朝靄が森を薄く覆い、世界の輪郭をやわらかく曖昧にしていた。
鳥たちのさえずりはまだ控えめで、風は木々の葉を揺らすことすらためらっているようだった。
そんな静寂の中を、一人の少女が歩いていた。
リリア――十五歳の少女。
淡い銀色の髪は、朝の光を受けるたびに細かな粒子となって空気に溶けていくように輝き、瞳は湖面のように澄んだ灰青色をしていた。
彼女の歩みは軽やかだが、どこか不安げで、胸の奥に小さな影を抱えているようにも見える。
胸元には、小さな革袋が揺れていた。
その中には、彼女がこれまで流してきた涙が結晶となった宝石が収められている。
けれど、リリアはまだ一度も、自分の涙の色を見たことがなかった。
――涙が宝石になる少女。
その存在は、村では“祝福”とも“呪い”とも囁かれていた。
彼女自身も、その意味をまだ理解できずにいた。
「……今日こそ、見られるといいな」
小さくつぶやいた声は、朝靄に溶けて消えていく。
リリアは森の奥へと続く細い道を進んだ。
この森は、彼女が幼い頃からよく訪れている場所だ。
木々のざわめきも、土の匂いも、鳥の声も、すべてが彼女にとっては心を落ち着かせる“友達”のような存在だった。
だが、その静けさを破るように――。
ぱきり、と乾いた音が響いた。
リリアはびくりと肩を震わせ、足を止める。
心臓が一瞬だけ強く跳ね、胸の奥に不安が広がった。
「……誰か、いるの?」
返事はない。
風が木々を揺らす音だけが、かすかに耳に届く。
リリアがそっと一歩後ずさったそのとき――
茂みの奥から、小さな影が飛び出してきた。
「きゃっ……!」
思わず声を上げたリリアの足元に、影は倒れ込むように寄り添った。
それは、小鹿だった。
まだ幼く、体は細く、毛並みはところどころ泥で汚れている。
右の後ろ脚を引きずり、苦しげに息をしていた。
「……怪我してるの?」
リリアはしゃがみ込み、小鹿にそっと手を伸ばした。
小鹿は警戒しながらも、逃げる力も残っていないのか、弱々しく彼女の手に鼻先を寄せた。
その瞬間、リリアの胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
痛み、哀しみ、そしてどうしようもないほどの優しさが、胸の奥で混ざり合う。
――ぽたり。
頬を伝った涙が、地面に落ちた。
次の瞬間、淡い光がふわりと舞い上がった。
朝靄の中で、その光はまるで小さな星が生まれたかのように輝いた。
「……!」
リリアは驚きに目を見開いた。
光の粒がゆっくりと形を成し、ひとつの宝石となって地面に落ちる。
それは、澄んだ水のように透明で、朝の空を閉じ込めたような淡い水色のアクアマリンだった。
「これ……わたしの涙……?」
リリアは震える指先で宝石を拾い上げた。
冷たく、けれどどこか温もりを感じる不思議な感触。
胸の奥がじんわりと温かくなり、同時に言葉にできない不安がよぎる。
――どうして、こんな色なんだろう。
涙の色は、その人の感情そのもの。
だが、アクアマリンが何を意味するのか、リリアにはわからなかった。
小鹿が弱々しく鳴き、彼女の手に顔を寄せる。
リリアははっとして、小鹿の体をそっと抱き寄せた。
「大丈夫……大丈夫だよ。わたしが助けるから」
その声は震えていたが、確かな優しさが宿っていた。
リリアは小鹿を抱え、森の奥へと歩き出す。
そこには、森の動物たちを癒すと言われる“泉”がある。
幼い頃、母から聞いた話を頼りに、彼女はその場所を目指した。
朝靄の向こうで、光が揺れている。
リリアの旅は、今まさに始まったばかりだった。
――涙の色を知った少女が、世界の感情と向き合う旅が。