今日は満月、明日は六月
俺は陽だまりの縁側に腰掛け、先ほど耕した畑を眺めていた。
山から吹き下ろしてくる、暖かな春風を受け止める。
ああ、幸せだ。
青空にただ一つ浮かぶ雲を見上げて、死んだ妻のことを想った。
妻は、生まれた時から耳が不自由であった。
そんな彼女は、家族からも蔑まれて生きてきた。
俺は、町で偶然見かけた彼女に一目ぼれ。
ついていくと、次第に見慣れた風景が広がってきて、向かいに住むタカワの爺さんの平家に入っていった。
タカワの爺さんと言えば、挨拶をしなかっただけで殴ってくる、イカレタ爺さんだ。
タカワの爺さんには、隠し子がいたのか?
年齢的にも、そうとしか思えなかった。
それ以降、夜中に彼女に会いに行き、手話を使って話し合った。
でかい声を出せば、伝わるには伝わるのだが、気づかれては意味がない。
このことが明るみになってしまうと、俺も、俺の家族から蔑まれてしまう。
そんなこと、絶対に嫌だ。生きていて幸せとは思えない。
そして、彼女にとってはそれが日常であることは、俺の心を痛ませた。
夜中の手会話は、深夜まで、月明かりを頼りにして行われた。
四畳半の個室、ござの上。電灯が無い、時代遅れの家だ。タカワ爺さんの家らしい。
彼女には、似合わない。
彼女は、「この時間だけは闇から逃れられる」と伝えてくれた。
俺は、彼女の潤んだ目を見つめ、それから抱きしめた。
よく見ると、足の方に痣ができていた。
ある夜、彼女が夜逃げの提案をしてきた。
俺はそのころ、盗みを犯してしまったために、家に居ることが億劫になってしまった。だから、夜逃げには賛成だった。
そして、彼女の熱烈な視線から、その本気度を窺えた。
もともと、彼女は嘘をつく癖は無かった。
どちらかというと、嘘を見抜く癖が彼女にはあり、泥棒を隠した際も簡単に見抜かれた。そして、額を突っつかれた。怒られていると気が付くのに、時間がかかった。
音の情報を遮断する代わりに、嘘と真実の判別ができるのかい。と、彼女に問うてみたことがある。
彼女はそんな冗談を笑ってくれた。
その笑い声は、蛙のけたたましいがなり声にかき消されたために、俺にも、彼女の家族にも届かなかった。
忌々しいほどジメジメとした、満月の夜だった。
夜逃げ先は、俺の知り合いの家になった。田んぼに囲まれるような、街灯の無いところにある。
たどり着けるかどうか、俺たち2人は不安になった。
夜逃げ当日。その日も、満月の夜だった。
2人きりで居るのも、これで最後かもしれない。だから、目一杯話し合った後に、夜逃げを決行した。
この部屋は、家族から遠く離された場所に位置している、つまりは家の端っこの部屋なので、窓がある。
大人でも簡単に出入りできる窓だ。これを使って、俺は侵入していた。
音を立てぬよう、脱出した。
しかし、足元の落ち葉に気がつかず踏んでしまった。
ぐしゃりとした音が鳴る。
幸いにも、タカワの爺さんは起きてこなかった。
我を忘れて走っていた。とにかく俺たちは、この土地から逃げたかった。
彼女は、荒い息をしていた。運動はしてこなかったのだから、しょうがない。
「頑張れ、あともう少しだ」
その旨を手話で伝えた後に、背中を叩き合い、鼓舞した。
「うん、頑張る」
そういう彼女の声が、聞こえたような気がした。
知り合いの家まではまだかなりあったが、俺たちは疲れてしまっていた。
彼女は立ち尽くし、天を仰いだ。俺もそうした。
夜空は満月に照らされたせいで、その他の星々がよく見えなかった。
向かうべき方向は、合っているのだろうか?
ふと、そんな疑問が生じた。
彼女を見ると、満月に照らされた涙が美しくも儚く、頬を伝っていた。
声を出さずに、泣いていた。唇を噛んで、震えている。
見るまで気が付けなかった。
彼女は、笑いたいときも、泣きたいときも、ずっとこうして声を殺して生きてきたのだ。
彼女は耳が聞こえづらいし、向かいに住んでいた俺ですら気づけないほどに隠され、人との関りを断絶させられていたから分かっていないだろうが、それは絶対におかしいことだ。
「楽しいなら、声をあげて笑っていい。怖いのなら、声をあげて泣いてもいい」
そう、手話で伝えた。
すると彼女は、「怖くはないよ、逃げられて、嬉しいだけだよ」と、答えてくれた。
「恐怖は、もう捨て去った。支配も、束縛も、全て」
それなら、俺はこう伝える。
「嬉しいときはな、抱き合うんだ。そうして、喜びを分かち合んだ」
そう伝え、抱擁した。
彼女は、声を殺す癖を忘れ、泣いていた。心臓の鼓動が俺にも伝わる。
「よし、行くぞ」
耳元で叫んだ。多分、伝わった。
涼しい風が頬を撫で、俺ら2人の緊張と興奮を冷ました。
向かうべき道はここだ。満月が示す先だ。
固く手を繋ぐ。
絶対に離さない。これからも、話したいから。
妻は、15年前の新月の日に亡くなった。
その日だけは、俺たちが声を失った。
さて、土いじりを再開しようかな。
立ち上がる。きしむ腰と足腰、痰が絡んだ咳をする。
この畑は、俺と妻が造り上げてきたものだ。
俺がいなくなった後は、どうなるのだろうか。
奥の洋室に居る、娘と孫の甘い会話が、遠くなった耳でも届いてきた。
継がせてやろうか、というのは傲慢かい?
山から吹き下ろしてくる、暖かな春風を受け止める。
ああ、幸せだ。
青空にただ一つ浮かぶ雲を見上げて、死んだ妻のことを想った。
妻は、生まれた時から耳が不自由であった。
そんな彼女は、家族からも蔑まれて生きてきた。
俺は、町で偶然見かけた彼女に一目ぼれ。
ついていくと、次第に見慣れた風景が広がってきて、向かいに住むタカワの爺さんの平家に入っていった。
タカワの爺さんと言えば、挨拶をしなかっただけで殴ってくる、イカレタ爺さんだ。
タカワの爺さんには、隠し子がいたのか?
年齢的にも、そうとしか思えなかった。
それ以降、夜中に彼女に会いに行き、手話を使って話し合った。
でかい声を出せば、伝わるには伝わるのだが、気づかれては意味がない。
このことが明るみになってしまうと、俺も、俺の家族から蔑まれてしまう。
そんなこと、絶対に嫌だ。生きていて幸せとは思えない。
そして、彼女にとってはそれが日常であることは、俺の心を痛ませた。
夜中の手会話は、深夜まで、月明かりを頼りにして行われた。
四畳半の個室、ござの上。電灯が無い、時代遅れの家だ。タカワ爺さんの家らしい。
彼女には、似合わない。
彼女は、「この時間だけは闇から逃れられる」と伝えてくれた。
俺は、彼女の潤んだ目を見つめ、それから抱きしめた。
よく見ると、足の方に痣ができていた。
ある夜、彼女が夜逃げの提案をしてきた。
俺はそのころ、盗みを犯してしまったために、家に居ることが億劫になってしまった。だから、夜逃げには賛成だった。
そして、彼女の熱烈な視線から、その本気度を窺えた。
もともと、彼女は嘘をつく癖は無かった。
どちらかというと、嘘を見抜く癖が彼女にはあり、泥棒を隠した際も簡単に見抜かれた。そして、額を突っつかれた。怒られていると気が付くのに、時間がかかった。
音の情報を遮断する代わりに、嘘と真実の判別ができるのかい。と、彼女に問うてみたことがある。
彼女はそんな冗談を笑ってくれた。
その笑い声は、蛙のけたたましいがなり声にかき消されたために、俺にも、彼女の家族にも届かなかった。
忌々しいほどジメジメとした、満月の夜だった。
夜逃げ先は、俺の知り合いの家になった。田んぼに囲まれるような、街灯の無いところにある。
たどり着けるかどうか、俺たち2人は不安になった。
夜逃げ当日。その日も、満月の夜だった。
2人きりで居るのも、これで最後かもしれない。だから、目一杯話し合った後に、夜逃げを決行した。
この部屋は、家族から遠く離された場所に位置している、つまりは家の端っこの部屋なので、窓がある。
大人でも簡単に出入りできる窓だ。これを使って、俺は侵入していた。
音を立てぬよう、脱出した。
しかし、足元の落ち葉に気がつかず踏んでしまった。
ぐしゃりとした音が鳴る。
幸いにも、タカワの爺さんは起きてこなかった。
我を忘れて走っていた。とにかく俺たちは、この土地から逃げたかった。
彼女は、荒い息をしていた。運動はしてこなかったのだから、しょうがない。
「頑張れ、あともう少しだ」
その旨を手話で伝えた後に、背中を叩き合い、鼓舞した。
「うん、頑張る」
そういう彼女の声が、聞こえたような気がした。
知り合いの家まではまだかなりあったが、俺たちは疲れてしまっていた。
彼女は立ち尽くし、天を仰いだ。俺もそうした。
夜空は満月に照らされたせいで、その他の星々がよく見えなかった。
向かうべき方向は、合っているのだろうか?
ふと、そんな疑問が生じた。
彼女を見ると、満月に照らされた涙が美しくも儚く、頬を伝っていた。
声を出さずに、泣いていた。唇を噛んで、震えている。
見るまで気が付けなかった。
彼女は、笑いたいときも、泣きたいときも、ずっとこうして声を殺して生きてきたのだ。
彼女は耳が聞こえづらいし、向かいに住んでいた俺ですら気づけないほどに隠され、人との関りを断絶させられていたから分かっていないだろうが、それは絶対におかしいことだ。
「楽しいなら、声をあげて笑っていい。怖いのなら、声をあげて泣いてもいい」
そう、手話で伝えた。
すると彼女は、「怖くはないよ、逃げられて、嬉しいだけだよ」と、答えてくれた。
「恐怖は、もう捨て去った。支配も、束縛も、全て」
それなら、俺はこう伝える。
「嬉しいときはな、抱き合うんだ。そうして、喜びを分かち合んだ」
そう伝え、抱擁した。
彼女は、声を殺す癖を忘れ、泣いていた。心臓の鼓動が俺にも伝わる。
「よし、行くぞ」
耳元で叫んだ。多分、伝わった。
涼しい風が頬を撫で、俺ら2人の緊張と興奮を冷ました。
向かうべき道はここだ。満月が示す先だ。
固く手を繋ぐ。
絶対に離さない。これからも、話したいから。
妻は、15年前の新月の日に亡くなった。
その日だけは、俺たちが声を失った。
さて、土いじりを再開しようかな。
立ち上がる。きしむ腰と足腰、痰が絡んだ咳をする。
この畑は、俺と妻が造り上げてきたものだ。
俺がいなくなった後は、どうなるのだろうか。
奥の洋室に居る、娘と孫の甘い会話が、遠くなった耳でも届いてきた。
継がせてやろうか、というのは傲慢かい?
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