神殿の最奥。かつて王侯貴族が震えながら救いを乞うた漆黒の大理石の床に、場違いなチェス盤が置かれていた。
「ハッ! 駒の動きなんざ、さっきの一局で理解したよ。アタシを誰だと思ってんだ? 何百年もこの世界で『騙し合い』を生き抜いてきたエルフ、フィニティ様だぞ」
フィニティは玉座に足を組み、不遜な笑みで黒のクイーンを前進させた。
正直、チェスなどという退屈な遊戯に興味はなかった。だが、目の前のガキ────フェリスを側に留めておくためだ。この無味だが空腹を癒やす不思議な幽霊を、手放すわけにはいかない。
対して、白の駒を操るフェリスは、相変わらず楽しげに鼻歌を歌っている。
「えいっ。じゃあ、わたしはこれ!」
フェリスが透き通った指先を動かした瞬間。
フィニティの背筋に、冷たい風が吹き抜けた。
「……ッ、何だ……?」
指し手自体は、セオリーを無視した奇襲。本来なら鼻で笑って一蹴できるはずの稚拙な動きだ。
だが、その駒が置かれた瞬間、フィニティの鋭敏な感覚が「味」を拾った。
無味だったはずのフェリスから、微かに、本当に微かに漏れ出した感情。
それは今まで食らってきた、どの信者の「しょっぱい」後悔とも違っていた。
「おい、ガキ……。お前、その指し方……」
[太字][大文字]「えへへ、お姉ちゃん、困ってる? わたしね、ずっと一人でこればっかりしてたんだよ。白い壁に囲まれた、静かなお部屋で。窓の外を見ても、誰もいないの。だから、盤の中の駒だけが、わたしの『お友達』だったんだ」[/大文字][/太字]
フェリスは無邪気に笑う。だが、その笑みに重なるように、フィニティの脳裏には一つの情景が浮かび上がった。
消毒液の匂い。規則的な機械音。
そして、薄暗い部屋で一人、誰に届くこともない「チェックメイト」を呟き続ける小さな背中。
それは、フィニティが最も嫌う「弱者の匂い」でありながら、同時に彼女自身がエルフとして歩んできた数世紀の「果てしない退屈」と、どこか重なる色をしていた。
「……ケッ。……くだらねえ」
フィニティは毒づいた。だが、先ほどまでの傲慢な勢いは消え失せている。
彼女の指が、迷うように駒の上を彷徨った。
「誰にも相手にされねえから、盤の上で『壁』を作って守りを固める……。お前の指し手は、臆病者のそれだよ。見てて吐き気がすんだよ、そんな湿っぽいのはさ」
「……お姉ちゃん、怒ってる?」
「怒ってねえよ! ……ああ、もう、クソッ!」
気づけば、フィニティの黒いキングは逃げ場を失っていた。
思考が乱れた隙に、フェリスの「孤独な軍勢」が盤上を支配していたのだ。
「あー……っ! 負けだ! 負けだよ! ったく、このアタシがガキに一発も入れられねえなんて……。あー、面白くねえ! しょっぺぇ記憶よりよっぽど胃にくるぜ……」
フィニティは頭をかきむしり、大の字になって床に寝転がった。
「わーい! わたしの勝ち! じゃあ、約束通り……お姉ちゃん、ポニーになって!」
フェリスが嬉しそうに駆け寄ってくる。
本来なら、教祖としての尊厳を汚す無礼な要求だ。しかし、フィニティは「チッ」と舌打ちをしながらも、ゆっくりと膝をついた。
「……分かったよ。一局は一局だ。ほら、さっさと乗れよ。すり抜けるから、アタシがバランス取ってやるからな」
物理的には触れられないはずなのに、フェリスを「背負う」形を作ると、不思議な温もりが背中に宿る。
味はしない。なのに、空腹が満たされる感覚。
「お姉ちゃん、あったかーい!」
「……うるせえよ。アタシは熱血教師じゃねえんだ。……なあ、ガキ」
「なあに?」
「……。……いや、なんでもねえ」
フィニティは、言いかけた言葉を飲み込んだ。
(そんな悲しい指し方、もうしなくていい。……アタシがいるんだから)
そんな「甘い」セリフは、悪徳教祖の自分の口には、どうしても似合わない気がしたから。
「ハッ! 駒の動きなんざ、さっきの一局で理解したよ。アタシを誰だと思ってんだ? 何百年もこの世界で『騙し合い』を生き抜いてきたエルフ、フィニティ様だぞ」
フィニティは玉座に足を組み、不遜な笑みで黒のクイーンを前進させた。
正直、チェスなどという退屈な遊戯に興味はなかった。だが、目の前のガキ────フェリスを側に留めておくためだ。この無味だが空腹を癒やす不思議な幽霊を、手放すわけにはいかない。
対して、白の駒を操るフェリスは、相変わらず楽しげに鼻歌を歌っている。
「えいっ。じゃあ、わたしはこれ!」
フェリスが透き通った指先を動かした瞬間。
フィニティの背筋に、冷たい風が吹き抜けた。
「……ッ、何だ……?」
指し手自体は、セオリーを無視した奇襲。本来なら鼻で笑って一蹴できるはずの稚拙な動きだ。
だが、その駒が置かれた瞬間、フィニティの鋭敏な感覚が「味」を拾った。
無味だったはずのフェリスから、微かに、本当に微かに漏れ出した感情。
それは今まで食らってきた、どの信者の「しょっぱい」後悔とも違っていた。
「おい、ガキ……。お前、その指し方……」
[太字][大文字]「えへへ、お姉ちゃん、困ってる? わたしね、ずっと一人でこればっかりしてたんだよ。白い壁に囲まれた、静かなお部屋で。窓の外を見ても、誰もいないの。だから、盤の中の駒だけが、わたしの『お友達』だったんだ」[/大文字][/太字]
フェリスは無邪気に笑う。だが、その笑みに重なるように、フィニティの脳裏には一つの情景が浮かび上がった。
消毒液の匂い。規則的な機械音。
そして、薄暗い部屋で一人、誰に届くこともない「チェックメイト」を呟き続ける小さな背中。
それは、フィニティが最も嫌う「弱者の匂い」でありながら、同時に彼女自身がエルフとして歩んできた数世紀の「果てしない退屈」と、どこか重なる色をしていた。
「……ケッ。……くだらねえ」
フィニティは毒づいた。だが、先ほどまでの傲慢な勢いは消え失せている。
彼女の指が、迷うように駒の上を彷徨った。
「誰にも相手にされねえから、盤の上で『壁』を作って守りを固める……。お前の指し手は、臆病者のそれだよ。見てて吐き気がすんだよ、そんな湿っぽいのはさ」
「……お姉ちゃん、怒ってる?」
「怒ってねえよ! ……ああ、もう、クソッ!」
気づけば、フィニティの黒いキングは逃げ場を失っていた。
思考が乱れた隙に、フェリスの「孤独な軍勢」が盤上を支配していたのだ。
「あー……っ! 負けだ! 負けだよ! ったく、このアタシがガキに一発も入れられねえなんて……。あー、面白くねえ! しょっぺぇ記憶よりよっぽど胃にくるぜ……」
フィニティは頭をかきむしり、大の字になって床に寝転がった。
「わーい! わたしの勝ち! じゃあ、約束通り……お姉ちゃん、ポニーになって!」
フェリスが嬉しそうに駆け寄ってくる。
本来なら、教祖としての尊厳を汚す無礼な要求だ。しかし、フィニティは「チッ」と舌打ちをしながらも、ゆっくりと膝をついた。
「……分かったよ。一局は一局だ。ほら、さっさと乗れよ。すり抜けるから、アタシがバランス取ってやるからな」
物理的には触れられないはずなのに、フェリスを「背負う」形を作ると、不思議な温もりが背中に宿る。
味はしない。なのに、空腹が満たされる感覚。
「お姉ちゃん、あったかーい!」
「……うるせえよ。アタシは熱血教師じゃねえんだ。……なあ、ガキ」
「なあに?」
「……。……いや、なんでもねえ」
フィニティは、言いかけた言葉を飲み込んだ。
(そんな悲しい指し方、もうしなくていい。……アタシがいるんだから)
そんな「甘い」セリフは、悪徳教祖の自分の口には、どうしても似合わない気がしたから。