アカデミアの外に出るのは入学以来、初めてだった。
雨はまだ降っていない。だが空気は湿り、鉄と土の匂いに混じってどこか甘く腐ったような香りが漂っている。それが――花蝕域の匂いだった。
ざらり、と。
目に見えない何かが喉の奥を撫でる。空気そのものが粒子を帯び、肌に触れる感触がわずかに重い。
天城博士が足を止め、静かに振り返った。白衣の裾が夜風に揺れる。
「ここから先が花蝕域の“第零層”だ」
声は穏やかだが、その奥に緊張が滲む。
「まだ浅い。だが……油断すれば死ぬだろう」
その言葉は誇張ではない。事実だった。みやの喉が小さく鳴る。
「し、死ぬ……?」
闇の向こうを見つめたまま、栞が淡々と応じる。
「そうよ」
否定も慰めもない。事実だけが落ちる。
茜は魔導書を開き、ページを素早く繰った。紙片の間から淡い光が滲み、文字列が粒子の流れと共鳴する。
「……お姉ちゃん、粒子密度、訓練時の三・二倍。しかも揺らぎが多い」
「ええ。みんな、気を抜かないで」
栞の声は低く、安定している。だがその指先は、わずかに強く杖を握りしめていた。如月はふわりと笑う。夜気の中、その笑みだけが場違いなほど柔らかい。
「んふふ……怖いですねぇ。嘘ですけど」
星羅がすぐにその袖を掴んだ。
「おねーちゃん、離れないでね……?」
零音は目を閉じ、一度だけ深く呼吸する。
「……深い。嫌な音」
彼女の耳には誰も聴かないはずの低い振動が届いている。地の底を這うような、不快な基底波。
音羽が眉をひそめた。
「雑音が多いです。純度が低い……制御が難しい」
ユウキは一歩前に出る。
(……俺が、固定する)
それが自分の役目だ。揺らぐ世界を縫い止める杭になること。
博士の声が飛ぶ。
「ユウキ、零音、栞、茜。粒子の“固定”と“基底抑制”を優先だ」
「了解」
「……はい」
「任せて」
「お姉ちゃん、合わせるよ」
四つの声が重なる。空気が震えた。
見えないはずの粒子が、薄く光を帯びる。
ユウキの高音が真芯を貫き、零音の低域が基底を抑え、栞が構造を整え、茜が流路を編む。ざわついていた空間が――
一瞬だけ、澄んだ。だが、その静けさはあまりにも唐突に破られたのだった。
「きゃっ……!」
短い悲鳴。さなが膝をついた。指先が路面を掻き、爪が濡れたアスファルトを滑る。
「さな!?」
みやが駆け寄る。さなの瞳は焦点を失い、唇が震えている。
「声が……吸われてる……」
か細い、掠れた声。茜の指が魔導書を乱暴に繰った。
「粒子が“声”を媒介に増幅してる……違う、逆流……奪ってる!」
ページの文字列が乱れ、光が散る。
「この層、危険すぎる!」
空気がまた重くなった。如月がゆらりと揺れる。
「ん〜……嫌な揺らぎですねぇ」
その声音に、わずかな震え。星羅が強く腕を掴む。
「おねーちゃん、危ないよ……!」
音羽が鋭く言い放つ。
「如月さん、揺らぎを出さないでください。純度が落ちます」
笑みが止まり、如月の目が細くなる。
「……へぇ。またそれですか」
言葉の端が冷える。零音が小さく呟いた。
「……喧嘩、だめ」
その瞬間だった。
空間が裂ける。
粒子が一斉に暴発した。圧縮された振動が解放され、衝撃波となって全員を叩く。
「わっ……!!」
零音の身体が宙を舞い、壁へと叩きつけられた。鈍い音。呼吸が詰まる。
「零音!!」
ユウキが駆け寄る。
「ごめん……なさい……基底……抑えきれな……」
声が途切れた。ユウキは彼女を抱き上げる。軽い。あまりにも軽い。
(……守れなかった)
胸の奥で何かが軋む。
「なんで……!」
その声が空間を震わせ、粒子が再びざわめく。栞が叫んだ。
「ユウキ、落ち着いて!」
「しかし……!」
焦燥と恐怖が空気をさらに濁す。如月が一歩、前へ出た。
「……揺らぎ、使います?」
星羅が悲鳴を上げる。
「おねーちゃん、だめ!!」
わずかに解き放たれた揺らぎ。それだけで十分だった。粒子が狂乱する。音羽が叫ぶ。
「如月さん!! それは――」
茜の声が震える。
「……このままじゃ、全員……!」
ユウキは零音を抱きしめたまま、立ち上がった。足が震えている。それでも、前へ出る。
「……全員、後ろへ!」
肺の奥から、音を引き抜く。
揺れない。ぶれない。制御型高音。澄み切った一本の線が、空気を貫いた。乱れた粒子の核を射抜き、瞬間的に縫い止める。
世界が――止まる。博士の叫びが響いた。
「撤退だ!この層は今のままでは無理だ!」
走る。濡れた路面を蹴り、息を切らす。
誰一人振り返らない。ユウキは零音を抱えたまま、ただ前を見ていた。
(……俺が、弱いから)
その思考だけが、何度も胸を打つ。
[水平線]
やがて花蝕域のざらつきが薄れ、夜の匂いが戻る。 ぽつり、と。冷たい滴が頬を打った。雨だ。音もなく、静かに降り始める。
誰も言葉を発しない。さなはうつむき、みやは唇を噛み、如月は笑みを消し、星羅はその手を離さない。音羽は何かを堪えるように目を伏せ、栞は遠くを見つめ、茜は魔導書を抱きしめている。
ユウキは、ただ零音の体温を確かめた。まだ、温かい。それだけが救いだった。
雨が静かに降り続ける。
雨はまだ降っていない。だが空気は湿り、鉄と土の匂いに混じってどこか甘く腐ったような香りが漂っている。それが――花蝕域の匂いだった。
ざらり、と。
目に見えない何かが喉の奥を撫でる。空気そのものが粒子を帯び、肌に触れる感触がわずかに重い。
天城博士が足を止め、静かに振り返った。白衣の裾が夜風に揺れる。
「ここから先が花蝕域の“第零層”だ」
声は穏やかだが、その奥に緊張が滲む。
「まだ浅い。だが……油断すれば死ぬだろう」
その言葉は誇張ではない。事実だった。みやの喉が小さく鳴る。
「し、死ぬ……?」
闇の向こうを見つめたまま、栞が淡々と応じる。
「そうよ」
否定も慰めもない。事実だけが落ちる。
茜は魔導書を開き、ページを素早く繰った。紙片の間から淡い光が滲み、文字列が粒子の流れと共鳴する。
「……お姉ちゃん、粒子密度、訓練時の三・二倍。しかも揺らぎが多い」
「ええ。みんな、気を抜かないで」
栞の声は低く、安定している。だがその指先は、わずかに強く杖を握りしめていた。如月はふわりと笑う。夜気の中、その笑みだけが場違いなほど柔らかい。
「んふふ……怖いですねぇ。嘘ですけど」
星羅がすぐにその袖を掴んだ。
「おねーちゃん、離れないでね……?」
零音は目を閉じ、一度だけ深く呼吸する。
「……深い。嫌な音」
彼女の耳には誰も聴かないはずの低い振動が届いている。地の底を這うような、不快な基底波。
音羽が眉をひそめた。
「雑音が多いです。純度が低い……制御が難しい」
ユウキは一歩前に出る。
(……俺が、固定する)
それが自分の役目だ。揺らぐ世界を縫い止める杭になること。
博士の声が飛ぶ。
「ユウキ、零音、栞、茜。粒子の“固定”と“基底抑制”を優先だ」
「了解」
「……はい」
「任せて」
「お姉ちゃん、合わせるよ」
四つの声が重なる。空気が震えた。
見えないはずの粒子が、薄く光を帯びる。
ユウキの高音が真芯を貫き、零音の低域が基底を抑え、栞が構造を整え、茜が流路を編む。ざわついていた空間が――
一瞬だけ、澄んだ。だが、その静けさはあまりにも唐突に破られたのだった。
「きゃっ……!」
短い悲鳴。さなが膝をついた。指先が路面を掻き、爪が濡れたアスファルトを滑る。
「さな!?」
みやが駆け寄る。さなの瞳は焦点を失い、唇が震えている。
「声が……吸われてる……」
か細い、掠れた声。茜の指が魔導書を乱暴に繰った。
「粒子が“声”を媒介に増幅してる……違う、逆流……奪ってる!」
ページの文字列が乱れ、光が散る。
「この層、危険すぎる!」
空気がまた重くなった。如月がゆらりと揺れる。
「ん〜……嫌な揺らぎですねぇ」
その声音に、わずかな震え。星羅が強く腕を掴む。
「おねーちゃん、危ないよ……!」
音羽が鋭く言い放つ。
「如月さん、揺らぎを出さないでください。純度が落ちます」
笑みが止まり、如月の目が細くなる。
「……へぇ。またそれですか」
言葉の端が冷える。零音が小さく呟いた。
「……喧嘩、だめ」
その瞬間だった。
空間が裂ける。
粒子が一斉に暴発した。圧縮された振動が解放され、衝撃波となって全員を叩く。
「わっ……!!」
零音の身体が宙を舞い、壁へと叩きつけられた。鈍い音。呼吸が詰まる。
「零音!!」
ユウキが駆け寄る。
「ごめん……なさい……基底……抑えきれな……」
声が途切れた。ユウキは彼女を抱き上げる。軽い。あまりにも軽い。
(……守れなかった)
胸の奥で何かが軋む。
「なんで……!」
その声が空間を震わせ、粒子が再びざわめく。栞が叫んだ。
「ユウキ、落ち着いて!」
「しかし……!」
焦燥と恐怖が空気をさらに濁す。如月が一歩、前へ出た。
「……揺らぎ、使います?」
星羅が悲鳴を上げる。
「おねーちゃん、だめ!!」
わずかに解き放たれた揺らぎ。それだけで十分だった。粒子が狂乱する。音羽が叫ぶ。
「如月さん!! それは――」
茜の声が震える。
「……このままじゃ、全員……!」
ユウキは零音を抱きしめたまま、立ち上がった。足が震えている。それでも、前へ出る。
「……全員、後ろへ!」
肺の奥から、音を引き抜く。
揺れない。ぶれない。制御型高音。澄み切った一本の線が、空気を貫いた。乱れた粒子の核を射抜き、瞬間的に縫い止める。
世界が――止まる。博士の叫びが響いた。
「撤退だ!この層は今のままでは無理だ!」
走る。濡れた路面を蹴り、息を切らす。
誰一人振り返らない。ユウキは零音を抱えたまま、ただ前を見ていた。
(……俺が、弱いから)
その思考だけが、何度も胸を打つ。
[水平線]
やがて花蝕域のざらつきが薄れ、夜の匂いが戻る。 ぽつり、と。冷たい滴が頬を打った。雨だ。音もなく、静かに降り始める。
誰も言葉を発しない。さなはうつむき、みやは唇を噛み、如月は笑みを消し、星羅はその手を離さない。音羽は何かを堪えるように目を伏せ、栞は遠くを見つめ、茜は魔導書を抱きしめている。
ユウキは、ただ零音の体温を確かめた。まだ、温かい。それだけが救いだった。
雨が静かに降り続ける。