修道院を離れて半日が過ぎていた。
アストとフィアは、谷へと続く細い山道を、慎重に、しかし急ぐように歩いていた。
山風が斜面を駆け上がり、草木をざわめかせる。
その音に混じって、どこか遠くから微かな気配が追いすがってくるように感じられた。
フィアは足を止め、風の流れに耳を澄ませた。
「……追ってきてる。はっきり分かる。」
アストの胸がざわつく。嫌な予感は、修道院を出る前からずっとあった。
「やっぱり……院長が王都に知らせたんだ」
「うん。でも、まだ距離はあるよ。この谷を越えれば、しばらくは安全なはず」
フィアはそう言って笑みを作ったが、その笑顔の奥に潜む緊張を、アストは見逃さなかった。
谷は深く、霧が濃く立ち込めている。
足元は崩れやすく、踏み外せば一気に奈落へと転げ落ちるような急斜面だ。
風が吹くたび、霧が揺れ、底の見えない白い空間が口を開ける。
「気をつけてね。風で支えるけど……限界はあるから」
ふたりは慎重に歩を進めた。
だが、谷の中央に差し掛かったそのとき――
ザッ……!
背後の茂みが、獣が飛び出すように大きく揺れた。フィアが振り返り、表情を固くする。
「……来た」
霧の奥から、黒い影がゆらりと姿を現した。
人の形をしているようで、しかし輪郭は揺らぎ、まるで“この世界の理”から外れた存在のようだった。
アストの胸の黒星が、強く脈打つ。
ドクンッ。
その鼓動に呼応するように、影がこちらへ向かってくる。
「アスト、下がって!」
フィアが風を巻き起こし、影の動きを押しとどめようとする。
だが影は風をすり抜け、じわりと距離を詰めてきた。
「……効かない……?」
フィアの声が震える。
風の精霊に愛された彼女の力が通じない相手など、今まではいなかった。
アストは影を見つめた。
胸の黒星が、まるで“呼び合う”ように熱を帯びている。
「これ……僕を追ってきたんじゃない。黒星に……引き寄せられてるんだ」
影が一歩踏み出す。霧が揺れ、空気が急激に冷え込む。
フィアがアストの腕を掴んだ。
「逃げよう! ここじゃ戦えない!」
アストは頷き、ふたりは谷の細道を駆け出した。
影は音もなく、滑るように追いかけてくる。足元の石が崩れ、アストの体が大きく傾いた。
「アスト!」
フィアは小さな竜巻で支えようとするが、影が風を乱し、彼女の制御が一瞬だけ崩れる。
アストの足が空を切った。
落ちる――!
その瞬間、アストの胸の黒星が強烈な光を放った。
影が一瞬だけ動きを止める。霧が光に照らされ、白い世界が広がった。
フィアが叫ぶ。
「アスト、手を伸ばして!」
アストは必死に手を伸ばし、フィアの手がそれを掴んだ。
風が渦を巻き、ふたりの体を引き戻す。
谷の縁に転がり込んだアストは、荒い息を吐きながらフィアを見た。
「……助かった……」
「…危なかったわね」
フィアは笑ったが、その手はまだ震えていた。
影は霧の中に溶けるように消えていった。だがアストには分かっていた。
――あれはまた現れる。黒星がある限り。
「アスト……あれ、何なの?」
アストは胸に手を当てた。
「わからない。でも……僕の中の“これ”が呼んでる。あの影も、星図も……全部」
風が吹き、霧がゆっくりと晴れていく。
谷の向こうには、まだ誰も知らない世界が広がっていた。
アストとフィアは、谷へと続く細い山道を、慎重に、しかし急ぐように歩いていた。
山風が斜面を駆け上がり、草木をざわめかせる。
その音に混じって、どこか遠くから微かな気配が追いすがってくるように感じられた。
フィアは足を止め、風の流れに耳を澄ませた。
「……追ってきてる。はっきり分かる。」
アストの胸がざわつく。嫌な予感は、修道院を出る前からずっとあった。
「やっぱり……院長が王都に知らせたんだ」
「うん。でも、まだ距離はあるよ。この谷を越えれば、しばらくは安全なはず」
フィアはそう言って笑みを作ったが、その笑顔の奥に潜む緊張を、アストは見逃さなかった。
谷は深く、霧が濃く立ち込めている。
足元は崩れやすく、踏み外せば一気に奈落へと転げ落ちるような急斜面だ。
風が吹くたび、霧が揺れ、底の見えない白い空間が口を開ける。
「気をつけてね。風で支えるけど……限界はあるから」
ふたりは慎重に歩を進めた。
だが、谷の中央に差し掛かったそのとき――
ザッ……!
背後の茂みが、獣が飛び出すように大きく揺れた。フィアが振り返り、表情を固くする。
「……来た」
霧の奥から、黒い影がゆらりと姿を現した。
人の形をしているようで、しかし輪郭は揺らぎ、まるで“この世界の理”から外れた存在のようだった。
アストの胸の黒星が、強く脈打つ。
ドクンッ。
その鼓動に呼応するように、影がこちらへ向かってくる。
「アスト、下がって!」
フィアが風を巻き起こし、影の動きを押しとどめようとする。
だが影は風をすり抜け、じわりと距離を詰めてきた。
「……効かない……?」
フィアの声が震える。
風の精霊に愛された彼女の力が通じない相手など、今まではいなかった。
アストは影を見つめた。
胸の黒星が、まるで“呼び合う”ように熱を帯びている。
「これ……僕を追ってきたんじゃない。黒星に……引き寄せられてるんだ」
影が一歩踏み出す。霧が揺れ、空気が急激に冷え込む。
フィアがアストの腕を掴んだ。
「逃げよう! ここじゃ戦えない!」
アストは頷き、ふたりは谷の細道を駆け出した。
影は音もなく、滑るように追いかけてくる。足元の石が崩れ、アストの体が大きく傾いた。
「アスト!」
フィアは小さな竜巻で支えようとするが、影が風を乱し、彼女の制御が一瞬だけ崩れる。
アストの足が空を切った。
落ちる――!
その瞬間、アストの胸の黒星が強烈な光を放った。
影が一瞬だけ動きを止める。霧が光に照らされ、白い世界が広がった。
フィアが叫ぶ。
「アスト、手を伸ばして!」
アストは必死に手を伸ばし、フィアの手がそれを掴んだ。
風が渦を巻き、ふたりの体を引き戻す。
谷の縁に転がり込んだアストは、荒い息を吐きながらフィアを見た。
「……助かった……」
「…危なかったわね」
フィアは笑ったが、その手はまだ震えていた。
影は霧の中に溶けるように消えていった。だがアストには分かっていた。
――あれはまた現れる。黒星がある限り。
「アスト……あれ、何なの?」
アストは胸に手を当てた。
「わからない。でも……僕の中の“これ”が呼んでる。あの影も、星図も……全部」
風が吹き、霧がゆっくりと晴れていく。
谷の向こうには、まだ誰も知らない世界が広がっていた。