宵田は今日もバーを訪れた。
「探偵がバーにいるなら、小説家がいてもいいだろう」と宵田は笑う。
マスターは相変わらず、カウンター越しにグラスを拭っていた。
本日は先客がいるようで、くたびれた会社員のような男だった。
彼はカウンター席に座り、オンザロックを少しずつなめていた。
宵田は男の隣に腰を下ろし、にこにこと話しかけた。
「こんばんは。お仕事終わりですか?」
男は面倒そうな表情を浮かべると、「ええ」とかすれた声で答えた。
「そりゃ奇遇だな!私も仕事が行き詰まりましてね、気分転換に来たのですよ」
「……そうなんですね」
「何か、気に障ったことがありましたらお詫びしますが───ああ、マスター、シェリーをお願いします」
宵田が注文をした瞬間、男はつぶやいた。
「シェリー……。まるでさっきの僕じゃないか」
宵田は意味が分からず、「どういうことですか?」と尋ねた。
「今夜はあなたに全てを捧げます───これがシェリーの酒言葉です。僕、結婚を約束した恋人がいたんです。彼女と別のバーに行って、彼女がシェリーを注文したんです。僕は期待に胸を膨らませていました。彼女を僕の部屋へ連れ込んで、彼女の服に手を伸ばした時でした。「ごめんなさい。私、実は浮気してたの」と彼女が言ったんです。僕は信じられませんでした。もう何もする気になれなくて、大人しく別れを受け入れました」
男は涙を流していた。
「僕の、何がいけなかったんでしょうか」
「何も悪くありませんよ」
マスターが微笑む。
「もしかしたら、嘘だったのかもしれませんよ。優しい嘘、というべきでしょうか」
男はポカンとしていたが、やがて「そうだといいですね」と答えた。
男は席を立ち、会計を済ませていなくなった。
[水平線]
後日、宵田がまたバーに行くと、またあの男と会った。
「マスターの言う通りでしたよ」
会って早々、男は言った。
「と、言いますと……?」
宵田は困惑した。
「彼女は、病気だったんです。治療がかなり辛いらしくて……先日、亡くなりました。僕を悲しませないよう、嘘をついて別れようとしたと、彼女から聞いたんです」
男は泣きながらつぶやく。
「僕は、どんな君でも愛しているのに……」
男の目の前にカクテルが一杯差し出された。
「サービスのカーディナルでございます」
真紅のカクテルは男の目を釘づけにした。
「カーディナル……。優しい嘘、ですか」
宵田は誰に言うでもなく呟いた。
男は顔を上げ、宵田の目を見つめた。
「婚約者さんがついた優しい嘘は、カクテルの真紅に溶けてしまった方がいいのかもしれない」
宵田は男の肩を叩くと、ドローレスを注文した。
ドローレスはスペイン語で「悲しみ」を意味し、赤茶色のショートカクテルだ。
宵田はグラスを持ち上げ、「あなたの婚約者さんに」と言うと、ドローレスを喉に流し込んだ。
「探偵がバーにいるなら、小説家がいてもいいだろう」と宵田は笑う。
マスターは相変わらず、カウンター越しにグラスを拭っていた。
本日は先客がいるようで、くたびれた会社員のような男だった。
彼はカウンター席に座り、オンザロックを少しずつなめていた。
宵田は男の隣に腰を下ろし、にこにこと話しかけた。
「こんばんは。お仕事終わりですか?」
男は面倒そうな表情を浮かべると、「ええ」とかすれた声で答えた。
「そりゃ奇遇だな!私も仕事が行き詰まりましてね、気分転換に来たのですよ」
「……そうなんですね」
「何か、気に障ったことがありましたらお詫びしますが───ああ、マスター、シェリーをお願いします」
宵田が注文をした瞬間、男はつぶやいた。
「シェリー……。まるでさっきの僕じゃないか」
宵田は意味が分からず、「どういうことですか?」と尋ねた。
「今夜はあなたに全てを捧げます───これがシェリーの酒言葉です。僕、結婚を約束した恋人がいたんです。彼女と別のバーに行って、彼女がシェリーを注文したんです。僕は期待に胸を膨らませていました。彼女を僕の部屋へ連れ込んで、彼女の服に手を伸ばした時でした。「ごめんなさい。私、実は浮気してたの」と彼女が言ったんです。僕は信じられませんでした。もう何もする気になれなくて、大人しく別れを受け入れました」
男は涙を流していた。
「僕の、何がいけなかったんでしょうか」
「何も悪くありませんよ」
マスターが微笑む。
「もしかしたら、嘘だったのかもしれませんよ。優しい嘘、というべきでしょうか」
男はポカンとしていたが、やがて「そうだといいですね」と答えた。
男は席を立ち、会計を済ませていなくなった。
[水平線]
後日、宵田がまたバーに行くと、またあの男と会った。
「マスターの言う通りでしたよ」
会って早々、男は言った。
「と、言いますと……?」
宵田は困惑した。
「彼女は、病気だったんです。治療がかなり辛いらしくて……先日、亡くなりました。僕を悲しませないよう、嘘をついて別れようとしたと、彼女から聞いたんです」
男は泣きながらつぶやく。
「僕は、どんな君でも愛しているのに……」
男の目の前にカクテルが一杯差し出された。
「サービスのカーディナルでございます」
真紅のカクテルは男の目を釘づけにした。
「カーディナル……。優しい嘘、ですか」
宵田は誰に言うでもなく呟いた。
男は顔を上げ、宵田の目を見つめた。
「婚約者さんがついた優しい嘘は、カクテルの真紅に溶けてしまった方がいいのかもしれない」
宵田は男の肩を叩くと、ドローレスを注文した。
ドローレスはスペイン語で「悲しみ」を意味し、赤茶色のショートカクテルだ。
宵田はグラスを持ち上げ、「あなたの婚約者さんに」と言うと、ドローレスを喉に流し込んだ。