なんでもたんぺんしゅー
――2006年
そして、刑務所へ
判決が下り、
彼らはそれぞれの房に収容された
独房
扉は重く、音が残る
名前は呼ばれない
囚人番号で呼ばれる生活が始まった
刑務作業は、同じ棟だった
作業場は広く、
機械音と足音だけが反響している
視界の端に、見知った背中がある
柴井
中原
田中
いつき
全員、同じ色の服を着ている
誰も、声はかけない
看守の視線があるから、
ではない
――必要最低限でなければならないからだ
昼食の時間
長い机
向かい合うことはないが、
同じ列に並ぶことはある
トレーを受け取り、
黙って座る
スプーンの音が、
やけに大きく聞こえる
田中は、何度か顔を上げかけて、
結局、俯いたままだった
柴井は、淡々と食べる
表情はない
中原は、誰よりも姿勢がいい
それが、かえって浮いていた
いつきは、
食べる速度だけが、少し遅い
会っている
確かに、同じ場所にいる
それなのに、
話せない
休憩時間
壁際に並んで座る
距離は、数メートル
手を伸ばしても、届かない
柴井が、ほんの一瞬だけ視線を動かす
中原と、目が合う
それだけ
言葉はない
頷きもない
けれど――
互いに、そこにいることだけは確認できた
[水平線]
この毎日は、淡々と続いていた
そして、数か月が経った頃
刑務作業中、
ふいに柴井が話しかけてきた
柴井「やっほー、中原さーん」
中原「お、柴井じゃん」
ほんの短い時間、
久々の世間話に花が咲く
柴井「おれさ、ここ出れたら、中原さんに、」
言いかけて、言葉が止まる
柴井「……なんて言えばいいんだろ」
一瞬、柴井は中原を見る
ちゃんとこちらを向いているはずなのに、
その視線は、どこか定まっていなかった
柴井「……あ、ごめん。今の、聞かなかったことにして」
中原「んー、分かってからでいいよ。また今度、教えてね」
その直後、看守の声が飛ぶ
作業を促され、
柴井は笑顔のまま立ち上がり、中原の前を離れていった
――それが、
中原が見る、柴井の最後の笑顔だった
ちゃんと、聞いていればよかった
あのとき
――機械の音が、一定のリズムで鳴っている
金属が擦れる、乾いた音
柴井は、手を動かしていた
いつも通りの作業
――「囚人番号1101」
名前ではない呼び方が、
少し遅れて耳に届く
柴井「……はい……?」
返事は出た
だが、声が、どこから出たのか分からない
視界が、薄い
色が抜け落ちて、
人も物も、輪郭だけが並んでいる
音が、遠い
機械音が、水の底から聞こえるみたいに歪む
――あれ
手袋の感触が、分からない
触っているはずなのに、“感じ”ない
匂いがする
油の匂い
でも、それが油だと判断するまでに、時間がかかる
「次」
看守の声
意味は、分かる
分かるはずなのに、
体が、すぐには動かない
遅れて、柴井は手を止めた
心臓が、静かすぎる
早くも遅くもない
ただ、現実と噛み合っていない
――ここは、どこだ
そう考えた瞬間、
考えが途中で切れる
思い出そうとすると、
頭の中が、白くなる
中原。
その名前が、ふと浮かぶ
けれど、
なぜ浮かんだのかが、分からない
胸の奥が、
ぎゅっと縮む
理由はない
ただ、重い
柴井は、その場に立ったまま、
しばらく動かなかった
異変に気づいた看守が近づく
「……1101?」
呼ばれていることは、分かる
返事をするべきだとも、分かる
それでも――
世界が、少し遅れてやってくる
柴井は、ゆっくりと瞬きをした
そして、
何も言わなかった
看守は、声を荒げなかった
看守「……1101、ちょっと来い」
肩に触れられた感触も、
柴井には少し遅れて届いた
柴井は、何も言わずに頷いた
頷いた“つもり”だったのかもしれない
医務の職員が呼ばれ、
白い手袋が視界の端を横切る
医務「大丈夫ですか、聞こえますか」
質問の意味は分かる
けれど、答えが、口まで上がってこない
柴井は、ただ、瞬きをした
――反応だけが、残っている
立たされると、立つ
歩かされると、歩く
自分で選ぶ、という動きが、
すっぽり抜け落ちている
作業場の外へ向かう途中、
足が一度、もつれた
転びはしない
支えられて、また歩く
柴井は、
そのまま、黙って運ばれていった
――作業は、続行
背中が扉の向こうに消えるまで、
誰も、声を上げなかった
扉が閉まる音も、
作業音にすぐに飲み込まれた
中原は、
手を動かしながら、数を数えていた
一定のリズム
いつもなら、
少し遅れて柴井の位置から音が重なる
……今日は、来ない
最初は、気のせいだと思った
次に、
医務に呼ばれただけだ、と考えた
それでも
一区切り
次の工程
視線を上げる
――まだ、戻っていない
中原は、ほんの一瞬だけ、
作業の手を止めた
すぐに再開する
止めてはいけないことを、体が覚えている
でも、
胸の奥に、小さな引っかかりが残る
遅い
ただ、遅すぎる
中原は、
何も言わずに作業を続けた
それ以上、確認する術はない
けれどその時、
誰よりも早く、
中原だけが気づいていた
――ああ、
今日はもう、戻ってこない
その確信だけが、
音もなく、胸に沈んだ
[水平線]
まもなくして、
柴井が心神喪失状態にある、という通達が回った
医務の判断
しばらくは作業に復帰できない、というだけの、簡潔な説明だった
その言葉を聞いたとき、
中原はすぐには意味をつかめなかった
「心神喪失」
音としては理解できる
けれど、それがさっきまで隣で作業していた柴井と結びつくまで、少し時間がかかった
戻ってこない理由
笑顔の続きを、見なかった理由
全部が、
あとから、ゆっくり噛み合っていく
――ああ、だから
手に持っていた道具を、
一度だけ、強く握り直した
その夜、
中原は独房に戻った
明かりは消え、
時間の感覚だけが曖昧に伸びていく
――考えないようにしても、
柴井の名前が、何度も浮かんだ
戻らない背中
最後の笑顔
ちゃんと聞かなかった言葉
そして、刑務所へ
判決が下り、
彼らはそれぞれの房に収容された
独房
扉は重く、音が残る
名前は呼ばれない
囚人番号で呼ばれる生活が始まった
刑務作業は、同じ棟だった
作業場は広く、
機械音と足音だけが反響している
視界の端に、見知った背中がある
柴井
中原
田中
いつき
全員、同じ色の服を着ている
誰も、声はかけない
看守の視線があるから、
ではない
――必要最低限でなければならないからだ
昼食の時間
長い机
向かい合うことはないが、
同じ列に並ぶことはある
トレーを受け取り、
黙って座る
スプーンの音が、
やけに大きく聞こえる
田中は、何度か顔を上げかけて、
結局、俯いたままだった
柴井は、淡々と食べる
表情はない
中原は、誰よりも姿勢がいい
それが、かえって浮いていた
いつきは、
食べる速度だけが、少し遅い
会っている
確かに、同じ場所にいる
それなのに、
話せない
休憩時間
壁際に並んで座る
距離は、数メートル
手を伸ばしても、届かない
柴井が、ほんの一瞬だけ視線を動かす
中原と、目が合う
それだけ
言葉はない
頷きもない
けれど――
互いに、そこにいることだけは確認できた
[水平線]
この毎日は、淡々と続いていた
そして、数か月が経った頃
刑務作業中、
ふいに柴井が話しかけてきた
柴井「やっほー、中原さーん」
中原「お、柴井じゃん」
ほんの短い時間、
久々の世間話に花が咲く
柴井「おれさ、ここ出れたら、中原さんに、」
言いかけて、言葉が止まる
柴井「……なんて言えばいいんだろ」
一瞬、柴井は中原を見る
ちゃんとこちらを向いているはずなのに、
その視線は、どこか定まっていなかった
柴井「……あ、ごめん。今の、聞かなかったことにして」
中原「んー、分かってからでいいよ。また今度、教えてね」
その直後、看守の声が飛ぶ
作業を促され、
柴井は笑顔のまま立ち上がり、中原の前を離れていった
――それが、
中原が見る、柴井の最後の笑顔だった
ちゃんと、聞いていればよかった
あのとき
――機械の音が、一定のリズムで鳴っている
金属が擦れる、乾いた音
柴井は、手を動かしていた
いつも通りの作業
――「囚人番号1101」
名前ではない呼び方が、
少し遅れて耳に届く
柴井「……はい……?」
返事は出た
だが、声が、どこから出たのか分からない
視界が、薄い
色が抜け落ちて、
人も物も、輪郭だけが並んでいる
音が、遠い
機械音が、水の底から聞こえるみたいに歪む
――あれ
手袋の感触が、分からない
触っているはずなのに、“感じ”ない
匂いがする
油の匂い
でも、それが油だと判断するまでに、時間がかかる
「次」
看守の声
意味は、分かる
分かるはずなのに、
体が、すぐには動かない
遅れて、柴井は手を止めた
心臓が、静かすぎる
早くも遅くもない
ただ、現実と噛み合っていない
――ここは、どこだ
そう考えた瞬間、
考えが途中で切れる
思い出そうとすると、
頭の中が、白くなる
中原。
その名前が、ふと浮かぶ
けれど、
なぜ浮かんだのかが、分からない
胸の奥が、
ぎゅっと縮む
理由はない
ただ、重い
柴井は、その場に立ったまま、
しばらく動かなかった
異変に気づいた看守が近づく
「……1101?」
呼ばれていることは、分かる
返事をするべきだとも、分かる
それでも――
世界が、少し遅れてやってくる
柴井は、ゆっくりと瞬きをした
そして、
何も言わなかった
看守は、声を荒げなかった
看守「……1101、ちょっと来い」
肩に触れられた感触も、
柴井には少し遅れて届いた
柴井は、何も言わずに頷いた
頷いた“つもり”だったのかもしれない
医務の職員が呼ばれ、
白い手袋が視界の端を横切る
医務「大丈夫ですか、聞こえますか」
質問の意味は分かる
けれど、答えが、口まで上がってこない
柴井は、ただ、瞬きをした
――反応だけが、残っている
立たされると、立つ
歩かされると、歩く
自分で選ぶ、という動きが、
すっぽり抜け落ちている
作業場の外へ向かう途中、
足が一度、もつれた
転びはしない
支えられて、また歩く
柴井は、
そのまま、黙って運ばれていった
――作業は、続行
背中が扉の向こうに消えるまで、
誰も、声を上げなかった
扉が閉まる音も、
作業音にすぐに飲み込まれた
中原は、
手を動かしながら、数を数えていた
一定のリズム
いつもなら、
少し遅れて柴井の位置から音が重なる
……今日は、来ない
最初は、気のせいだと思った
次に、
医務に呼ばれただけだ、と考えた
それでも
一区切り
次の工程
視線を上げる
――まだ、戻っていない
中原は、ほんの一瞬だけ、
作業の手を止めた
すぐに再開する
止めてはいけないことを、体が覚えている
でも、
胸の奥に、小さな引っかかりが残る
遅い
ただ、遅すぎる
中原は、
何も言わずに作業を続けた
それ以上、確認する術はない
けれどその時、
誰よりも早く、
中原だけが気づいていた
――ああ、
今日はもう、戻ってこない
その確信だけが、
音もなく、胸に沈んだ
[水平線]
まもなくして、
柴井が心神喪失状態にある、という通達が回った
医務の判断
しばらくは作業に復帰できない、というだけの、簡潔な説明だった
その言葉を聞いたとき、
中原はすぐには意味をつかめなかった
「心神喪失」
音としては理解できる
けれど、それがさっきまで隣で作業していた柴井と結びつくまで、少し時間がかかった
戻ってこない理由
笑顔の続きを、見なかった理由
全部が、
あとから、ゆっくり噛み合っていく
――ああ、だから
手に持っていた道具を、
一度だけ、強く握り直した
その夜、
中原は独房に戻った
明かりは消え、
時間の感覚だけが曖昧に伸びていく
――考えないようにしても、
柴井の名前が、何度も浮かんだ
戻らない背中
最後の笑顔
ちゃんと聞かなかった言葉