扉は、音もなく開いた。
金属が擦れる音も、空気の流れもない。
ただ「そうなることが決まっていた」みたいに、目の前に入口が現れる。
スペルは、しばらく立ち尽くしていた。
一歩踏み出せば戻れない、なんて単純な話じゃない。
戻ろうと思えば、神なのだからいつでも戻れる。
それでも足が重いのは、戻った先にある“日常”が、もう以前と同じではないと知っているからだ。
「……少しだけ、だ」
誰に言い訳するでもなく呟き、スペルは列車に乗り込んだ。
車内は静かだった。古い布の匂い、乾いた金属の冷たさ。人の気配はないのに、人が残していった温度だけが、薄く漂っている。
座席に腰を下ろすと、身体が思った以上に沈んだ。
重力が強いわけじゃない。
記憶が、引き留めている。
列車が動き出す。
揺れはほとんどなく、進んでいる実感も曖昧だ。
それでも窓の外では、光が流れていた。
星ではない。
風景でもない。
——誰かの人生だ。
笑った顔、伏せた背中、言えなかった言葉。
触れれば壊れてしまいそうな瞬間が、次々と通り過ぎていく。
スペルは視線を逸らそうとして、できなかった。
「……見せる気、満々だな」
皮肉を言っても、胸の奥は静かに痛む。
白い病室が見えた。
小さな手が、シーツを握っている。
震える声で、最後まで歌おうとした旋律。
「……トキ」
名前を呼ぶと、列車の空気がわずかに軋んだ。
[水平線][保存中の記憶、過多]
無機質なアナウンスが響く。
[水平線][忘却を推奨]
「合理的だね」
スペルは、ため息混じりに答える。
「忘れれば、楽になる。神らしくなれる」
それは、真実だ。
感情を削ぎ落とせば、観測は正確になり、判断は鈍らない。
でも。
「それで、何が残る?」
問いかけても、返事はない。
列車が減速する。
窓の外に、白いホームが現れた。
静寂だけでできた場所。
何も考えず、何も感じずに済む終着点。
扉が開く。
その向こうに立つ弦音を見た瞬間、
スペルの胸の奥で、はっきりと何かが鳴った。
「……迎え?」
「違うよ」
弦音は、静かに首を振る。
「見届け」
その言葉だけで、十分だった。
スペルは立ち上がり、扉の前まで行く。
白い光が、足元を照らす。
一歩踏み出せば、重さは消える。
迷いも、痛みも、後悔も。
それでも、足は止まった。
座席に残された切符が、目に入る。
薄れかけた文字で、名前が書かれている。
——スペル。
誰かに呼ばれ、誰かの中で残った音。
「……やっぱりさ」
スペルは、小さく笑った。
「忘れるには、うるさすぎるんだよ」
一歩、後ろへ下がる。
扉が閉まり、列車は再び走り出した。
重さは消えない。
痛みも残る。
それでも、胸の奥で鳴る音は、確かに“生きている”音だった。
忘却列車は、終点を持たない。
だが今この瞬間、
スペルは確かに、自分の進行方向を選んでいた。
——針は、まだ進む。
金属が擦れる音も、空気の流れもない。
ただ「そうなることが決まっていた」みたいに、目の前に入口が現れる。
スペルは、しばらく立ち尽くしていた。
一歩踏み出せば戻れない、なんて単純な話じゃない。
戻ろうと思えば、神なのだからいつでも戻れる。
それでも足が重いのは、戻った先にある“日常”が、もう以前と同じではないと知っているからだ。
「……少しだけ、だ」
誰に言い訳するでもなく呟き、スペルは列車に乗り込んだ。
車内は静かだった。古い布の匂い、乾いた金属の冷たさ。人の気配はないのに、人が残していった温度だけが、薄く漂っている。
座席に腰を下ろすと、身体が思った以上に沈んだ。
重力が強いわけじゃない。
記憶が、引き留めている。
列車が動き出す。
揺れはほとんどなく、進んでいる実感も曖昧だ。
それでも窓の外では、光が流れていた。
星ではない。
風景でもない。
——誰かの人生だ。
笑った顔、伏せた背中、言えなかった言葉。
触れれば壊れてしまいそうな瞬間が、次々と通り過ぎていく。
スペルは視線を逸らそうとして、できなかった。
「……見せる気、満々だな」
皮肉を言っても、胸の奥は静かに痛む。
白い病室が見えた。
小さな手が、シーツを握っている。
震える声で、最後まで歌おうとした旋律。
「……トキ」
名前を呼ぶと、列車の空気がわずかに軋んだ。
[水平線][保存中の記憶、過多]
無機質なアナウンスが響く。
[水平線][忘却を推奨]
「合理的だね」
スペルは、ため息混じりに答える。
「忘れれば、楽になる。神らしくなれる」
それは、真実だ。
感情を削ぎ落とせば、観測は正確になり、判断は鈍らない。
でも。
「それで、何が残る?」
問いかけても、返事はない。
列車が減速する。
窓の外に、白いホームが現れた。
静寂だけでできた場所。
何も考えず、何も感じずに済む終着点。
扉が開く。
その向こうに立つ弦音を見た瞬間、
スペルの胸の奥で、はっきりと何かが鳴った。
「……迎え?」
「違うよ」
弦音は、静かに首を振る。
「見届け」
その言葉だけで、十分だった。
スペルは立ち上がり、扉の前まで行く。
白い光が、足元を照らす。
一歩踏み出せば、重さは消える。
迷いも、痛みも、後悔も。
それでも、足は止まった。
座席に残された切符が、目に入る。
薄れかけた文字で、名前が書かれている。
——スペル。
誰かに呼ばれ、誰かの中で残った音。
「……やっぱりさ」
スペルは、小さく笑った。
「忘れるには、うるさすぎるんだよ」
一歩、後ろへ下がる。
扉が閉まり、列車は再び走り出した。
重さは消えない。
痛みも残る。
それでも、胸の奥で鳴る音は、確かに“生きている”音だった。
忘却列車は、終点を持たない。
だが今この瞬間、
スペルは確かに、自分の進行方向を選んでいた。
——針は、まだ進む。
- 1.「人生」
- 2.「奇跡の星」
- 3.「夏紀」
- 4.「とある隣人は」
- 5.「立場」
- 6.徒花の行方
- 7.「幼女は」
- 8.「笑顔」
- 9.「軸柊奏」
- 10.徒花の行方
- 11.「居場所」
- 12.「弦の音」
- 13.「答え」
- 14.「日常編」
- 15.「悩むものか」
- 16.「歪み」
- 17.「信頼」
- 18.「余命」
- 19.「時歌」
- 20.「日常編」
- 21.「神として」
- 22.「忘却列車」
- 23.「微熱」
- 24.「クリスマス」
- 25.「プレゼント」
- 26.「鳴っている」
- 27.「バレンタイン」
- 28.「日常」
- 29.「誰」
- 30.「戦場」
- 31.「アレス」
- 32.「日常編」
- 33.「破会議壊」
- 34.「徒花の行方」
- 35.「戦の予兆」
- 36.「日常編」