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雨の匂いが、静かな石畳に落ちていた。
ベータ=アッディーオは、薄黄色のロングヘアーを揺らしながら、古い音楽堂の扉を押し開ける。小柄な身体に、和服を思わせる淡い藍の上衣と、洋の仕立ての細身の袴風スカート。霞んだ水色の瞳は、まるで降り止まぬ雨雲を映した湖のようだった。
彼女は[太字]天才[/太字]だった。
だが、その言葉に甘えることはない。自他共に厳しく、音の一粒にさえ妥協を許さない。弓を持つ指先は細く白いが、芯は鋼のように強い。心もまた同じだった。
音楽堂の中央に置かれた古いチェロケースを開く。艶やかな木肌は、長い年月を越えてきた証のように深い飴色をしている。
「……今日も、試されるのは私」
静かに呟き、弓を弦に置いた。
最初の一音が落ちた瞬間、空気が変わる。
低く、あたたかな振動が床を伝い、壁を伝い、天井へと昇る。その音はただの旋律ではない。雨粒を呼び、風を揺らし、遠い記憶を目覚めさせる力を持っていた。
二音、三音。
旋律が重なるごとに、音楽堂の天井に淡い光が滲みはじめる。水色の光は彼女の瞳と呼応するように揺れ、やがて無数の雨粒となって宙に浮かんだ。
それは本物の雨ではない。音から生まれた可能性。
ベータは感情に溺れない。涙をこぼす代わりに、弓を強く引く。強靭な精神が、揺れそうになる心を正確に支える。
やがて旋律は高みへと昇る。
低音の深淵から、澄み切った高音へ。雨は光へと変わり、音楽堂いっぱいに淡い朝焼けの色を灯した。
最後の一音が消えたとき、光は静かに溶ける。
残ったのは、深い静寂。
しかしそれは空虚ではない。優しく、温かな沈黙だった。
ベータはゆっくりと弓を下ろす。霞んだ水色の瞳が、ほんのわずかに柔らぐ。
「……まだ、足りない」
そう言いながらも、その声音はどこか穏やかだった。
厳しさの奥に宿る優しさ。
強さの奥に隠れた祈り。
彼女の奏でる音は、傷ついた世界を叱咤しながらも、そっと抱きしめる。
雨はやがて止むだろうか。