深海の愛
朝、目を覚ますと、彼女はベッドにいなかった。
リビングに行くと、テーブルの上に乱雑に置かれた薬の殻と、こぼれた水のグラスがあった。
床に座り込む彼女は、虚ろな目でカーテンの隙間を見つめていた。
「……寒いね」
薄着のままで、唇が青ざめている。
慌ててブランケットをかけたが、彼女は身を縮めたまま、微動だにしなかった。
「薬、何錠飲んだ?」
「……そんなに飲んでない。眠れなくて、ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないだろ、これ……」
声が震えた。怒りじゃない。恐怖だった。
彼女が、自分の手で自分を終わらせようとしていたかもしれない。
その可能性が、胸を締めつける。
「死にたいの?」
彼女は顔を上げた。
泣いていなかった。ただ、静かに笑っていた。
「ううん、死にたいわけじゃない。ただ、あなたがいないって思ったら、もう何もいらない気がして……だから、何かを感じたくて飲んだの。
生きてる感じがしなかったの。昨日も、今日も。あなたに抱きしめられてても、なんだか空っぽで」
僕は彼女の手を握った。細くて冷たかった。
「一緒にいるよ。ちゃんと、そばにいるから」
そう言うと、彼女は目を伏せた。
「ねぇ、いつまでこうしていられるんだろうね」
その言葉は、まるで終わりの予告のようだった。
数日後、会社を早退した。
朝から頭が重く、まともに人と話せなかった。
心の中に霧がかかっているようで、川崎からの未読メッセージすら、読めずにいた。
家の前に立ち止まり、しばらく鍵を差せなかった。
ドアの向こうにあるのは、安らぎではなく、“監視”だった。
中に入ると、彼女は何も言わずに玄関で待っていた。
まるで、飼い主を待つ犬のように、じっと、静かに。
その姿を見て、ふいに喉の奥が詰まった。
「……なんで、いつもそうやって待ってるの?」
「あなたが帰ってこなかったら、どうしようって……思うから」
「そんなに、怖いの?」
彼女はうなずいた。
涙はこぼれなかった。ただ、肩が震えていた。
「失うのが怖い。あなたがいなくなるのが、一番怖いの。生きていけないって、わかってるの」
僕も、何も言えなかった。
彼女を捨てることも、抱きしめ続けることも、もう僕にはできなかった。
その夜、夢を見た。
彼女と手をつないで、海に沈んでいく夢だった。
光のない深海。
水圧に潰されていく感覚だけが、鮮明に残っていた。
目覚めたとき、彼女はまだ隣にいた。
深く眠っていて、安らかに見えた。
“もし今、逃げたら”
そう思って、布団から体を起こした。
でもその瞬間、彼女の手が無意識に僕のシャツの裾を掴んでいた。
手放せない。
彼女も、僕も。
深海の底にいても、互いの手を離さない限り、沈み続けるしかない。
リビングに行くと、テーブルの上に乱雑に置かれた薬の殻と、こぼれた水のグラスがあった。
床に座り込む彼女は、虚ろな目でカーテンの隙間を見つめていた。
「……寒いね」
薄着のままで、唇が青ざめている。
慌ててブランケットをかけたが、彼女は身を縮めたまま、微動だにしなかった。
「薬、何錠飲んだ?」
「……そんなに飲んでない。眠れなくて、ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないだろ、これ……」
声が震えた。怒りじゃない。恐怖だった。
彼女が、自分の手で自分を終わらせようとしていたかもしれない。
その可能性が、胸を締めつける。
「死にたいの?」
彼女は顔を上げた。
泣いていなかった。ただ、静かに笑っていた。
「ううん、死にたいわけじゃない。ただ、あなたがいないって思ったら、もう何もいらない気がして……だから、何かを感じたくて飲んだの。
生きてる感じがしなかったの。昨日も、今日も。あなたに抱きしめられてても、なんだか空っぽで」
僕は彼女の手を握った。細くて冷たかった。
「一緒にいるよ。ちゃんと、そばにいるから」
そう言うと、彼女は目を伏せた。
「ねぇ、いつまでこうしていられるんだろうね」
その言葉は、まるで終わりの予告のようだった。
数日後、会社を早退した。
朝から頭が重く、まともに人と話せなかった。
心の中に霧がかかっているようで、川崎からの未読メッセージすら、読めずにいた。
家の前に立ち止まり、しばらく鍵を差せなかった。
ドアの向こうにあるのは、安らぎではなく、“監視”だった。
中に入ると、彼女は何も言わずに玄関で待っていた。
まるで、飼い主を待つ犬のように、じっと、静かに。
その姿を見て、ふいに喉の奥が詰まった。
「……なんで、いつもそうやって待ってるの?」
「あなたが帰ってこなかったら、どうしようって……思うから」
「そんなに、怖いの?」
彼女はうなずいた。
涙はこぼれなかった。ただ、肩が震えていた。
「失うのが怖い。あなたがいなくなるのが、一番怖いの。生きていけないって、わかってるの」
僕も、何も言えなかった。
彼女を捨てることも、抱きしめ続けることも、もう僕にはできなかった。
その夜、夢を見た。
彼女と手をつないで、海に沈んでいく夢だった。
光のない深海。
水圧に潰されていく感覚だけが、鮮明に残っていた。
目覚めたとき、彼女はまだ隣にいた。
深く眠っていて、安らかに見えた。
“もし今、逃げたら”
そう思って、布団から体を起こした。
でもその瞬間、彼女の手が無意識に僕のシャツの裾を掴んでいた。
手放せない。
彼女も、僕も。
深海の底にいても、互いの手を離さない限り、沈み続けるしかない。