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ー人生ー

#32

「日常編」

春の匂いが、街にゆっくりと溶けていた。
スペルはベンチに座り、両手で紙コップを包んでいる。中身は甘すぎるココア。神である彼女に体温は必要ない。それでも、湯気が立つものを持つと“人間らしい気分”になれる気がした。
「遅いな……」
つぶやいた瞬間、背後から勢いよく声が飛ぶ。
「待った! ごめん、電車一本逃した!」
振り向くと、息を切らした弦音ざ立っていた。頬が赤い。走ってきたのだろう。
「三分二十七秒遅れ」
「細かい!」
スペルは立ち上がる。今日は買い物に付き合う約束だった。特別な予定ではない。ただの、休日の午後。
商店街を歩く。焼きたてのパンの匂い、揚げ物の音、子どもたちの笑い声。
スペルは無意識に、すれ違う人々の寿命を視てしまう。長い糸、短い糸。ほどけかけた光。視界の端に流れ込む情報を、そっと閉じた。
「……」
「どうしたの?」
佳世が覗き込む。
「なんでもねぇよ」
嘘だ。本当は、なんでもなくない。
限りがある。みんな、限りがある。
八百屋の前で弦音が立ち止まる。「これ安い!」とトマトを掲げる。どうでもいい、世界の均衡とは無関係な喜び。
それでも。その「どうでもよさ」が、眩しい。
「スペル、どっちがいいと思う?」
「赤いほう」
「どっちも赤いけど!?」
少し笑う。完璧な存在であるはずの神が、トマトの善し悪しに悩む。
スーパーを出たあと、二人は川沿いを歩いた。風が強く、桜が一枚、スペルの髪に引っかかる。
佳世がそれを取ろうとして、ふと止まった。
「……ねえ、スペル」
「なに」
「来年も、こうして歩けるよね?」
その問いは軽い調子のはずなのに、どこか重い。
スペルは一瞬、答えを探す。
来年。再来年。十年後。百年後。
自分はいる。だが、隣は。
「……歩けるばいいんじゃないの」
短い返答。
未来を保証したわけじゃない。ただ、今を否定しなかっただけ。
弦音は満足そうに笑い、先に歩き出す。スペルは一歩遅れてついていく。
桜がまた一枚、落ちる。
それは終わりの象徴かもしれない。けれど同時に、今ここに風が吹いている証でもある。
スペルは思う。
壮大な戦いも、神々の議論もない午後。
世界の命運とは無関係な買い物袋。
甘すぎるココア。
こういう時間を、失いたくないと思ってしまうこと。
それがきっと、自分がいちばん人間に近づく瞬間なのだと。
「置いてくよー!」
呼ばれて、スペルは少しだけ走る。
神が走る理由は、世界の崩壊ではなく。
ただ、隣の背中を見失わないためだった。

作者メッセージ

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2026/02/28 20:55

徒花
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創作長期ファンタジー天文

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