ペテンテの研究所を出てから、すでに三時間が経過していた。
目指す『静寂の廃坑』は、万年雪に覆われた標高の高い山脈の麓にある。麓といっても、人間にとっては過酷な環境だ。吹き付ける風は刃のように鋭く、地面を覆う霜が靴の下で不吉な音を立てて砕ける。
「……ひ、ひいぃ……さ、寒い……。なんで僕、こんな薄着で来ちゃったんだろう……」
ラカスは自分の肩を抱きしめ、ガチガチと歯を鳴らしながら歩いていた。背負わされた巨大なバックパックには、ペテンテの計測機器や、野営用の道具が詰まっている。一歩進むごとに、彼の細い足は雪に沈み、体力を削られていく。
「無駄口を叩く余裕があるなら脚を動かせ、人間。お前の吐息に含まれる水分が結氷して、私の白衣に付着したらどうする。不衛生極まりない」
先頭を行くペテンテは、この極寒の中でも平然としていた。エルフ特有の優雅な足取りで、雪の上を滑るように進んでいく。彼は魔法で自身の周囲に『防風の結界』を展開しているようだが、それをラカスに分けてやるつもりは毛頭ないらしい。
「お前……! 自分だけ魔法でぬくぬくして……! デスディチャ、君は大丈夫!? 寒くない?」
ラカスが必死の思いで振り返ると、最後尾を歩くデスディチャは、不思議そうな顔をして立ち止まった。
彼女の周りだけ、雪が降っていない。
正確には、彼女に触れる前に雪が蒸発し、白い霧となって消えているのだ。
「……さむい、って、どんな感じ?」
デスディチャがぽつりと呟く。
彼女にとって、世界は常に「熱すぎる」か、薬で「痺れている」かの二種類しかなかった。「寒い」という感覚は、彼女の辞書には存在しない。
「えっ……? あ、そうか。君、50℃もあるんだもんね……。あはは、羨ましいっていうか、なんというか……」
ラカスは力なく笑った。しかし、デスディチャの表情は晴れない。
彼女は自分の手を見つめた。
この寒空の下で、自分の手からはゆらゆらと陽炎が立ち上っている。それは周囲の命を凍えさせる冬の世界において、あまりにも異質で、攻撃的な「赤」だった。
「……わたしの近くにいれば、ラカスも温かい?」
ふと思いついて、デスディチャが歩み寄ろうとする。
ラカスは一瞬、ぱあっと顔を輝かせた。
「いいの!? 助かるよ、本当に死ぬかと思って――」
「待て、馬鹿者が」
鋭い声が二人を割った。ペテンテがいつの間にか振り返り、[漢字]魔導書[/漢字][ふりがな]グリモワール[/ふりがな]の角でラカスの額を小突いていた。
「あだっ! なんだよ、ケチエルフ!」
「ケチではない。忠告だ。……ラカス、お前のようなひ弱な個体が、今の彼女に不用意に近づいてみろ。急激な温度変化で皮膚がただれるか、彼女が反射的に発した魔素で内部から焼かれるのがオチだ。お前は焚き火に直接飛び込む趣味があるのか?」
「……っ」
ラカスは言葉を詰まらせ、デスディチャから半歩遠ざかった。
デスディチャの瞳に、かすかな寂しさがよぎる。
「……ごめんなさい。忘れてた。わたし、やっぱり、触っちゃだめなんだ」
「……あ、いや、違うんだ! デスディチャ! 僕はただ……」
フォローしようとするラカスの声を無視して、ペテンテはデスディチャの元へ歩み寄った。彼はためらいなく、彼女の額に素手を当てる。
「熱が上がっているな。……歩行による代謝の上昇と、周囲の低温に対する魔素の自己防衛反応だ。おい、この薬を飲め。苦いからといって吐き出すなよ。お前の唾液一滴でも、この雪原では貴重なサンプルなんだ」
ペテンテが差し出したのは、濁った青色の小瓶だった。
デスディチャはそれを黙って受け取り、一気に飲み干す。顔をしかめるほどの苦味が喉を焼くが、それと同時に、暴れそうになっていた内側の熱が、重い鎖で繋がれるように鎮まっていく。
「……ありがとうございます、ペテンテ……さん」
「……様をつけろと言っただろう。まあいい、廃坑の入り口が見えてきたぞ」
ペテンテが指差した先。
荒れ狂う吹雪の向こう側に、ぽっかりと口を開けた巨大な洞窟があった。
そこから漏れ出してくる空気は、地上の寒さとは質の違う、肌を刺すような「魔的な冷気」に満ちていた。
「いいか、ここからは『静寂の廃坑』だ。かつて氷属性の魔石が大量に採掘されていた場所で、今は低級だが好戦的な氷の魔物が棲みついている。デスディチャ、お前の仕事は、私の計測が終わるまでラカスと私の安全を確保することだ。……できるな?」
ペテンテの言葉に、デスディチャはゆっくりと頷いた。
黒い瞳の奥に、かすかに紅い火が灯る。
「……やってみる。わたし……『道具』として、役に立ちたいから」
「ふん。道具なら道具らしく、壊れずに働け」
突き放すようなペテンテの言葉。けれど、彼はラカスのバックパックから一本の古い剣を取り出し、乱暴にラカスの手に押し付けた。
「……ラカス。お前も死ぬなよ。荷物持ちを新しく探すのは手間だ」
「言い方ぁ! ……でも、わかったよ。君のことは、僕も精一杯サポートするからね、デスディチャ!」
三人は、光の届かない暗黒の穴へと足を踏み入れた。
これが、後に世界を揺るがすことになる「四人(今は三人)」の、最初の[漢字]共同作業[/漢字][ふりがな]ミッション[/ふりがな]の始まりだった。
目指す『静寂の廃坑』は、万年雪に覆われた標高の高い山脈の麓にある。麓といっても、人間にとっては過酷な環境だ。吹き付ける風は刃のように鋭く、地面を覆う霜が靴の下で不吉な音を立てて砕ける。
「……ひ、ひいぃ……さ、寒い……。なんで僕、こんな薄着で来ちゃったんだろう……」
ラカスは自分の肩を抱きしめ、ガチガチと歯を鳴らしながら歩いていた。背負わされた巨大なバックパックには、ペテンテの計測機器や、野営用の道具が詰まっている。一歩進むごとに、彼の細い足は雪に沈み、体力を削られていく。
「無駄口を叩く余裕があるなら脚を動かせ、人間。お前の吐息に含まれる水分が結氷して、私の白衣に付着したらどうする。不衛生極まりない」
先頭を行くペテンテは、この極寒の中でも平然としていた。エルフ特有の優雅な足取りで、雪の上を滑るように進んでいく。彼は魔法で自身の周囲に『防風の結界』を展開しているようだが、それをラカスに分けてやるつもりは毛頭ないらしい。
「お前……! 自分だけ魔法でぬくぬくして……! デスディチャ、君は大丈夫!? 寒くない?」
ラカスが必死の思いで振り返ると、最後尾を歩くデスディチャは、不思議そうな顔をして立ち止まった。
彼女の周りだけ、雪が降っていない。
正確には、彼女に触れる前に雪が蒸発し、白い霧となって消えているのだ。
「……さむい、って、どんな感じ?」
デスディチャがぽつりと呟く。
彼女にとって、世界は常に「熱すぎる」か、薬で「痺れている」かの二種類しかなかった。「寒い」という感覚は、彼女の辞書には存在しない。
「えっ……? あ、そうか。君、50℃もあるんだもんね……。あはは、羨ましいっていうか、なんというか……」
ラカスは力なく笑った。しかし、デスディチャの表情は晴れない。
彼女は自分の手を見つめた。
この寒空の下で、自分の手からはゆらゆらと陽炎が立ち上っている。それは周囲の命を凍えさせる冬の世界において、あまりにも異質で、攻撃的な「赤」だった。
「……わたしの近くにいれば、ラカスも温かい?」
ふと思いついて、デスディチャが歩み寄ろうとする。
ラカスは一瞬、ぱあっと顔を輝かせた。
「いいの!? 助かるよ、本当に死ぬかと思って――」
「待て、馬鹿者が」
鋭い声が二人を割った。ペテンテがいつの間にか振り返り、[漢字]魔導書[/漢字][ふりがな]グリモワール[/ふりがな]の角でラカスの額を小突いていた。
「あだっ! なんだよ、ケチエルフ!」
「ケチではない。忠告だ。……ラカス、お前のようなひ弱な個体が、今の彼女に不用意に近づいてみろ。急激な温度変化で皮膚がただれるか、彼女が反射的に発した魔素で内部から焼かれるのがオチだ。お前は焚き火に直接飛び込む趣味があるのか?」
「……っ」
ラカスは言葉を詰まらせ、デスディチャから半歩遠ざかった。
デスディチャの瞳に、かすかな寂しさがよぎる。
「……ごめんなさい。忘れてた。わたし、やっぱり、触っちゃだめなんだ」
「……あ、いや、違うんだ! デスディチャ! 僕はただ……」
フォローしようとするラカスの声を無視して、ペテンテはデスディチャの元へ歩み寄った。彼はためらいなく、彼女の額に素手を当てる。
「熱が上がっているな。……歩行による代謝の上昇と、周囲の低温に対する魔素の自己防衛反応だ。おい、この薬を飲め。苦いからといって吐き出すなよ。お前の唾液一滴でも、この雪原では貴重なサンプルなんだ」
ペテンテが差し出したのは、濁った青色の小瓶だった。
デスディチャはそれを黙って受け取り、一気に飲み干す。顔をしかめるほどの苦味が喉を焼くが、それと同時に、暴れそうになっていた内側の熱が、重い鎖で繋がれるように鎮まっていく。
「……ありがとうございます、ペテンテ……さん」
「……様をつけろと言っただろう。まあいい、廃坑の入り口が見えてきたぞ」
ペテンテが指差した先。
荒れ狂う吹雪の向こう側に、ぽっかりと口を開けた巨大な洞窟があった。
そこから漏れ出してくる空気は、地上の寒さとは質の違う、肌を刺すような「魔的な冷気」に満ちていた。
「いいか、ここからは『静寂の廃坑』だ。かつて氷属性の魔石が大量に採掘されていた場所で、今は低級だが好戦的な氷の魔物が棲みついている。デスディチャ、お前の仕事は、私の計測が終わるまでラカスと私の安全を確保することだ。……できるな?」
ペテンテの言葉に、デスディチャはゆっくりと頷いた。
黒い瞳の奥に、かすかに紅い火が灯る。
「……やってみる。わたし……『道具』として、役に立ちたいから」
「ふん。道具なら道具らしく、壊れずに働け」
突き放すようなペテンテの言葉。けれど、彼はラカスのバックパックから一本の古い剣を取り出し、乱暴にラカスの手に押し付けた。
「……ラカス。お前も死ぬなよ。荷物持ちを新しく探すのは手間だ」
「言い方ぁ! ……でも、わかったよ。君のことは、僕も精一杯サポートするからね、デスディチャ!」
三人は、光の届かない暗黒の穴へと足を踏み入れた。
これが、後に世界を揺るがすことになる「四人(今は三人)」の、最初の[漢字]共同作業[/漢字][ふりがな]ミッション[/ふりがな]の始まりだった。
- 1.#1熱砂の咆哮
- 2.#2無機質(前編)
- 3.#2無機質(後編)
- 4.#3遺跡(前編)
- 5.#3遺跡(中編)
- 6.#3遺跡(後編)
- 7.#4冰の中の「お姫様」(前編)
- 8.#4冰の中の「お姫様」(後編)
- 9.#5水色の嘘(前編)
- 10.#5水色の嘘(中編)
- 11.#5水色の嘘(後編)
- 12.#6凍てつく事実
- 13.#7毒の滴り(前編)
- 14.#7毒の滴り(中編)
- 15.#7毒の滴り(後編)
- 16.#8崩壊の聖域
- 17.#9再会
- 18.#10再起の咆哮(前編)
- 19.#10再起の咆哮(中編)
- 20.#10再起の咆哮(後編)
- 21.#11不完全生命体(前編)
- 22.#11不完全生命体(中編)
- 23.#11不完全生命体(後編)
- 24.#12血眼
- 25.#13道化師と強欲
- 26.#14冰の劣等生(前編)
- 27.#14冰の劣等生(中編)
- 28.#14冰の劣等生(後編)
- 29.#15強欲の残滓
- 30.エピローグ