深海の愛
週明けの朝。
職場に向かう電車の中で、スマホの通知がひっきりなしに鳴っていた。
──「昨日の夜、ちゃんと眠れた?」
──「起きてるよね?」
──「もしかして、まだ怒ってる?」
未読のまま30件を超えるメッセージに、思わず目を閉じた。
電車の揺れがいつもより重く感じる。息苦しさが喉元までせり上がってくる。
“ちゃんと返さなきゃ”
そう思うのに、指が動かなかった。
夜、部屋に戻ると、彼女は玄関に座り込んでいた。
買い物袋を両手に抱えたまま、靴も脱がず、じっとドアを見ていた。
「ねえ、遅かったね。事故にでもあったのかと思った」
その声は優しくて、それがまた怖かった。
彼女の目の下にはくっきりとクマができていて、爪には血が滲んでいた。無意識に噛んだのだろう。
「連絡……できなくて、ごめん」
「ううん、いいの。無事なら、それで」
笑顔のまま、彼女は僕の胸に顔を押し付けた。
その細い背中に手を置いた瞬間、ざらりとした違和感があった。
そっと服の裾をめくると、赤く引っかいた跡が無数にあった。
無理に聞かなくても、何が起きたのかはわかる。
「……これ、自分でやったの?」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、震える声で答えた。
「気がついたら、止まらなかったの。怖くて、寂しくて……頭がぐちゃぐちゃで。ごめんね、心配させて……」
違う、と思った。
でも、それ以上の言葉が出てこなかった。
抱きしめることでしか、彼女の不安を止められない。
そう思い込んでいたし、実際、それしかしてこなかった。
深夜、彼女が眠ったあと。
僕はベランダに出て、煙草に火をつけた。
本当は吸わないと約束していた。彼女が匂いを嫌がるから。
けれど、そのときはもう、何かを破る音を聞きたかった。
煙の向こうで、川崎の言葉がふと思い出された。
「壊れたあと、やっと呼吸できた」
あのときはまだ、意味がわからなかった。
でも今ならわかる。息を吸うたびに、胸が痛む。呼吸することすら、誰かの許可が必要な生活だった。
ふと、スマホを取り出す。
ホーム画面の上にある「連絡先」から、川崎の名前を探そうとして、指が止まった。
──逃げたら、彼女はどうなる?
──僕を失ったら、壊れてしまうかもしれない。
その想像が、喉を締めつけた。
手放すことが、殺すことと同じ意味に思えてくる。
選べない。
選べるようで、選べない。
沈むのは、わかっているのに。
彼女を抱いて眠る夜は、もう温かさを感じなかった。
それでも、腕を解く勇気もなかった。
職場に向かう電車の中で、スマホの通知がひっきりなしに鳴っていた。
──「昨日の夜、ちゃんと眠れた?」
──「起きてるよね?」
──「もしかして、まだ怒ってる?」
未読のまま30件を超えるメッセージに、思わず目を閉じた。
電車の揺れがいつもより重く感じる。息苦しさが喉元までせり上がってくる。
“ちゃんと返さなきゃ”
そう思うのに、指が動かなかった。
夜、部屋に戻ると、彼女は玄関に座り込んでいた。
買い物袋を両手に抱えたまま、靴も脱がず、じっとドアを見ていた。
「ねえ、遅かったね。事故にでもあったのかと思った」
その声は優しくて、それがまた怖かった。
彼女の目の下にはくっきりとクマができていて、爪には血が滲んでいた。無意識に噛んだのだろう。
「連絡……できなくて、ごめん」
「ううん、いいの。無事なら、それで」
笑顔のまま、彼女は僕の胸に顔を押し付けた。
その細い背中に手を置いた瞬間、ざらりとした違和感があった。
そっと服の裾をめくると、赤く引っかいた跡が無数にあった。
無理に聞かなくても、何が起きたのかはわかる。
「……これ、自分でやったの?」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、震える声で答えた。
「気がついたら、止まらなかったの。怖くて、寂しくて……頭がぐちゃぐちゃで。ごめんね、心配させて……」
違う、と思った。
でも、それ以上の言葉が出てこなかった。
抱きしめることでしか、彼女の不安を止められない。
そう思い込んでいたし、実際、それしかしてこなかった。
深夜、彼女が眠ったあと。
僕はベランダに出て、煙草に火をつけた。
本当は吸わないと約束していた。彼女が匂いを嫌がるから。
けれど、そのときはもう、何かを破る音を聞きたかった。
煙の向こうで、川崎の言葉がふと思い出された。
「壊れたあと、やっと呼吸できた」
あのときはまだ、意味がわからなかった。
でも今ならわかる。息を吸うたびに、胸が痛む。呼吸することすら、誰かの許可が必要な生活だった。
ふと、スマホを取り出す。
ホーム画面の上にある「連絡先」から、川崎の名前を探そうとして、指が止まった。
──逃げたら、彼女はどうなる?
──僕を失ったら、壊れてしまうかもしれない。
その想像が、喉を締めつけた。
手放すことが、殺すことと同じ意味に思えてくる。
選べない。
選べるようで、選べない。
沈むのは、わかっているのに。
彼女を抱いて眠る夜は、もう温かさを感じなかった。
それでも、腕を解く勇気もなかった。