はじめに
「これとこれどっち派?」「あれとあれどっちだったっけ…?」などの、意見が分かれてしまった戦いを2本立てでご紹介します。
[水平線]
第一部:犬の名前論争編
文法の授業は、たいてい眠い。
黒板には「連体修飾節」などと白い粉をまとった文字が並び、先生は感情の起伏を削ぎ落とした声でチョークを滑らせている。教室には、チョークの擦れる乾いた音だけが、規則正しく響いていた。
けれど私の頭の中では、まったく別の物語が進行している。
前の席の鷹が、くるりと振り向いた。椅子の脚が、きい、と小さく鳴る。
「なあ、私さドラえもんの映画全部観てるよ。昔のやつは忘れてるけど……」
声は小さいのに、なぜか胸を張っているのが分かる。
「私も、動物の回なら観たことあるよ」
そう言った瞬間、鷹の目が獲物を見つけたみたいに光った。
「動物の回なんか、たくさんあるじゃねえか!」
確かに、それはそうかもしれない。
「えっと……ほら、あれだよ。犬が出てくるやつ」
「もしかして、ペロが登場する回?」
自信満々。私は即座に首を横に振る。
「それを言うならペコな」
「は? ペロだし!」
「ペコだし!」
[大文字]「ペロ!」[/大文字]
[大文字]「ペコ!」[/大文字]
言葉がぶつかり合って、火花が散る。
思ったより声が大きくなり、私たちは同時に口元へ指を立てた。
「しっ」
先生はまだ黒板と向き合ったまま、連体修飾節を解体している。
戦場は、まだ見つかっていないようだ。
……でも、どっちだっけ。
休み時間のチャイムが鳴ると同時に、私は立ち上がった。
「蟻〜! ちょっと聞いて。ペコとペロ、どっちだと思う?」
窓際で日差しを浴びていた蟻が、面倒くさそうにこちらを見る。まるで本当に冬眠中に起こされた蟻だ。
「パソコンで調べたらいいじゃねえか」
今無いから困ってるんだよ!
「貸して」
「勝手に変なサイト開くなよ」
蟻のノートパソコンを机に置き、検索窓に指を走らせる。横から鷹も身を乗り出して、画面をのぞき込む。
検索結果が表示された瞬間、私は勢いよく画面を指さした。
「ほら! やっぱりペコじゃん!」
「まじかよ……」
鷹が低く呻く。その悔しさが、やけに清々しい。
そのときだった。
「蟻さん」
低く、静かな声。背筋が、すっと伸びる。
振り向くと、文法の先生が立っていた。いつの間に。
「パソコンに落書きしたらだめよ。それレンタルなんだから。あなたのものじゃないんだからね。だいたいパソコンに落書きとか、何を考えて……」
話が長い。しかも、微妙に論点がずれている。
蟻は「いや、あの、これはその」と弁解しかけるが、先生の説教は止まらない。
チョークを持つときより、はるかに饒舌だ。
私は鷹と顔を見合わせる。そして同時に、苦笑い。
「……行くか」
「だな」
そっと、音を立てないように、その場を離れる。
背後ではまだ、「だから、デジタル機器というものは――」という声が続いている。
ペコかペロかの小さな戦いは、あっさり決着した。
けれど、蟻と先生の戦いは――たぶん、しばらく終わらないだろう。
[水平線]
第二部:トイレレバー論争編
それは放課後の、どうでもよくて、でもなぜか一生忘れられなさそうな事件だった。
西日が廊下を斜めに切り取っていて、窓の外では運動部の声がやけに遠い。そんな平和な時間だった。
「ねえ」
トイレから出た瞬間、隣を歩いていた水蓮が、やけに真剣な顔で言った。
「さっきさ、レバー、すごい音したけど……大丈夫? 手でやったよね?」
私は一瞬きょとんとしたあと、当然のことのように答えた。
「足だけど」
一拍の沈黙。
[大文字]「……ええええ!?!?」[/大文字]
廊下に水蓮の絶叫が炸裂した。バスケ部が一瞬こっちを見る。
「和式はともかく! 洋式の、あの高いやつも足でやってんの!?!?」
「やるでしょ」
「見せて!!」
なぜそうなる。
私は無言で踵を返し、再び個室へ入る。振り返ると、水蓮は裁判の判決を待つ人みたいな顔をしていた。
そして――エイッ。
ガコンッ!!
さっきよりも景気のいい音が鳴り響く。水蓮、絶句。
「……うそでしょ」
「何が?」
「文明を否定してる」
「いや、だって手で触りたくないじゃん」
すると水蓮は、何かに目覚めた革命家のような顔になった。
「ちょっと待って。これ、他の人にも聞こう」
こうして、戦いの火蓋は切って落とされた。
「手でしょ」
この子は木。恐らくは部活に向かおうとしていたところを廊下で捕獲した。
「「足と手どっち?」」といきなり私と水蓮に問われ、困惑した様子の木は説明を求めたが(当たり前)それどころではなかった私達がどっちを連発し続けると訝しみながらも答えてくれたのだった。
「手でしょ」
「ほらぁぁぁ!!」
水蓮、勝訴ポーズ。
「え、逆に足ってどうやんの」
「普通にこう……エイッて」
「え、怖」
木が一歩下がる。友情にヒビが入る音がした気がした。
「これ常識だからね!? 常識!!」
「“常識”って言い切るの怖くない?」
しかし、二人は止まらない。
なぜか移動先は体育館。
「「「先生! トイレのレバーって足ですか手ですか!?」」」
突然の尋問に、体育の先生が目を瞬く。
「トイレのレバぁ? 私は……」
その瞬間、横から明るい声が割り込んだ。
「花は足でやる! 高いやつもエイッて!な!」
証言者その3:陽キャ代表・花。
彼女は実演までしてくれた。空中に向かって。
「エイッ!」
軽やか。フォームが美しい。説得力、満点。水蓮と木が同時に固まる。
「……嘘だろ」
「え、みんなやらないの?」
花は本気で不思議そうだ。
しばらく沈黙したあと、先生がぼそっと言った。
「……私は手」
五分五分。世界は割れた。
そして私たちの戦いは、まだ始まったばかりである。
「これとこれどっち派?」「あれとあれどっちだったっけ…?」などの、意見が分かれてしまった戦いを2本立てでご紹介します。
[水平線]
第一部:犬の名前論争編
文法の授業は、たいてい眠い。
黒板には「連体修飾節」などと白い粉をまとった文字が並び、先生は感情の起伏を削ぎ落とした声でチョークを滑らせている。教室には、チョークの擦れる乾いた音だけが、規則正しく響いていた。
けれど私の頭の中では、まったく別の物語が進行している。
前の席の鷹が、くるりと振り向いた。椅子の脚が、きい、と小さく鳴る。
「なあ、私さドラえもんの映画全部観てるよ。昔のやつは忘れてるけど……」
声は小さいのに、なぜか胸を張っているのが分かる。
「私も、動物の回なら観たことあるよ」
そう言った瞬間、鷹の目が獲物を見つけたみたいに光った。
「動物の回なんか、たくさんあるじゃねえか!」
確かに、それはそうかもしれない。
「えっと……ほら、あれだよ。犬が出てくるやつ」
「もしかして、ペロが登場する回?」
自信満々。私は即座に首を横に振る。
「それを言うならペコな」
「は? ペロだし!」
「ペコだし!」
[大文字]「ペロ!」[/大文字]
[大文字]「ペコ!」[/大文字]
言葉がぶつかり合って、火花が散る。
思ったより声が大きくなり、私たちは同時に口元へ指を立てた。
「しっ」
先生はまだ黒板と向き合ったまま、連体修飾節を解体している。
戦場は、まだ見つかっていないようだ。
……でも、どっちだっけ。
休み時間のチャイムが鳴ると同時に、私は立ち上がった。
「蟻〜! ちょっと聞いて。ペコとペロ、どっちだと思う?」
窓際で日差しを浴びていた蟻が、面倒くさそうにこちらを見る。まるで本当に冬眠中に起こされた蟻だ。
「パソコンで調べたらいいじゃねえか」
今無いから困ってるんだよ!
「貸して」
「勝手に変なサイト開くなよ」
蟻のノートパソコンを机に置き、検索窓に指を走らせる。横から鷹も身を乗り出して、画面をのぞき込む。
検索結果が表示された瞬間、私は勢いよく画面を指さした。
「ほら! やっぱりペコじゃん!」
「まじかよ……」
鷹が低く呻く。その悔しさが、やけに清々しい。
そのときだった。
「蟻さん」
低く、静かな声。背筋が、すっと伸びる。
振り向くと、文法の先生が立っていた。いつの間に。
「パソコンに落書きしたらだめよ。それレンタルなんだから。あなたのものじゃないんだからね。だいたいパソコンに落書きとか、何を考えて……」
話が長い。しかも、微妙に論点がずれている。
蟻は「いや、あの、これはその」と弁解しかけるが、先生の説教は止まらない。
チョークを持つときより、はるかに饒舌だ。
私は鷹と顔を見合わせる。そして同時に、苦笑い。
「……行くか」
「だな」
そっと、音を立てないように、その場を離れる。
背後ではまだ、「だから、デジタル機器というものは――」という声が続いている。
ペコかペロかの小さな戦いは、あっさり決着した。
けれど、蟻と先生の戦いは――たぶん、しばらく終わらないだろう。
[水平線]
第二部:トイレレバー論争編
それは放課後の、どうでもよくて、でもなぜか一生忘れられなさそうな事件だった。
西日が廊下を斜めに切り取っていて、窓の外では運動部の声がやけに遠い。そんな平和な時間だった。
「ねえ」
トイレから出た瞬間、隣を歩いていた水蓮が、やけに真剣な顔で言った。
「さっきさ、レバー、すごい音したけど……大丈夫? 手でやったよね?」
私は一瞬きょとんとしたあと、当然のことのように答えた。
「足だけど」
一拍の沈黙。
[大文字]「……ええええ!?!?」[/大文字]
廊下に水蓮の絶叫が炸裂した。バスケ部が一瞬こっちを見る。
「和式はともかく! 洋式の、あの高いやつも足でやってんの!?!?」
「やるでしょ」
「見せて!!」
なぜそうなる。
私は無言で踵を返し、再び個室へ入る。振り返ると、水蓮は裁判の判決を待つ人みたいな顔をしていた。
そして――エイッ。
ガコンッ!!
さっきよりも景気のいい音が鳴り響く。水蓮、絶句。
「……うそでしょ」
「何が?」
「文明を否定してる」
「いや、だって手で触りたくないじゃん」
すると水蓮は、何かに目覚めた革命家のような顔になった。
「ちょっと待って。これ、他の人にも聞こう」
こうして、戦いの火蓋は切って落とされた。
「手でしょ」
この子は木。恐らくは部活に向かおうとしていたところを廊下で捕獲した。
「「足と手どっち?」」といきなり私と水蓮に問われ、困惑した様子の木は説明を求めたが(当たり前)それどころではなかった私達がどっちを連発し続けると訝しみながらも答えてくれたのだった。
「手でしょ」
「ほらぁぁぁ!!」
水蓮、勝訴ポーズ。
「え、逆に足ってどうやんの」
「普通にこう……エイッて」
「え、怖」
木が一歩下がる。友情にヒビが入る音がした気がした。
「これ常識だからね!? 常識!!」
「“常識”って言い切るの怖くない?」
しかし、二人は止まらない。
なぜか移動先は体育館。
「「「先生! トイレのレバーって足ですか手ですか!?」」」
突然の尋問に、体育の先生が目を瞬く。
「トイレのレバぁ? 私は……」
その瞬間、横から明るい声が割り込んだ。
「花は足でやる! 高いやつもエイッて!な!」
証言者その3:陽キャ代表・花。
彼女は実演までしてくれた。空中に向かって。
「エイッ!」
軽やか。フォームが美しい。説得力、満点。水蓮と木が同時に固まる。
「……嘘だろ」
「え、みんなやらないの?」
花は本気で不思議そうだ。
しばらく沈黙したあと、先生がぼそっと言った。
「……私は手」
五分五分。世界は割れた。
そして私たちの戦いは、まだ始まったばかりである。