泉の水面は、朝の光を受けて淡く輝いていた。
リリアは小鹿をそっと横たえ、両手を泉に浸す。水は驚くほど冷たく、しかし触れた瞬間に指先へと静かな温もりが広がった。
「お願い……この子を助けて」
祈るように呟くと、泉の奥底から微かな光が立ち上った。
水面がふわりと揺れ、波紋が小鹿の体へと広がっていく。
――しゃらり。
どこからともなく、鈴の音のような響きがした。
リリアは息を呑む。
泉の中央に立つ古木の葉が、風もないのに揺れ、淡い光をこぼしている。
「……泉が、応えてる?」
小鹿の体を包むように光が集まり、傷ついた脚にそっと触れた。
その光はまるで優しい手のひらのようで、リリアの胸の奥まで温かさが染み込んでくる。
やがて光が収まると、小鹿はゆっくりと身じろぎした。
先ほどまで苦しげだった呼吸が、穏やかに整っている。
「よかった……!」
リリアが安堵の息を漏らしたそのとき――。
「――珍しいものを見たな」
背後から声がした。
リリアは驚いて振り返る。
そこには、いつの間にか一人の少年が立っていた。
年の頃はリリアと同じくらいだろうか。
黒に近い深い青の髪、琥珀色の瞳。森の影に溶け込むような落ち着いた雰囲気をまとっている。
「だ、誰……?」
リリアが身を引くと、少年は両手を軽く上げて見せた。
「驚かせるつもりはなかったよ。僕はカイル。この森を見回っている者だ」
「見回り……?」
「森の異変を調べているんだ。最近、動物たちが妙に怯えていてね」
カイルの視線が小鹿へと向く。
「その子も、何かに追われたような傷をしていた」
リリアは小鹿を見下ろし、胸がざわついた。
「……何かって、何?」
カイルは少しだけ言葉を選ぶように沈黙し、やがて静かに答えた。
「“黒い影”を見たという者がいる。森の奥で、形を持たない何かが彷徨っているらしい」
黒い影――。
リリアの胸の奥に、ひやりとしたものが落ちた。
「それにしても……君の涙、綺麗だった」
「えっ……!」
思わず声が裏返る。
カイルは泉の光を受けて、どこか不思議そうにリリアを見つめていた。
「アクアマリンの涙なんて、初めて見たよ。君はいったい……」
リリアは胸元の革袋をぎゅっと握りしめた。
「わ、わたしは……ただの村の子だよ」
「そうは見えないけどね」
カイルは微笑んだが、その瞳の奥には探るような光が宿っていた。
そのとき、小鹿が立ち上がり、リリアの手に鼻先を寄せた。
もう痛みはないようだ。
「よかった……本当に、よかった」
リリアが涙ぐむと、カイルは静かに言った。
「君の力は、きっとこの森に必要になる。もしよければ……僕と一緒に来てほしい」
「え……?」
「森の奥で起きていることを確かめたい。君の涙が、何かの鍵になる気がするんだ」
リリアは迷った。
けれど、胸の奥で何かがそっと背中を押す。
――涙の色を知った少女が、世界の感情と向き合う旅が始まる。
そう告げられているような気がした。
「……わかった。わたし、行くよ」
リリアは小鹿を見送り、カイルとともに森の奥へと歩き出した。
朝靄はすでに消え、木々の間から差し込む光が二人の影を長く伸ばしていた。