囲を見回した。

 「さっきから、森が静かすぎる……」

 「そう。動物たちが避けている場所だ。何かがいる」

 カイルの言葉に、リリアの胸がざわつく。
 小鹿を襲った“何か”が、この先にいるのだろうか。

 それでも、引き返すという選択肢は浮かばなかった。

 ――わたしの涙が鍵になる。

 カイルの言葉が、胸の奥で静かに響いている。

 「行こう」

 リリアが小さく頷くと、カイルは前に立ち、慎重に歩き出した。

 森の奥へ進むほど、空気は冷たく、重くなっていく。
 木々の幹には黒い染みのようなものが広がり、葉は色を失っていた。

 「……これ、全部“影”のせいなの?」

 「断言はできないけど、時期は一致している。森の異変は、影が現れた頃からだ」

 カイルの声は落ち着いているが、その瞳には緊張が宿っていた。

 やがて、二人は開けた場所に出た。

 そこは本来、陽光が差し込むはずの小さな広場だった。
 だが今は、黒い霧のようなものが地面を覆い、空気を濁らせている。

 「……なに、これ」

 リリアは思わず後ずさる。
 霧は生き物のようにゆらゆらと揺れ、近づく者を拒むようだった。

 「触れないほうがいい。生き物の力を奪う」

 カイルが手を伸ばし、リリアを制した。

 その瞬間――。

 霧の奥で、何かが動いた。

 「っ……!」

 リリアの心臓が跳ねる。
 黒い影が、ゆっくりと形を成し始めた。

 人のようで、人ではない。
 獣のようで、獣でもない。

 輪郭は曖昧で、黒い煙が渦を巻くように集まり、ひとつの“存在”となっていく。

 「これが……影……?」

 リリアの声は震えていた。

 影は音もなく近づいてくる。
 その中心には、深い闇のような“目”があった。

 ――ぞくり。

 背筋を冷たいものが走る。

 「リリア、下がって!」

 カイルが剣を抜く。
 その刃は淡い光を帯び、影の黒をわずかに押し返した。

 だが影は怯まない。
 むしろ、リリアのほうへとゆっくり手を伸ばしてくる。

 「……え?」

 影の“目”が、リリアを見つめていた。

 その瞬間、胸の奥が強く締めつけられる。

 ――悲しい。

 理由もなく、涙がこぼれそうになるほどの深い哀しみが流れ込んできた。

 「リリア!」

 カイルの叫びが遠く聞こえる。

 影の手が、リリアの頬に触れようとした――。

 ぽたり。

 涙が落ちた。

 淡い光が弾け、影の手が一瞬だけ揺らぐ。

 「……!」

 リリアは驚きに目を見開いた。
 涙の光が影を押し返している。

 カイルがその隙を逃さず、影に向かって踏み込んだ。

 「今だ!」

 剣が光を放ち、影を切り裂く。

 影は苦しげに揺らめき、霧のように散っていった。

 広場に静寂が戻る。

 リリアは胸に手を当て、震える息を整えた。

 「……いまの、わたしの涙……?」

 カイルは剣を収め、リリアのほうを振り返った。

 「やっぱり……君の涙には力がある。影を退けるほどの」

 リリアは言葉を失った。

 自分の涙が、誰かを傷つけるものではなく――
 誰かを救う力になるのだと、初めて知った。

 「リリア。君の力が必要だ。この森を救うために」

 カイルの言葉は真剣だった。

 リリアは胸元の革袋を握りしめ、静かに頷いた。

 「……わたしにできることなら、やるよ」

 その瞳には、もう迷いはなかった。

 森の奥には、まだ多くの影が潜んでいる。
 そしてその先には、リリア自身の“涙の秘密”が待っている。

 少女の旅は、さらに深い闇と光の中へ進んでいく。

2026/02/11 17:54

柘榴石#あべべ推し
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