朝の軸柊奏には、音が戻ってきていた。
湯の沸く音、食器の触れ合う音、誰かの欠伸。
「おかえり」
その言葉を受け取って、スペルは家に足を踏み入れた。
床の冷たさが、やけに現実的だった。生きている家。進み続ける時間。
——選んだのだ、と実感する。
だが、その翌朝だった。いつも最初に姿を見せる夏紀が、現れない。
「……夏紀?」
返事はなく、部屋の扉の向こうから、かすかな呼吸だけが聞こえた。ベッドの上で、夏紀は丸くなっていた。頬が赤い。
体温計の電子音。
三十七度八分。
「微熱……」
「……ちょっとだけ……」
“ちょっと”と言いながら、声に力がない。
「今日は休み」
「でも……」
「休み」
それ以上、言わせなかった。布団を整え、冷たいタオルを額に乗せる。その瞬間、指先が記憶を引きずり出した。白い病室。消毒液の匂い。規則正しかった音が、突然乱れた瞬間。トキ。
上下していた小さな胸。
止められなかった呼吸。
「……違う」
思わず、声が漏れる。夏紀は生きている。
今ここで、熱を出して、眠っている。
それなのに、二つの時間が重なる。
進んでいる針と、止まった針。
——忘れなかったからだ。
忘却列車で、降りなかったから。
トキの歌も、最後の声も、胸の奥に置いたままだから。治せる。
触れれば、この微熱は消える。
それでも、スペルは手を引いた。
これは罰じゃない。
選択だ。
微熱で立ち止まる朝も、弱くなる時間も、
生きている者の人生だから。
夏紀が、眠りの中で小さく呟く。
「……ありがと……」
胸が締め付けられる。トキは、もう何も言わない。
でも、夏紀は言える。その差を抱えたまま、
スペルは椅子に腰掛け、呼吸を聞き続けた。
『おてつだいできることごあればやります』
佳世がそう言う。
時計の針は進む、微熱の朝を含くめて。
湯の沸く音、食器の触れ合う音、誰かの欠伸。
「おかえり」
その言葉を受け取って、スペルは家に足を踏み入れた。
床の冷たさが、やけに現実的だった。生きている家。進み続ける時間。
——選んだのだ、と実感する。
だが、その翌朝だった。いつも最初に姿を見せる夏紀が、現れない。
「……夏紀?」
返事はなく、部屋の扉の向こうから、かすかな呼吸だけが聞こえた。ベッドの上で、夏紀は丸くなっていた。頬が赤い。
体温計の電子音。
三十七度八分。
「微熱……」
「……ちょっとだけ……」
“ちょっと”と言いながら、声に力がない。
「今日は休み」
「でも……」
「休み」
それ以上、言わせなかった。布団を整え、冷たいタオルを額に乗せる。その瞬間、指先が記憶を引きずり出した。白い病室。消毒液の匂い。規則正しかった音が、突然乱れた瞬間。トキ。
上下していた小さな胸。
止められなかった呼吸。
「……違う」
思わず、声が漏れる。夏紀は生きている。
今ここで、熱を出して、眠っている。
それなのに、二つの時間が重なる。
進んでいる針と、止まった針。
——忘れなかったからだ。
忘却列車で、降りなかったから。
トキの歌も、最後の声も、胸の奥に置いたままだから。治せる。
触れれば、この微熱は消える。
それでも、スペルは手を引いた。
これは罰じゃない。
選択だ。
微熱で立ち止まる朝も、弱くなる時間も、
生きている者の人生だから。
夏紀が、眠りの中で小さく呟く。
「……ありがと……」
胸が締め付けられる。トキは、もう何も言わない。
でも、夏紀は言える。その差を抱えたまま、
スペルは椅子に腰掛け、呼吸を聞き続けた。
『おてつだいできることごあればやります』
佳世がそう言う。
時計の針は進む、微熱の朝を含くめて。
- 1.「人生」
- 2.「奇跡の星」
- 3.「夏紀」
- 4.「とある隣人は」
- 5.「立場」
- 6.徒花の行方
- 7.「幼女は」
- 8.「笑顔」
- 9.「軸柊奏」
- 10.徒花の行方
- 11.「居場所」
- 12.「弦の音」
- 13.「答え」
- 14.「日常編」
- 15.「悩むものか」
- 16.「歪み」
- 17.「信頼」
- 18.「余命」
- 19.「時歌」
- 20.「日常編」
- 21.「神として」
- 22.「忘却列車」
- 23.「微熱」
- 24.「クリスマス」
- 25.「プレゼント」
- 26.「鳴っている」
- 27.「バレンタイン」
- 28.「日常」
- 29.「誰」
- 30.「戦場」
- 31.「アレス」
- 32.「日常編」
- 33.「破会議壊」
- 34.「徒花の行方」
- 35.「戦の予兆」
- 36.「日常編」