深海の愛
週の半ば、水曜日の午後。
いつもより少し早く昼休憩に出ると、社内のカフェスペースで見慣れた顔が手を振っていた。
「おーい、こっち空いてるぞ!」
新田だった。
営業部で一緒に入社した同期。学生時代からの友人でもある彼は、いつも明るく、人と自然に距離を詰めるのがうまい。
その隣には、彼の恋人・茜が座っていた。柔らかい笑顔の、どこか落ち着いた雰囲気の女性だった。
「彼女連れてきたんだ。ちょうどよかった、紹介しとくわ」
新田が肩を軽く叩く。
「初めまして、茜です」
彼女はにこやかに挨拶し、僕の彼女にも笑いかけた。
彼女も一応、笑顔を浮かべて「よろしく」と返したが、その目にはどこか緊張が滲んでいた。
4人でテーブルを囲み、話題は自然と、休日の過ごし方や最近の映画の話になった。
新田と茜は息がぴったりだった。
お互いの話を遮らず、ちゃんと聞き、たまにからかい合いながらも、どこか対等で、自由だった。
「今度、旅行行こうって話してるんだよね。静岡に温泉入りに」
新田が茜を見て、彼女も嬉しそうに頷いた。
「忙しいけど、会う時間はちゃんと作らないとね。お互いのこと、大事にしたいし」
茜がそう言ったとき、僕の隣に座る彼女が、カップを持つ手をほんの少し震わせたのを見逃さなかった。
何も言わず、何も崩れない笑顔のまま。
でも、その沈黙が、僕には一番怖かった。
カフェを出てエレベーターを待つとき、彼女がぽつりと呟いた。
「……いいな、ああいうの」
「何が?」
「ふたりとも、ちゃんとひとりの人間でいられてるって感じ。羨ましいなって」
僕はうまく答えられなかった。
彼女と僕は、たしかに一心同体のように近かった。
でもそれは、心地いい距離感ではなく、皮膚が剥がれ落ちるほどに密着した関係だった。
帰り道、雨が降っていた。
傘の下、ふたりで歩く道のりがいつもより長く感じた。
「ねえ、私たちってさ、普通じゃないのかな」
突然の問いだった。
答えを間違えれば、何かが壊れてしまいそうだった。
「普通って、何?」
時間稼ぎのようにそう答えると、彼女は笑った。
でもその笑顔は、寂しさと諦めの混じった、薄く冷たいものだった。
「ううん、ごめん。なんでもない。……ただ、最近すこし怖いの」
「何が?」
「あなたの全部が、私のために変わっていくのが。怖いけど、止められないの。私も、あなたも」
夜の静けさが、僕たちの隙間をそっと照らしていた。
まるで、あの穏やかなカップルたちが放つ光に照らされることで、僕たちの歪みがくっきり浮かび上がったように。
いつもより少し早く昼休憩に出ると、社内のカフェスペースで見慣れた顔が手を振っていた。
「おーい、こっち空いてるぞ!」
新田だった。
営業部で一緒に入社した同期。学生時代からの友人でもある彼は、いつも明るく、人と自然に距離を詰めるのがうまい。
その隣には、彼の恋人・茜が座っていた。柔らかい笑顔の、どこか落ち着いた雰囲気の女性だった。
「彼女連れてきたんだ。ちょうどよかった、紹介しとくわ」
新田が肩を軽く叩く。
「初めまして、茜です」
彼女はにこやかに挨拶し、僕の彼女にも笑いかけた。
彼女も一応、笑顔を浮かべて「よろしく」と返したが、その目にはどこか緊張が滲んでいた。
4人でテーブルを囲み、話題は自然と、休日の過ごし方や最近の映画の話になった。
新田と茜は息がぴったりだった。
お互いの話を遮らず、ちゃんと聞き、たまにからかい合いながらも、どこか対等で、自由だった。
「今度、旅行行こうって話してるんだよね。静岡に温泉入りに」
新田が茜を見て、彼女も嬉しそうに頷いた。
「忙しいけど、会う時間はちゃんと作らないとね。お互いのこと、大事にしたいし」
茜がそう言ったとき、僕の隣に座る彼女が、カップを持つ手をほんの少し震わせたのを見逃さなかった。
何も言わず、何も崩れない笑顔のまま。
でも、その沈黙が、僕には一番怖かった。
カフェを出てエレベーターを待つとき、彼女がぽつりと呟いた。
「……いいな、ああいうの」
「何が?」
「ふたりとも、ちゃんとひとりの人間でいられてるって感じ。羨ましいなって」
僕はうまく答えられなかった。
彼女と僕は、たしかに一心同体のように近かった。
でもそれは、心地いい距離感ではなく、皮膚が剥がれ落ちるほどに密着した関係だった。
帰り道、雨が降っていた。
傘の下、ふたりで歩く道のりがいつもより長く感じた。
「ねえ、私たちってさ、普通じゃないのかな」
突然の問いだった。
答えを間違えれば、何かが壊れてしまいそうだった。
「普通って、何?」
時間稼ぎのようにそう答えると、彼女は笑った。
でもその笑顔は、寂しさと諦めの混じった、薄く冷たいものだった。
「ううん、ごめん。なんでもない。……ただ、最近すこし怖いの」
「何が?」
「あなたの全部が、私のために変わっていくのが。怖いけど、止められないの。私も、あなたも」
夜の静けさが、僕たちの隙間をそっと照らしていた。
まるで、あの穏やかなカップルたちが放つ光に照らされることで、僕たちの歪みがくっきり浮かび上がったように。