高杉晋作は神を信じない男だった。
いつも己が心、信念のみを、字面のままに信じていた。
己の手で世界を変えるために、生まれてきた。でなくばなんの意味もなさない。
少なくとも前の高杉ならば、本当にそう思っていた。
高杉晋作は病に侵された。
高杉は己が絶望を見せぬため、凄絶な笑みを見せた。
己の手で変える?
過ちは改めれば過ちではない?
何も分かっていなかった。
この動乱の時代、天下の分け目、日ノ本が世界に交わろうとするこの時に、なにも出来ずにただ布団のうえで死んでゆくなど、あってはならない。
あってはならないはず、なのに。
これが高杉の現実だ。
つまらない世の中だと、人々は言う。
高杉には理解できなかった。
こんなにも血湧き肉躍る世の中に何を言っているのだろう、と憐れみさえ浮かべて彼らを見た。
何も分かっていなかった。
高杉はそんな内心を仲間には見せまいと、彼らの士気を下げてはならぬと、片笑んでみせた。
もう、限界に近かった。
布団から這い出し、縁側に座る。
真っ赤な夕日が、いよいよ地に落ちようとしていた。
「面白れぇなァ…」
ぼろぼろと、涙がこぼれていた。
背後から声がした。
「…高杉さま。薄着のままでは風邪をひいてしまいます」
寝巻きであぐらをかき、ゆるりと吹く春風に身を任せ、後姿は堂々たる男であるのに涙を流すこの青年を見て、野村はため息をついた。
野村はこの寺の尼僧である。
攘夷志士、勤労派を匿う一拠点とされていたこの寺に、高杉は療養にきていた。
恐らく、結核。
しかも、もう永くはないようであった。
「こんなにも世は面白れぇのに、あいつらは何も分かっちゃいない。大政を還すその場その時代に、生きて立ち会えるんだぜ?まさに運命ってやつだよなァ」
涙声で、高杉が呟く。
「壊すのは楽しいが、造るのはもっと楽しいんだ。知ってっか?」
初めて、高杉が振り向いた。
歪んだ顔は、泣き笑いだった。
「突進する牛のような貴方さまに造る?」
野村は冷たい声で言った。
「ふ、いつも通りの毒舌だ」
高杉が笑う。
が、野村は顔を顰めた。
「風邪を引くと言っているでしょう。入りなさい」
「お前は俺の母親か」
「違いますが、ーー」
言い切る前に、高杉が言葉を継いだ。
「こんなにも夕日が綺麗だ。その冷たさとは裏腹に感受性豊かなお前なら、ーー」
今度は高杉が言い切る前に野村が言葉を継いだ。
「確かに夕日は綺麗で御座います。しかし、地に落ちる夕日を見て、俺もこのように落ちるのか、等と勝手に感慨深げになって泣いていたのは貴方さまでしょう。早く入りなさいませ」
「…ったく」
「おうのさまが、夕食を持ってきてくださりますから」
「あいあい」
適当にいなして部屋に戻る。少しだけふらついたのは、野村には黙っていた。
「寒ければ上着、着てくださいよ」
「俺の母はミチという」
「はいはい」
野村も軽く流して部屋を出る。
「面白き こともなき世を 面白く」
なんとなく、そう呟いてみた。
三度呟き、気に入って書き留めた。
ーーーー、
「面白き こともなき世を 面白く、か」
野村は文書机に置いてあった一枚の紙切れを見て、呟いた。
「…高杉さま」
療養に来てからも、面白い、面白いと見舞いに来た部下と軍略議論を重ねては高杉はそう言っていた。
「すみなすものは心なりけり」
今はもういない志士にーー。
「貴方さまは獅子でしょうか」
己で言っておきながら、野村はくすりと笑った。
いつも己が心、信念のみを、字面のままに信じていた。
己の手で世界を変えるために、生まれてきた。でなくばなんの意味もなさない。
少なくとも前の高杉ならば、本当にそう思っていた。
高杉晋作は病に侵された。
高杉は己が絶望を見せぬため、凄絶な笑みを見せた。
己の手で変える?
過ちは改めれば過ちではない?
何も分かっていなかった。
この動乱の時代、天下の分け目、日ノ本が世界に交わろうとするこの時に、なにも出来ずにただ布団のうえで死んでゆくなど、あってはならない。
あってはならないはず、なのに。
これが高杉の現実だ。
つまらない世の中だと、人々は言う。
高杉には理解できなかった。
こんなにも血湧き肉躍る世の中に何を言っているのだろう、と憐れみさえ浮かべて彼らを見た。
何も分かっていなかった。
高杉はそんな内心を仲間には見せまいと、彼らの士気を下げてはならぬと、片笑んでみせた。
もう、限界に近かった。
布団から這い出し、縁側に座る。
真っ赤な夕日が、いよいよ地に落ちようとしていた。
「面白れぇなァ…」
ぼろぼろと、涙がこぼれていた。
背後から声がした。
「…高杉さま。薄着のままでは風邪をひいてしまいます」
寝巻きであぐらをかき、ゆるりと吹く春風に身を任せ、後姿は堂々たる男であるのに涙を流すこの青年を見て、野村はため息をついた。
野村はこの寺の尼僧である。
攘夷志士、勤労派を匿う一拠点とされていたこの寺に、高杉は療養にきていた。
恐らく、結核。
しかも、もう永くはないようであった。
「こんなにも世は面白れぇのに、あいつらは何も分かっちゃいない。大政を還すその場その時代に、生きて立ち会えるんだぜ?まさに運命ってやつだよなァ」
涙声で、高杉が呟く。
「壊すのは楽しいが、造るのはもっと楽しいんだ。知ってっか?」
初めて、高杉が振り向いた。
歪んだ顔は、泣き笑いだった。
「突進する牛のような貴方さまに造る?」
野村は冷たい声で言った。
「ふ、いつも通りの毒舌だ」
高杉が笑う。
が、野村は顔を顰めた。
「風邪を引くと言っているでしょう。入りなさい」
「お前は俺の母親か」
「違いますが、ーー」
言い切る前に、高杉が言葉を継いだ。
「こんなにも夕日が綺麗だ。その冷たさとは裏腹に感受性豊かなお前なら、ーー」
今度は高杉が言い切る前に野村が言葉を継いだ。
「確かに夕日は綺麗で御座います。しかし、地に落ちる夕日を見て、俺もこのように落ちるのか、等と勝手に感慨深げになって泣いていたのは貴方さまでしょう。早く入りなさいませ」
「…ったく」
「おうのさまが、夕食を持ってきてくださりますから」
「あいあい」
適当にいなして部屋に戻る。少しだけふらついたのは、野村には黙っていた。
「寒ければ上着、着てくださいよ」
「俺の母はミチという」
「はいはい」
野村も軽く流して部屋を出る。
「面白き こともなき世を 面白く」
なんとなく、そう呟いてみた。
三度呟き、気に入って書き留めた。
ーーーー、
「面白き こともなき世を 面白く、か」
野村は文書机に置いてあった一枚の紙切れを見て、呟いた。
「…高杉さま」
療養に来てからも、面白い、面白いと見舞いに来た部下と軍略議論を重ねては高杉はそう言っていた。
「すみなすものは心なりけり」
今はもういない志士にーー。
「貴方さまは獅子でしょうか」
己で言っておきながら、野村はくすりと笑った。