二次創作
影に触れた夜
#1
米花町の夜は、いつもどこか落ち着かない。街灯の明かりが濡れたアスファルトに反射し、遠くで車のクラクションが響く。あの日、私は仕事帰りに裏路地で強盗に絡まれた。鞄を奪われそうになった瞬間、黒いコートを翻した男が現れた。彼は鋭い目つきで強盗を一瞥しただけで、ナイフを持った相手を一瞬で倒した。
「邪魔だ」と低い声で吐き捨て、彼はそのまま去っていった。冷たく響くその一言と、風に揺れる銀髪。私は呆然と立ち尽くしながら、彼の背中を見つめた。あんな危険そうな人に惹かれるなんておかしい。そう思うのに、彼のことが頭から離れなかった。
それから何日も、私は彼を探すようになった。米花町の繁華街、喫茶店の窓際、駅前の雑踏。あの黒いコートを見かけるたびに胸が跳ねた。ある日、偶然彼を見つけ、我慢できなくなって後をつけた。サングラスとマスクで変装したつもりだったけど、なんて無駄な努力だったんだろう。すぐにバレた。
薄暗い路地裏で、彼に腕を掴まれた。
「何のつもりだ?」
氷のような声が耳に刺さる。私は震えながら、なんとか言葉を絞り出した。
「助けてくれた人だから…ただ、知りたかっただけなんです」
彼は私の顔をじっと見つめ、鼻で笑った。「くだらない」と一蹴される。私は殺されるかもしれないと覚悟した。でも、彼は手を離し、踵を返して立ち去った。その冷たい瞳が、なぜか私をさらに惹きつけた。
諦めきれなかった。もう一度彼に会えた時、私は自分でも信じられない言葉を口にした。
「一度だけでいいから、そばにいさせてください。お願いします」
彼は嘲るように口角を上げ、「面白い女だな」と呟いた。そして、私の願いを聞き入れた。
その夜、彼が連れて行ったのは、米花町を見下ろす高層マンションの一室だった。エレベーターが静かに上昇し、扉が開くと、ガラス張りの廊下が広がっていた。彼は無言で私を部屋に導く。室内は洗練されていて、黒と白を基調にした家具が整然と並び、大きな窓からは夜景が一望できた。煌めく街の灯りが、まるで別世界のようだった。
彼はソファに腰を下ろし、煙草に火をつけた。紫煙がゆらりと立ち上り、部屋の静寂に溶けていく。私は震える手で彼の隣に座り、言葉を探した。冷たい革の感触が掌に伝わり、心臓が早鐘を打つ。
「何が欲しい?」
彼の声は低く、まるで刃物のように鋭い。私は目を伏せ、喉に詰まった想いを押し出すように呟いた。
「あなたと一緒にいたい。それだけでいいんです」
彼は鼻で笑い、「バカな女だ」と吐き捨てる。でも、次の瞬間、彼の手が私の髪に触れた。冷たい指先が首筋を滑り、心臓が跳ねる。煙草の苦い匂いと、彼の重い香水が混じり合って、私の頭をクラクラさせた。
「一晩だけだ。それで満足しろ」
その言葉に頷くのが精一杯だった。彼の影が近づき、ソファの革が微かに軋む音が響く。私は目を閉じた。彼の手が私の肩に置かれ、その重さに息が詰まる。首筋に触れる吐息を感じた瞬間、心が熱くなった。でも、同時に、どこか冷たい虚しさが胸の奥を刺した。彼の指が私の腕を軽く滑り、触れ合った肌の感触が現実を繋ぎ止めた。
窓の外の夜景がぼんやりと揺れ、彼のシルエットがガラスに映る。その姿が美しくて、儚くて、私はただ見惚れていた。
その夜は夢のようだった。けれど、彼の瞳には何の感情も映らない。私はただ、彼の影に触れただけだった。
朝が来て、彼は黙って部屋を出た。別れの言葉も、視線すらもない。残されたのは、ソファに残る微かな温もりと、漂う煙草の匂いだけ。ベッドのシーツは整ったままだった。私は窓辺に立ち、朝焼けに染まる街を見下ろした。心が空っぽだった。
数週間後、米花町の駅前で偶然彼を見かけた。黒いコートに身を包み、隣にはサングラスをかけた大柄な男がいた。私は吸い寄せられるように近づいてしまう。でも、彼の視線は私を素通りした。
「誰だ?」
彼の声が無表情に響く。隣の男が怪訝そうに私を見やり、口を開いた。
「この女誰です?兄貴」
彼は一瞬私を眺め、平然と答えた。
「知らない女だ。行くぞ、ウォッカ」
その言葉が胸に突き刺さった。私は凍りついたまま、なんとか笑顔を浮かべた。
「人違いでした。すみません」
踵を返して歩き出す。背中で彼らの足音が遠ざかっていく。冷たい風が頬を撫で、涙が溢れそうになったけど、グッと堪えた。あの夜、私は彼にとって何でもなかったんだ。知らない女。たったそれだけ。
駅前の雑踏に紛れながら、私は自分に言い聞かせた。もういいよね、と。足を止め、空を見上げた。灰色の雲が広がる中で、ようやく彼への想いを断ち切れた気がした。
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