反省と、信頼と。
大喧嘩、なんてのは一度もした事がなかった。
小競り合いはあったかもしれないけど、どちらかが何かを飲み込んでやり過ごして、本音を言わないまま何事も無かったかのように振る舞って。お互い変にカッコ付けて大人ぶってたように思う。
でも里奈の学校での一年があってから、俺たち夫婦の関係性はかなり変化した。お互いが思いやりを忘れずに、どんな小さな事でも相談し合えるような、本音で話せる夫婦になれたのだ。
そんな変化もあってか、今朝はかなり珍しい事が起きた。
**
「…はぁ〜〜」
「あれ、九条先輩どしたんすか。でっかいため息ついて。奥さんと喧嘩でもしました?」
「うるせぇよ」
「あ、図星だ」
出社後、どうも頭が仕事モードに切り替わらなくてコーヒーを啜りながらボケっと窓を眺めていたら、無意識に大きなため息を吐いていたらしい。そこを目ざとい後輩にすかさず突っ込まれてしまった。
そう、喧嘩したのだ、里奈と。
「なんで喧嘩したんすか」
「…なんでだろなぁ」
「はい?」
「なんか…売り言葉に買い言葉っつーか。いや、マジで俺が悪いんだよ。あんま寝れてなくて余裕なかった」
「あー、睡眠不足ってマジよくないっすよね」
仕事で任されている大きなプロジェクトも山場を迎えていて、ここ数日は本当に忙しくて。
里奈とゆっくり会話する時間も無くて少しすれ違い気味だったのは確か。そして里奈がそれを一生懸命埋めようとしてくれていたことも分かっていたけれど。
火種は小さいことだったけど、俺が突っかかったせいで気付けば珍しくお互いが譲らず口論になってしまっていて、最終的には俺がもういいよ、と吐き捨てるように言って家を出てきてしまったのだ。
ドアを閉める時に見えた里奈の顔を思い出すと、本当に自分をブン殴りたくなる。
なに、あんな悲しそうな顔させてんだよ。
すぐにでも謝るべきか、とメッセージアプリを開いては閉じ、開いては閉じて悩む。
メッセージで謝ってもなぁ。なんか、その場しのぎな気もするし…やっぱり直接目を見て謝るべきだよなと思い直し、携帯をポケットに仕舞った。
**
当然今日も深夜近くまで残業を覚悟していたけど、
「さっさと帰って奥さんと仲直りした方がいいっすよ」
と言ってくれた後輩にありがたく甘えることにして、多少の仕事を任せた後定時を少し過ぎたぐらいで会社を出た。
やはり持つべきものはデキる後輩だな。
スーパーに寄って食材を買い込み、晩ご飯の食材を調達した後はケーキ屋に寄ってケーキを買った。
別に物で釣ろうってワケじゃないけど、里奈が美味しいって笑う顔が好きで。
その顔が見たいと思うと、自然と足はケーキ屋に向いていた。
帰り道にすれ違うカップルはみんな幸せそうに見えてなんとなくバツが悪い。
ああ早く仲直りしたい。
**
帰宅後、ささっと2人分の夕飯を用意して、里奈の帰りを待つ。
いつもだったらとっくに帰ってきている時間になっても里奈が帰ってくる気配は無くて、携帯を確認しても連絡ひとつ来ていない。
"もう帰ってくる?"そうメッセージを打って、送信ボタンを押そうとしたその時、玄関がガチャリと開く音がした。
「…ただいま」
「おかえり。遅かったね」
「うん、ちょっと忙しくて」
「あのさ…里奈。ちょっと話あるんだけど」
「……やだ、聞かない」
「里奈」
朝の喧嘩を気にしてるような少し暗めの表情で帰宅した里奈にちゃんと謝ろうと思った矢先、目も合わせずにキッチンに入っていく姿を見てかなり焦った。
相当怒ってんな…
思わずテーブルから立ち上がって里奈の後を追いかけた。
「里奈、聞いて?」
「やだ」
「朝のことは本当にごめん。ちゃんと謝らせて」
できるだけ柔らかいトーンで話しかけ、頑なにこちらを見ない里奈の手を引いて無理矢理目を合わせに行くと、泣きそうな子どもみたいにぎゅっと口を結んだまま意地でも俺の顔を見ようとしない里奈の顔が見える。
「ごめん、俺が言い過ぎた。里奈の気持ち無碍にするようなこと言ってごめんな」
「ほんと、めちゃくちゃ反省してます」
「言い訳だけど、忙しくてちょっと疲れてて…これからは気を付ける」
ひたすら謝罪の言葉を投げかけると、ゆっくりと里奈の顔が上がってきて、目が合った瞬間に里奈の目からポロポロと涙が溢れた。
これにはびっくり。まさか泣かせてしまうとは。
慌てて里奈を抱きしめてあたふたする俺は側から見ると相当ダサかったと思うけどそんなことはどうでもいい。
ただただ自分の不甲斐なさにイラつく。
ただ、里奈の腕が俺の背中に回ったことで少し気持ちを落ち着けることができた。
よかった、嫌われてはなさそうだ。
「ごめん…泣かせて……」
「違うの、ごめん泣くつもりなかったんだけど…なんか安心しちゃって」
「え……?安心…?」
「ちょっとだけ、考えちゃってて。もし今日帰ってきて、また離婚届だけ置いてあったらどうしようって」
「……え、」
「今日のことは私も悪かったからお互い様なのに、必死に謝ってくれる蓮見たら…すごく安心した。ごめんね、」
頭をハンマーで殴られたくらいの衝撃。
まさか、まさかそんなことを考えていたなんて。
普段は笑顔で何も見せない里奈の中に、相当なトラウマを植え付けてしまっていることを、俺はこの時初めて知った。
俺の身勝手で離婚を切り出してから、里奈は何回1人で泣いたんだろう。
いつからか大事なことは何も話してくれなくなった里奈に、いつか要らないと言われるのが怖くて先に手離そうとしてしまった。
もう俺なんて居なくてもいいだろ、と半ば当て付けのような気持ちもあったかもしれない。
結局俺は自分の不甲斐なさを全部里奈のせいにして、逃げようとしただけだ。
今日、ここに帰ってくるのがどれだけ不安だっただろうか。
それでも帰ってきてくれたことに感謝しかない。
こんな些細な喧嘩でも、見放されてしまうかもしれないと不安に駆られてしまうなんて。
「…っはぁーーー」
「えっ、ちょっと蓮?大丈夫?」
全身の、力が抜けた。俺は馬鹿だ。
里奈のこと分かった気になって、でも全然分かってなくて。
思わず床に座り込む俺に合わせてしゃがみ込みながら心配してくれる里奈をもう一度抱きしめる。
「俺、里奈のこと幸せにしたい」
「…ちゃんと幸せだよ?」
「違う、まだ全然足りてないって分かった。不安なんて一切感じないくらい、里奈にはただ幸せでいてほしい」
「蓮…」
「俺、頑張るから。里奈からの信頼取り戻せるように。だから、信じて」
「うん。ありがと、蓮」
「里奈、好きだよ」
そう言うと、里奈は出会った頃と変わらない、俺の大好きな笑顔を見せてくれた。
小競り合いはあったかもしれないけど、どちらかが何かを飲み込んでやり過ごして、本音を言わないまま何事も無かったかのように振る舞って。お互い変にカッコ付けて大人ぶってたように思う。
でも里奈の学校での一年があってから、俺たち夫婦の関係性はかなり変化した。お互いが思いやりを忘れずに、どんな小さな事でも相談し合えるような、本音で話せる夫婦になれたのだ。
そんな変化もあってか、今朝はかなり珍しい事が起きた。
**
「…はぁ〜〜」
「あれ、九条先輩どしたんすか。でっかいため息ついて。奥さんと喧嘩でもしました?」
「うるせぇよ」
「あ、図星だ」
出社後、どうも頭が仕事モードに切り替わらなくてコーヒーを啜りながらボケっと窓を眺めていたら、無意識に大きなため息を吐いていたらしい。そこを目ざとい後輩にすかさず突っ込まれてしまった。
そう、喧嘩したのだ、里奈と。
「なんで喧嘩したんすか」
「…なんでだろなぁ」
「はい?」
「なんか…売り言葉に買い言葉っつーか。いや、マジで俺が悪いんだよ。あんま寝れてなくて余裕なかった」
「あー、睡眠不足ってマジよくないっすよね」
仕事で任されている大きなプロジェクトも山場を迎えていて、ここ数日は本当に忙しくて。
里奈とゆっくり会話する時間も無くて少しすれ違い気味だったのは確か。そして里奈がそれを一生懸命埋めようとしてくれていたことも分かっていたけれど。
火種は小さいことだったけど、俺が突っかかったせいで気付けば珍しくお互いが譲らず口論になってしまっていて、最終的には俺がもういいよ、と吐き捨てるように言って家を出てきてしまったのだ。
ドアを閉める時に見えた里奈の顔を思い出すと、本当に自分をブン殴りたくなる。
なに、あんな悲しそうな顔させてんだよ。
すぐにでも謝るべきか、とメッセージアプリを開いては閉じ、開いては閉じて悩む。
メッセージで謝ってもなぁ。なんか、その場しのぎな気もするし…やっぱり直接目を見て謝るべきだよなと思い直し、携帯をポケットに仕舞った。
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当然今日も深夜近くまで残業を覚悟していたけど、
「さっさと帰って奥さんと仲直りした方がいいっすよ」
と言ってくれた後輩にありがたく甘えることにして、多少の仕事を任せた後定時を少し過ぎたぐらいで会社を出た。
やはり持つべきものはデキる後輩だな。
スーパーに寄って食材を買い込み、晩ご飯の食材を調達した後はケーキ屋に寄ってケーキを買った。
別に物で釣ろうってワケじゃないけど、里奈が美味しいって笑う顔が好きで。
その顔が見たいと思うと、自然と足はケーキ屋に向いていた。
帰り道にすれ違うカップルはみんな幸せそうに見えてなんとなくバツが悪い。
ああ早く仲直りしたい。
**
帰宅後、ささっと2人分の夕飯を用意して、里奈の帰りを待つ。
いつもだったらとっくに帰ってきている時間になっても里奈が帰ってくる気配は無くて、携帯を確認しても連絡ひとつ来ていない。
"もう帰ってくる?"そうメッセージを打って、送信ボタンを押そうとしたその時、玄関がガチャリと開く音がした。
「…ただいま」
「おかえり。遅かったね」
「うん、ちょっと忙しくて」
「あのさ…里奈。ちょっと話あるんだけど」
「……やだ、聞かない」
「里奈」
朝の喧嘩を気にしてるような少し暗めの表情で帰宅した里奈にちゃんと謝ろうと思った矢先、目も合わせずにキッチンに入っていく姿を見てかなり焦った。
相当怒ってんな…
思わずテーブルから立ち上がって里奈の後を追いかけた。
「里奈、聞いて?」
「やだ」
「朝のことは本当にごめん。ちゃんと謝らせて」
できるだけ柔らかいトーンで話しかけ、頑なにこちらを見ない里奈の手を引いて無理矢理目を合わせに行くと、泣きそうな子どもみたいにぎゅっと口を結んだまま意地でも俺の顔を見ようとしない里奈の顔が見える。
「ごめん、俺が言い過ぎた。里奈の気持ち無碍にするようなこと言ってごめんな」
「ほんと、めちゃくちゃ反省してます」
「言い訳だけど、忙しくてちょっと疲れてて…これからは気を付ける」
ひたすら謝罪の言葉を投げかけると、ゆっくりと里奈の顔が上がってきて、目が合った瞬間に里奈の目からポロポロと涙が溢れた。
これにはびっくり。まさか泣かせてしまうとは。
慌てて里奈を抱きしめてあたふたする俺は側から見ると相当ダサかったと思うけどそんなことはどうでもいい。
ただただ自分の不甲斐なさにイラつく。
ただ、里奈の腕が俺の背中に回ったことで少し気持ちを落ち着けることができた。
よかった、嫌われてはなさそうだ。
「ごめん…泣かせて……」
「違うの、ごめん泣くつもりなかったんだけど…なんか安心しちゃって」
「え……?安心…?」
「ちょっとだけ、考えちゃってて。もし今日帰ってきて、また離婚届だけ置いてあったらどうしようって」
「……え、」
「今日のことは私も悪かったからお互い様なのに、必死に謝ってくれる蓮見たら…すごく安心した。ごめんね、」
頭をハンマーで殴られたくらいの衝撃。
まさか、まさかそんなことを考えていたなんて。
普段は笑顔で何も見せない里奈の中に、相当なトラウマを植え付けてしまっていることを、俺はこの時初めて知った。
俺の身勝手で離婚を切り出してから、里奈は何回1人で泣いたんだろう。
いつからか大事なことは何も話してくれなくなった里奈に、いつか要らないと言われるのが怖くて先に手離そうとしてしまった。
もう俺なんて居なくてもいいだろ、と半ば当て付けのような気持ちもあったかもしれない。
結局俺は自分の不甲斐なさを全部里奈のせいにして、逃げようとしただけだ。
今日、ここに帰ってくるのがどれだけ不安だっただろうか。
それでも帰ってきてくれたことに感謝しかない。
こんな些細な喧嘩でも、見放されてしまうかもしれないと不安に駆られてしまうなんて。
「…っはぁーーー」
「えっ、ちょっと蓮?大丈夫?」
全身の、力が抜けた。俺は馬鹿だ。
里奈のこと分かった気になって、でも全然分かってなくて。
思わず床に座り込む俺に合わせてしゃがみ込みながら心配してくれる里奈をもう一度抱きしめる。
「俺、里奈のこと幸せにしたい」
「…ちゃんと幸せだよ?」
「違う、まだ全然足りてないって分かった。不安なんて一切感じないくらい、里奈にはただ幸せでいてほしい」
「蓮…」
「俺、頑張るから。里奈からの信頼取り戻せるように。だから、信じて」
「うん。ありがと、蓮」
「里奈、好きだよ」
そう言うと、里奈は出会った頃と変わらない、俺の大好きな笑顔を見せてくれた。
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