己の命
「命」というのはとても儚く残酷な物だ。
人間は生まれてきて、成長していって、死んでそれで終わり。まるで文章の「序論・本論・結論」の様になっている。簡単に終わる人生だ。だが、成長(本論)の中で色々な出来事を経験する。その経験の中で「死んでしまいたい。」と思ってしまう人も少なからず居るわけだ。そう思う理由は「不幸」だと思ってしまっているからだ。その中でも特に「いじめ」と言う物などが人間にとっては「不幸」だと思うのではないのだろうか。自分はいじめられている時にストレスを抱え込みすぎていて2〜3年前のたった最近の事なのにどういう内容の「いじめ」を受けたかが、完全に記憶から無くなってしまっている。ただ、思い出したいのに思い出せない。それが人間だ。自分の「不幸」と呼ばれる物はやはり、自分の記憶から勝手に消えてしまっている。それはなぜか。それは「いじめ」られることが「不幸」なんだと思ってしまっていたからだ。だが、「不幸」は存在しない。そう自分で思い始めてから「記憶が無くなる空間」から「記憶が覚えてられる空間」に移動したような気分になった。考え方1つで「自分のいる空間」が変わる。このことを知った。それが今の「生きやすさ」に繋がった。それは全てを「幸せ」と感じるようになったからだ。だが、今だに「いじめ」に関しては記憶の中にグッと刻み込まれているものがある。それは「自殺」だ。いじめられてる時は、自ら命を絶とうと思っていた。そして夢で何十回も「自殺」しようとする夢を見た。この事を今だに覚えてる理由は一つだった。それは、「死ねば解放される」と思ってしまっていたからだ。そう、「解放されること」を「幸せ」と思ってしまっていたんだ。だが死ねない。これが覚えている理由だろう。夢も何十回も見たが、一回も「死ねなかった」死ぬ前に目が覚めたのだ。現実でも同じだった。どうしても死ねる気になれなかった。現実、そして夢まで。死にたかったのに死なせてくれなかった。それはなぜなのか、意味がわからなかった。だが今になって分かってきた。それは、「周りの人々に支えられて今まで生きてきている。それは家族がいなくてもそうだ。そして自分にしか出来ない事などが沢山残っている。」と、無意識に「頭」じゃなく、「心」でもなく、「体」で勝手に考えて、感じていたからだ。だからどうしても実行に移せなかったのだ。「準備段階が頭」で「実行が体」と、いう風に体は作られているのだ。それゆえ死ねなかったんだ。体が拒絶した。そのお陰で今たったこの瞬間「幸せ」に囲まれながら生きていられる。この体験があったからこそ、自分はこれから何があっても絶対に「自分で己の命を壊す」という事をしない。結局は死んでしまったら絶対に「幸せ」にはなれない。死んでも何も感じれない、何も考えれない、意識も何もないから「幸せ」じゃない。「自分で命を壊す」(本論中に人生を終わらせる)ことこそが人生で初めての本当の「不幸」になるのではないのかと思う。
人間は生まれてきて、成長していって、死んでそれで終わり。まるで文章の「序論・本論・結論」の様になっている。簡単に終わる人生だ。だが、成長(本論)の中で色々な出来事を経験する。その経験の中で「死んでしまいたい。」と思ってしまう人も少なからず居るわけだ。そう思う理由は「不幸」だと思ってしまっているからだ。その中でも特に「いじめ」と言う物などが人間にとっては「不幸」だと思うのではないのだろうか。自分はいじめられている時にストレスを抱え込みすぎていて2〜3年前のたった最近の事なのにどういう内容の「いじめ」を受けたかが、完全に記憶から無くなってしまっている。ただ、思い出したいのに思い出せない。それが人間だ。自分の「不幸」と呼ばれる物はやはり、自分の記憶から勝手に消えてしまっている。それはなぜか。それは「いじめ」られることが「不幸」なんだと思ってしまっていたからだ。だが、「不幸」は存在しない。そう自分で思い始めてから「記憶が無くなる空間」から「記憶が覚えてられる空間」に移動したような気分になった。考え方1つで「自分のいる空間」が変わる。このことを知った。それが今の「生きやすさ」に繋がった。それは全てを「幸せ」と感じるようになったからだ。だが、今だに「いじめ」に関しては記憶の中にグッと刻み込まれているものがある。それは「自殺」だ。いじめられてる時は、自ら命を絶とうと思っていた。そして夢で何十回も「自殺」しようとする夢を見た。この事を今だに覚えてる理由は一つだった。それは、「死ねば解放される」と思ってしまっていたからだ。そう、「解放されること」を「幸せ」と思ってしまっていたんだ。だが死ねない。これが覚えている理由だろう。夢も何十回も見たが、一回も「死ねなかった」死ぬ前に目が覚めたのだ。現実でも同じだった。どうしても死ねる気になれなかった。現実、そして夢まで。死にたかったのに死なせてくれなかった。それはなぜなのか、意味がわからなかった。だが今になって分かってきた。それは、「周りの人々に支えられて今まで生きてきている。それは家族がいなくてもそうだ。そして自分にしか出来ない事などが沢山残っている。」と、無意識に「頭」じゃなく、「心」でもなく、「体」で勝手に考えて、感じていたからだ。だからどうしても実行に移せなかったのだ。「準備段階が頭」で「実行が体」と、いう風に体は作られているのだ。それゆえ死ねなかったんだ。体が拒絶した。そのお陰で今たったこの瞬間「幸せ」に囲まれながら生きていられる。この体験があったからこそ、自分はこれから何があっても絶対に「自分で己の命を壊す」という事をしない。結局は死んでしまったら絶対に「幸せ」にはなれない。死んでも何も感じれない、何も考えれない、意識も何もないから「幸せ」じゃない。「自分で命を壊す」(本論中に人生を終わらせる)ことこそが人生で初めての本当の「不幸」になるのではないのかと思う。
このボタンは廃止予定です