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架空の法律。
救済のリング
重たい鞄を肩にかけ直す。
歩を進めるたび、ずしりと肩に食い込むその重みは、まるで自分の罪の重さをそのまま具現化したかのようだった。中身はこれだけ。今の私に残された、すべての証明。
身を包む布地を見下ろす。
組織から支給されたこの服は、今となっては私を縛る枷でしかなかった。今すぐ脱ぎ捨てて、どこか遠くへ行ってしまいたい。そんな卑怯な逃避行が頭をよぎるたび、私は強く奥歯を噛み締めた。
逃げるな、自分。これは罰だ。
私は歩きながら、鞄の中からそっと一冊の手帳を取り出した。
使い込まれた表紙を開き、そこに記載された名前と、割り振られた番号を指先でそっとなぞる。
リン。
……『リング』によく似たその響き。
どこまでも囚われてしまえ、と自分をあざ笑う。私はこの名前にふさわしく、冷たい輪のなかに閉じ込められるべき人間なのだ。
あの事件を終わらせることは、私にしかできない。背負ったものをすべて吐き出し、ケジメをつける。それが私に課せられた、最後の使命だった。
身柄を拘束される覚悟なら、とうにできている。
顔を上げると、コンクリートの殺風景な建物が、朝の光のなかで威圧的にそびえ立っていた。
私は、目の前に立ちはだかる警察署の重い扉を押し開けた。
警察署の重い自動扉をくぐると、容赦のない冷気が肌を刺した。
外の喧騒が嘘のように静まり返った広いロビーの奥、受付デスクには一人の若い警察官が座っていた。名札には『レン』とある。私とそう歳の変わらない、まだどこか少年っぽさの残る横顔だった。
「すみません」
私が声をかけると、彼は手元の書類から顔を上げ、「はい、どうされましたか?」と人当たりのいい笑みを浮かべた。道でも迷った一般人を迎えるような、あまりにも無警戒な態度。私のなかの張り詰めた糸が、その温厚な声にピリリと震える。
私は小さく息を吸い込み、肩にかけていた通学鞄のチャックを開けた。
中から取り出したのは、先ほどまで握りしめていた、あの紺色の小さな手帳。
それを、受付のカウンターへ静かに滑らせる。
警察手帳ではない。
表紙に金色の校章が刻印された、私立高校の生徒手帳だった。
「……え?」
レンの笑みがぴたりと止まる。
彼が怪訝そうに手帳を開けば、そこには紺色のセーラー服を着た私の顔写真と、フリガナの振られた『リン』という名前。そして、昨日付で『退学』の朱文字が容赦なく押された出席番号が並んでいた。
「これ……」
「制服、今すぐ脱ぎ捨てたかった。でも、この服のまま来なきゃいけない気がしたの」
私は、自分が着ている青いセーラー服の襟をぎゅっと握りしめた。
驚きで目を見開く彼をまっすぐに見つめ、震えそうになる声を両の足で踏みつける。
「街を騒がせている、あのゼツボー事件の犯人は私です。……自首しに来ました」
静まり返るロビーに、私の告白だけが冷たく響いた。
ネットの闇で若者たちの心を言葉巧みに煽り立て、社会への絶望を伝染させては集団失踪を引き起こしていた正体不明の首謀者。その片棒を担いでいたのが、学校の制服を着た、私だった。
「私が……拡声器を持って、みんなの絶望を煽ったの。面白半分だった。退屈な毎日に、ちょっとしたスパイスを混ぜるだけのつもりだった。でも、気づいたら、私の言葉のせいで、友達が、みんなが本当に絶望して消えちゃって……」
ギュッと拳を握りしめると、爪が手のひらに深く食い込んだ。
「私は、警察を嘲笑う『容疑者』なんかじゃない。ただの、最低な犯罪者よ」
彼は言葉を失ったまま、カウンターの上の生徒手帳と、私の顔を何度も往復させている。
やがて、その瞳から戸惑いが消え、警察官としての鋭い光が宿った。彼は震える手で腰のベルトに手を伸ばす。
金属同士が擦れ合う、ひどく冷徹な音がロビーに響き渡った。
レンが腰のベルトから引き抜いたのは、銀色に鈍く光る手錠だった。
差し出された二つの冷たい輪(リング)を見つめながら、私はそっと両手首を前に突き出した。
これで、やっと終わりだ。
この冷たい金属に繋がれ、私は一生、自分の犯した罪という名の檻に囚われて生きていくのだ。逃げるな、自分。これは私が背負うべき罰だ。
「……キミは、容疑者」
レンが、掠れた声で呟いた。その声は酷く震えていて、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。まだ新米なのだろう、手錠を握る彼の手は、私と同じように小さく強張っている。
「オレ、警察。……だから、これは、職務だ」
彼は手錠を強く握り直し、私の手首へと近づける。
私は静かに目を閉じた。自由が奪われる、カチャンという冷徹な終わりの音を待つために。
――だが、訪れたのは、まったく違う音だった。
重鈍な、金属がコンクリートの床に激突して跳ねる音。
「……え?」
驚いて目をあけると、レンの足元で、銀色の手錠が虚しく転がっていた。
彼は手錠をはめなかった。いや、自分の意志で、それを手から落としたのだ。
「……なんで? 私は犯人なのよ? 早く捕まえてよ!」
拒絶されたような恐怖に駆られ、私は声を荒らげた。しかし、レンは落とした手錠を拾い上げようとはせず、真っ直ぐに私を見つめていた。その瞳には、私を罪人として裁く冷徹さではなく、一人の人間を絶望から救い出そうとする、強い光が宿っていた。
「手錠で縛るだけが、警察の仕事じゃない」
レンは静かに、けれど毅然とした声で言った。
「キミは誰に強制されたわけでもなく、自分の足でここに来た。自分の言葉で、その絶望を終わらせるために来たんだろ。なら、オレがキミを縛る必要なんてない。キミを縛るその過去のリング(呪縛)は、今、オレが外した」
床に転がったままの銀色の輪が、窓から差し込む朝日に照らされて、一瞬だけ優しく光ったような気がした。
冷たい鉄の枷だと思っていたそれは、私を過去の罪から解き放ち、新しい世界へと繋ぎ止めるための、本物の『救済のリング』だったのだ。
涙が溢れそうになるのを堪え、私は差し出していた両手をそっと下ろした。
レンは私に向かって、小さく、けれど確かに頷いてみせた。その頼もしい姿が、私の閉ざされた世界の扉を、静かに、優しく開けていくのが分かった。
床に転がった銀色の輪は、もう私を脅かす冷たい枷には見えなかった。
張り詰めていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。張り裂けそうだった胸の奥に、名前も知らない温かい感情がじわりと染み込んでいくのを感じていた。
「さあ、中へ行こう。キミが犯した過ちのことは、これから全部、オレが聴くから」
レンはそう言うと、案内するように一歩、奥の通路へと足を進めた。
私は自分の意志で、今度こそ逃げ出さない足取りで、彼の背中を追って歩き出す。
振り返れば、私が今日まで歩んできた道は、真っ暗な絶望の連続だったのかもしれない。面白半分で周囲を煽り、傷つけ、自分自身をも奈落の底へ突き落とした過去。
けれど、その絶望のリングを、目の前の少年が断ち切ってくれた。
――だったら、次は私の番だ。
自分が絶望の恐ろしさを知っているからこそ、今度は誰かを救い出せるかもしれない。 この胸に刻まれた深い後悔を、誰かの絶望を取り締まるための「強さ」に変えて。 いつか、この少年と肩を並べて歩けるような、そんな新しい自分に生まれ変わるために。 私は、前を歩く背中に向かって、小さく、けれど固い決意を胸に、一歩を踏み出した。 ――これは、リンがすべてを償い、罪から解き放たれ、二人が声を揃えて犯人に向かって「ドントムーブ!」と言う、数年前の話である。
(了)
歩を進めるたび、ずしりと肩に食い込むその重みは、まるで自分の罪の重さをそのまま具現化したかのようだった。中身はこれだけ。今の私に残された、すべての証明。
身を包む布地を見下ろす。
組織から支給されたこの服は、今となっては私を縛る枷でしかなかった。今すぐ脱ぎ捨てて、どこか遠くへ行ってしまいたい。そんな卑怯な逃避行が頭をよぎるたび、私は強く奥歯を噛み締めた。
逃げるな、自分。これは罰だ。
私は歩きながら、鞄の中からそっと一冊の手帳を取り出した。
使い込まれた表紙を開き、そこに記載された名前と、割り振られた番号を指先でそっとなぞる。
リン。
……『リング』によく似たその響き。
どこまでも囚われてしまえ、と自分をあざ笑う。私はこの名前にふさわしく、冷たい輪のなかに閉じ込められるべき人間なのだ。
あの事件を終わらせることは、私にしかできない。背負ったものをすべて吐き出し、ケジメをつける。それが私に課せられた、最後の使命だった。
身柄を拘束される覚悟なら、とうにできている。
顔を上げると、コンクリートの殺風景な建物が、朝の光のなかで威圧的にそびえ立っていた。
私は、目の前に立ちはだかる警察署の重い扉を押し開けた。
警察署の重い自動扉をくぐると、容赦のない冷気が肌を刺した。
外の喧騒が嘘のように静まり返った広いロビーの奥、受付デスクには一人の若い警察官が座っていた。名札には『レン』とある。私とそう歳の変わらない、まだどこか少年っぽさの残る横顔だった。
「すみません」
私が声をかけると、彼は手元の書類から顔を上げ、「はい、どうされましたか?」と人当たりのいい笑みを浮かべた。道でも迷った一般人を迎えるような、あまりにも無警戒な態度。私のなかの張り詰めた糸が、その温厚な声にピリリと震える。
私は小さく息を吸い込み、肩にかけていた通学鞄のチャックを開けた。
中から取り出したのは、先ほどまで握りしめていた、あの紺色の小さな手帳。
それを、受付のカウンターへ静かに滑らせる。
警察手帳ではない。
表紙に金色の校章が刻印された、私立高校の生徒手帳だった。
「……え?」
レンの笑みがぴたりと止まる。
彼が怪訝そうに手帳を開けば、そこには紺色のセーラー服を着た私の顔写真と、フリガナの振られた『リン』という名前。そして、昨日付で『退学』の朱文字が容赦なく押された出席番号が並んでいた。
「これ……」
「制服、今すぐ脱ぎ捨てたかった。でも、この服のまま来なきゃいけない気がしたの」
私は、自分が着ている青いセーラー服の襟をぎゅっと握りしめた。
驚きで目を見開く彼をまっすぐに見つめ、震えそうになる声を両の足で踏みつける。
「街を騒がせている、あのゼツボー事件の犯人は私です。……自首しに来ました」
静まり返るロビーに、私の告白だけが冷たく響いた。
ネットの闇で若者たちの心を言葉巧みに煽り立て、社会への絶望を伝染させては集団失踪を引き起こしていた正体不明の首謀者。その片棒を担いでいたのが、学校の制服を着た、私だった。
「私が……拡声器を持って、みんなの絶望を煽ったの。面白半分だった。退屈な毎日に、ちょっとしたスパイスを混ぜるだけのつもりだった。でも、気づいたら、私の言葉のせいで、友達が、みんなが本当に絶望して消えちゃって……」
ギュッと拳を握りしめると、爪が手のひらに深く食い込んだ。
「私は、警察を嘲笑う『容疑者』なんかじゃない。ただの、最低な犯罪者よ」
彼は言葉を失ったまま、カウンターの上の生徒手帳と、私の顔を何度も往復させている。
やがて、その瞳から戸惑いが消え、警察官としての鋭い光が宿った。彼は震える手で腰のベルトに手を伸ばす。
金属同士が擦れ合う、ひどく冷徹な音がロビーに響き渡った。
レンが腰のベルトから引き抜いたのは、銀色に鈍く光る手錠だった。
差し出された二つの冷たい輪(リング)を見つめながら、私はそっと両手首を前に突き出した。
これで、やっと終わりだ。
この冷たい金属に繋がれ、私は一生、自分の犯した罪という名の檻に囚われて生きていくのだ。逃げるな、自分。これは私が背負うべき罰だ。
「……キミは、容疑者」
レンが、掠れた声で呟いた。その声は酷く震えていて、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。まだ新米なのだろう、手錠を握る彼の手は、私と同じように小さく強張っている。
「オレ、警察。……だから、これは、職務だ」
彼は手錠を強く握り直し、私の手首へと近づける。
私は静かに目を閉じた。自由が奪われる、カチャンという冷徹な終わりの音を待つために。
――だが、訪れたのは、まったく違う音だった。
重鈍な、金属がコンクリートの床に激突して跳ねる音。
「……え?」
驚いて目をあけると、レンの足元で、銀色の手錠が虚しく転がっていた。
彼は手錠をはめなかった。いや、自分の意志で、それを手から落としたのだ。
「……なんで? 私は犯人なのよ? 早く捕まえてよ!」
拒絶されたような恐怖に駆られ、私は声を荒らげた。しかし、レンは落とした手錠を拾い上げようとはせず、真っ直ぐに私を見つめていた。その瞳には、私を罪人として裁く冷徹さではなく、一人の人間を絶望から救い出そうとする、強い光が宿っていた。
「手錠で縛るだけが、警察の仕事じゃない」
レンは静かに、けれど毅然とした声で言った。
「キミは誰に強制されたわけでもなく、自分の足でここに来た。自分の言葉で、その絶望を終わらせるために来たんだろ。なら、オレがキミを縛る必要なんてない。キミを縛るその過去のリング(呪縛)は、今、オレが外した」
床に転がったままの銀色の輪が、窓から差し込む朝日に照らされて、一瞬だけ優しく光ったような気がした。
冷たい鉄の枷だと思っていたそれは、私を過去の罪から解き放ち、新しい世界へと繋ぎ止めるための、本物の『救済のリング』だったのだ。
涙が溢れそうになるのを堪え、私は差し出していた両手をそっと下ろした。
レンは私に向かって、小さく、けれど確かに頷いてみせた。その頼もしい姿が、私の閉ざされた世界の扉を、静かに、優しく開けていくのが分かった。
床に転がった銀色の輪は、もう私を脅かす冷たい枷には見えなかった。
張り詰めていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。張り裂けそうだった胸の奥に、名前も知らない温かい感情がじわりと染み込んでいくのを感じていた。
「さあ、中へ行こう。キミが犯した過ちのことは、これから全部、オレが聴くから」
レンはそう言うと、案内するように一歩、奥の通路へと足を進めた。
私は自分の意志で、今度こそ逃げ出さない足取りで、彼の背中を追って歩き出す。
振り返れば、私が今日まで歩んできた道は、真っ暗な絶望の連続だったのかもしれない。面白半分で周囲を煽り、傷つけ、自分自身をも奈落の底へ突き落とした過去。
けれど、その絶望のリングを、目の前の少年が断ち切ってくれた。
――だったら、次は私の番だ。
自分が絶望の恐ろしさを知っているからこそ、今度は誰かを救い出せるかもしれない。 この胸に刻まれた深い後悔を、誰かの絶望を取り締まるための「強さ」に変えて。 いつか、この少年と肩を並べて歩けるような、そんな新しい自分に生まれ変わるために。 私は、前を歩く背中に向かって、小さく、けれど固い決意を胸に、一歩を踏み出した。 ――これは、リンがすべてを償い、罪から解き放たれ、二人が声を揃えて犯人に向かって「ドントムーブ!」と言う、数年前の話である。
(了)
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