異世界に吹き荒れる黒い嵐
１９３９年８月２７日・深夜。
ドイツ 東プロイセン。
国防軍総司令部ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将は、市内の官舎で眠りにつこうかという所で、司令部から突然の呼び出しを受けた。
冷水を呷って眠気を追い出し、手早く身支度を整えると、迎えに来た自身の従兵に尋ねた。
「何かあったのかね？」
彼の統括する東プロイセンは、今からおよそ15年前。協商国との条約により協商国が意図的に作った飛び地であり、仮にドイツとポーランドが開戦した場合、地理的には真っ先に連合国と矛を交えることになる。
現時点でヴェルナーの指揮下には、４個軍、６個機械化軍団、１個空挺軍団からなる総兵力２６８万が配されており、これは現役ドイツ軍全体の過半数にも及ぶ。
条約無視後に策定された方針によって、保守・整備を度外視してとりあえず数だけは揃えた各種装甲車両は、その稼働率にかなり深刻な問題を抱えてはいたものの、他国から見れば十分に脅威といえるだけの戦力を有していた。
しかし、『融和外国中英仏の相手ドイツに対して連合国語が先制攻撃するはずがない』という実に真っ当な発想からくる思い込みによって、ヒトラーは各地に展開する軍に対して連合国軍を刺激しないように厳命を発していた。
これでは万一連合国が攻めてきたとき、この世界有数の陸戦兵力は連合国軍によって、呈の良い射撃の標的にされかねないという危険があった。
ヴェルナーは開戦まで連合国軍をなるだけ刺激しないように、それでいて万一連合国が我が国に宣戦布告となった場合には精鋭揃いの連合国軍に対して効果的な防戦を行わねばならないという非常に困難かつ不健康な役目を負わされていたのである。
「はい。軍管区司令部より、大至急閣下にお越しいただきたいと連絡が入っております。」
言われて、ヴェルナーはハッとした。
「まさか……連合国の攻撃か？」
「いえ。具体的に何があったとは聞いていません。ただ、第４軍より閣下の判断を仰ぐべき奇妙な事態が発生したとの無電が来ているのですが…その、どうも内容が要領を得ないらしく」
なんだそれは。ヴェルナーは従兵の言葉遊びのような言い草に少し苛ついた。
叱責するべきかと思ったが、よく見れば従兵の方もなにやら困惑している節がある。
ヴェルナーは溜息一つ吐いて立ち上がった。
「分かった。直ぐに行くから車の用意を頼む」
「ダー」
従兵はカッと踵を打ちつけると踵を返して部屋を出て行った。
従兵が消えたのを見届けると、ヴェルナーは小さく悪態をつきながら、幾つかの書類を鞄に放り込んでいく。
「第４軍から？……全く…ドイツ軍の奴は無電の一つもまともに送れんのか」
さっきの従兵の様子だと西欧民主主義どもが大挙して攻めて来たというわけではないようだ。
しかし奇妙…奇妙な事態とは……！はっきり言って報告文としての体裁すら成していない。
いったい、第４軍の報告が悪いのか、それとも通信を受け取ったウチの司令部の連中が怠慢なのか、はたまた先程の従兵が口下手なのか？
「まあ…行ってみれば分かるか」
呟いて、ヴェルナーは部屋を後にした。
司令部に到着すると、そこはまるで混乱の坩堝と化していた。
幕僚達は右往左往し、政治委員たちは混乱した様子で辺りに怒鳴り散らしている。
ヴェルナーは一瞬唖然として、直ぐに周囲を一喝した。
「落ち着かんか!!」
石の壁がビリビリと震えそうなほどの大声に、辺りは一瞬虚を突かれたように静まり返った。
ヴェルナーはその隙を見逃さずに参謀長に問いただした。
「何があったのだ？」
「ハッ。先程第４軍より無電が届きまして」
「それは聞いている。報告と呼ぶのもおこがましい意味不明な内容だったがな」
「……申し訳ありません。どうにも荒唐無稽な内容だったもので」
「どんな内容だろうが私に伝えるのが筋というものだろう。で、その電文は？」
「これです」
そう言って参謀長は一枚の紙片を手渡した。
ヴェルナーはそれをひったくるように受け取るとその隅々に目を通していく。
「……」
読み始めて５秒後。
ヴェルナーの表情が固まった。
１９３９年６月２７日。深夜０時。
この瞬間。ドイツから東プロイセン、オーストリア、チェコスロバキアにかけて突如、異常な濃霧が発生したと記録されている。
欧州の8分の一を霧が覆うという、地球規模の異常気象。
その時の気圧・気温は全くの正常であり、霧が発生するというのは理論上ありえないことだった。
そして夜が明けたとき。
ひとつの大国がこの世から姿を消した。
新星暦 ３５１年 青竜月１４日 早朝
ケーニヒスベルク外港
帝政時代、ヴィルヘルム一世によって建設されて以来。この港湾都市はドイツ海軍にとって最大の拠点であり続けた。
その価値は帝政が倒れ、ナチスドイツと国名が変わって以降も変わることは無かった。
つい昨日までは。
港の埠頭。
北欧屈指の規模を誇る海港の玄関口で、２人の男が呆然と立ち尽くしていた。
１人は黒色海軍の制服を着た、見るからに屈強な男。
もう１人は小奇麗な背広を着込んだやや小回りな男。
２人はこの街でもひとかどの地位につく要人だったが、揃いも揃って虚ろな目を水平線の先…否…地平線の先に向けていた。
「カール・デーニック……」
軍服姿の男が、震える口調で言った。
「なんだね」
傍らに立つ小回りの男が同じく虚ろな目でモゴモゴと小さく答えた。
「私は……夢でも見ているのか？」
震える手つきである方向を指差す。
そこには喫水線より下を地中に埋めさせたバルチック潜水艦の姿があった。
いや、マラートだけではない。巡洋艦も、駆逐艦も、商船も、すべてが地中に喫水下を埋めていた。
より正確に表現するなら、喫水より下にあるべき『海』が無かった。
「そうだとしたら、随分とたちの悪い悪夢だよ」
デーニックは呻くように言った。
その異変に気付いたのは、マラート艦橋で当直についていた士官だった。
突然、辺りに霧が漂いだしたかと思うと、自分達の艦が停泊しているケーニヒスベルク軍港の外観が薄らぎ始め、やがて跡形も無く掻き消えてしまったのだ。
続いて足元に、地震でも起きたような揺らぎが奔った。
それも地上で感じるような…海上に停泊しているフネの中では絶対に有り得ないような揺れ方。
異変を感じて艦隊司令部に連絡しようにも、通信が全く繋がらない。
やがて港に停泊していた他の艦でも似たような混乱がおき、ある水兵が艦の喫水下に草木の生い茂る原野を見出したとき、混乱は最高潮に達した。このとき艦隊にいた最先任士官の判断で、この異常事態は東プロイセンの軍管区司令部に報告された。もちろん報告されたほうも大混乱である。
ケーニヒスベルクに存在する、あらゆる軍施設（艦隊司令部も含む）が通信途絶。ケーニヒスベルクに停泊していた艦隊からは指示を求める緊急の無電が飛び交い、仕舞いにはキールの行政・軍管区からベルリンまでを巻き込んだ大混乱が巻き起こった。
「私の艦隊が……」
軍服姿の男……異変が起きる前、所用でベルリン市内に宿泊していたおかげでクロンシュタット基地諸共消滅せずに済んだ艦隊司令長官海軍大将は悲嘆に暮れる。
「………君の艦隊ではない。我々の艦隊だよ」
未だショックから立ち直れず、それでも一言つっこむだった。
……これはえらい事だぞ。デーニックは港の余りの惨状に吐き気すら覚えた。
今朝、何も食べてこなかったのは正解だったらしい。単純に食事を取っているような暇など無かっただけなのだが。
地中にめり込んで奇妙なオブジェと化してしまっている艦隊・商船団は、ドイツ海軍・海運の船舶量を考えると発狂ものの事態といえるが、彼らには目の前の事態を認識するだけでも精一杯だった。
天変地異？
海底の隆起？
馬鹿な！もしそうなら目の前に広がる原野は一体なんだ？軍港は何処に消えた！？
目の前に広がる風景…まるでモンゴル辺りの草原でも見ているようだ。
既に、かつての海岸線周辺には物見遊山にやってきたらしいケーニヒスベルク市民による人だかりが出来つつある。
流石に自分達が今いるような港近辺は封鎖されているが。
（まずはこれを何とかしなくては…）
政治部としては、まず市民の統制をしなくてはならないだろう。
この原野がいかなる物か？突然現れたように、また忽然と消えて海に戻ってしまう可能性も無いではない。
また、ベルリンからは既にこの事態について説明を求めるべくデーニックに対する召喚命令が来ている。
「現実逃避している場合ではないぞ。提督」
どうにか気を持ち直すと、傍らで未だに震えているトリブツに話しかけた。
とにかく、今は市内と軍の混乱を収拾しなくてはならない。
デーニックはそう考え、踵を返した。
その後に続くように弱々しい足取りでトリブツが続く。
まるで幽鬼のような足取り……無理も無い。彼の司令部は消滅した軍港内の基地にあった。艦隊の将兵の多くもそこにいたのだ。
１９３９年８月２８日。早朝。
ドイツ 首都ベルリン
午前６時半。
ベルリンにて緊急政治局会議が招集された。
会議室にヒトラーが入室すると、既に参集していた閣僚、高級将校達は一斉に起立した。
ヒトラーは席に着くと、じろりと一同を睥睨した。
「……まずは情報が聞きたい。昨夜から今朝にかけて一体全体何が起きたのか、だ」
一言だけ言う。下らんことを言ったら承知せんぞと言わんばかりの表情で黙り込む。
国防軍のエーリッヒは軽く唇を湿らせた。
わけの分からない理由で早朝に起こされた書記長が、酷く機嫌を損ねているのは間違いない。
（まあ…無理も無かろうが）
自分だって、この情報を最初に耳にしたときは馬鹿を抜かすなと報告者を怒鳴りつけたくらいなのだから。それほどに、現在、ドイツ全土を見舞っている事態は常軌を逸していた。
普段、あれやこれやと口を挟む親衛隊のヒムラーは今日に限っては大人しいものだ。
（いや、大人しいのは今だけか）
エーリッヒはおもった。
小ざかしい親衛隊のことだ。具合の悪いことは皆こちらに報告させておいて、その後で総統の怒りの代弁者を気取って攻撃してくるに違いない。
そんなネガティブなことを考えながらも、エーリッヒは手元の報告書を読み上げた。
「では、ご報告いたします。昨夜未明……恐らくは日付が変わる前後から、ドイツ国外との通信一切が不能になりました。」
「原因は？」
「……根本的な原因については不明です」
ヒトラーからの視線がより強まったように感じ、エーリッヒは背中にじっとりと汗を滲ませた。
「……まどろっこしい言い方だな。根本的とは……つまり、直接的な原因については判明したというのか？」
「はい。ドイツ全土の各軍管区より届けられた報告を総合的に検討した結果……」
エーリッヒは軽く息継ぎをすると、意を決して言い放った。
「連邦と国境を接するすべての国家、さらに連邦が有する島嶼全てが消滅していることが判明しました」
一息に言い切った。
同時に、辺りを沈黙が包み込む。
ヒトラーは一瞬呆然と目を見開き、次いで周囲の閣僚達を見渡した。
そして周りにいる誰もが、エーリッヒの報告を一切訂正しようとしないことに気付くと、今度は途方にくれたように視線を宙に漂わせた。
別荘でも簡単に説明されてはいたものの、あまりの荒唐無稽さに怒る気力すら失せてしまったらしい。
その妙な雰囲気に、エーリッヒは自分の顔が羞恥に紅潮していくのが手に取るように分かった。
（俺だってこんな報告したくはない！）
そう叫びたいのを我慢して、話を続ける。
「この異変における最大の損害は、主に船舶に関わるものです。ここからは海軍司令部が報告を」
どこかホッとした様子でエーリッヒは席に着いた。
匙を投げたとも言う。
後を任されてしまった海軍司令部の提督はというと、一瞬恨めしげな視線をエーリッヒに向けた。
こんな馬鹿馬鹿しい報告、全部やってくれよと言いたげなのは誰の目にも明らかだった。
「まず、カリーニングラードに関してですが、昨夜の０時前後より濃霧が発生し……こちらは他の地域でも同様ですが……問題はバルト海に突如として謎の陸地が出現したことです。」
「………陸地だと？」
ヒトラーは未だショックから立ち直れぬまま、鸚鵡返しに呟く。
「はい。これにより、湾内に停泊していた軍民あらゆる船舶が座礁しております。また、島諸共消滅したことで、艦隊の指揮系統、人員ともに全滅しております。他の艦隊に関しては特に問題は無いようですが……この一連の異変により、我が国の軍艦艇はその３割を失ったことになります。商船舶については現在被害の集計を行っておりますが、こちらも深刻です」
次々と読み上げられる報告にヒトラーはただ呆然とするばかりだった。
ドイツ 東プロイセン。
国防軍総司令部ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将は、市内の官舎で眠りにつこうかという所で、司令部から突然の呼び出しを受けた。
冷水を呷って眠気を追い出し、手早く身支度を整えると、迎えに来た自身の従兵に尋ねた。
「何かあったのかね？」
彼の統括する東プロイセンは、今からおよそ15年前。協商国との条約により協商国が意図的に作った飛び地であり、仮にドイツとポーランドが開戦した場合、地理的には真っ先に連合国と矛を交えることになる。
現時点でヴェルナーの指揮下には、４個軍、６個機械化軍団、１個空挺軍団からなる総兵力２６８万が配されており、これは現役ドイツ軍全体の過半数にも及ぶ。
条約無視後に策定された方針によって、保守・整備を度外視してとりあえず数だけは揃えた各種装甲車両は、その稼働率にかなり深刻な問題を抱えてはいたものの、他国から見れば十分に脅威といえるだけの戦力を有していた。
しかし、『融和外国中英仏の相手ドイツに対して連合国語が先制攻撃するはずがない』という実に真っ当な発想からくる思い込みによって、ヒトラーは各地に展開する軍に対して連合国軍を刺激しないように厳命を発していた。
これでは万一連合国が攻めてきたとき、この世界有数の陸戦兵力は連合国軍によって、呈の良い射撃の標的にされかねないという危険があった。
ヴェルナーは開戦まで連合国軍をなるだけ刺激しないように、それでいて万一連合国が我が国に宣戦布告となった場合には精鋭揃いの連合国軍に対して効果的な防戦を行わねばならないという非常に困難かつ不健康な役目を負わされていたのである。
「はい。軍管区司令部より、大至急閣下にお越しいただきたいと連絡が入っております。」
言われて、ヴェルナーはハッとした。
「まさか……連合国の攻撃か？」
「いえ。具体的に何があったとは聞いていません。ただ、第４軍より閣下の判断を仰ぐべき奇妙な事態が発生したとの無電が来ているのですが…その、どうも内容が要領を得ないらしく」
なんだそれは。ヴェルナーは従兵の言葉遊びのような言い草に少し苛ついた。
叱責するべきかと思ったが、よく見れば従兵の方もなにやら困惑している節がある。
ヴェルナーは溜息一つ吐いて立ち上がった。
「分かった。直ぐに行くから車の用意を頼む」
「ダー」
従兵はカッと踵を打ちつけると踵を返して部屋を出て行った。
従兵が消えたのを見届けると、ヴェルナーは小さく悪態をつきながら、幾つかの書類を鞄に放り込んでいく。
「第４軍から？……全く…ドイツ軍の奴は無電の一つもまともに送れんのか」
さっきの従兵の様子だと西欧民主主義どもが大挙して攻めて来たというわけではないようだ。
しかし奇妙…奇妙な事態とは……！はっきり言って報告文としての体裁すら成していない。
いったい、第４軍の報告が悪いのか、それとも通信を受け取ったウチの司令部の連中が怠慢なのか、はたまた先程の従兵が口下手なのか？
「まあ…行ってみれば分かるか」
呟いて、ヴェルナーは部屋を後にした。
司令部に到着すると、そこはまるで混乱の坩堝と化していた。
幕僚達は右往左往し、政治委員たちは混乱した様子で辺りに怒鳴り散らしている。
ヴェルナーは一瞬唖然として、直ぐに周囲を一喝した。
「落ち着かんか!!」
石の壁がビリビリと震えそうなほどの大声に、辺りは一瞬虚を突かれたように静まり返った。
ヴェルナーはその隙を見逃さずに参謀長に問いただした。
「何があったのだ？」
「ハッ。先程第４軍より無電が届きまして」
「それは聞いている。報告と呼ぶのもおこがましい意味不明な内容だったがな」
「……申し訳ありません。どうにも荒唐無稽な内容だったもので」
「どんな内容だろうが私に伝えるのが筋というものだろう。で、その電文は？」
「これです」
そう言って参謀長は一枚の紙片を手渡した。
ヴェルナーはそれをひったくるように受け取るとその隅々に目を通していく。
「……」
読み始めて５秒後。
ヴェルナーの表情が固まった。
１９３９年６月２７日。深夜０時。
この瞬間。ドイツから東プロイセン、オーストリア、チェコスロバキアにかけて突如、異常な濃霧が発生したと記録されている。
欧州の8分の一を霧が覆うという、地球規模の異常気象。
その時の気圧・気温は全くの正常であり、霧が発生するというのは理論上ありえないことだった。
そして夜が明けたとき。
ひとつの大国がこの世から姿を消した。
新星暦 ３５１年 青竜月１４日 早朝
ケーニヒスベルク外港
帝政時代、ヴィルヘルム一世によって建設されて以来。この港湾都市はドイツ海軍にとって最大の拠点であり続けた。
その価値は帝政が倒れ、ナチスドイツと国名が変わって以降も変わることは無かった。
つい昨日までは。
港の埠頭。
北欧屈指の規模を誇る海港の玄関口で、２人の男が呆然と立ち尽くしていた。
１人は黒色海軍の制服を着た、見るからに屈強な男。
もう１人は小奇麗な背広を着込んだやや小回りな男。
２人はこの街でもひとかどの地位につく要人だったが、揃いも揃って虚ろな目を水平線の先…否…地平線の先に向けていた。
「カール・デーニック……」
軍服姿の男が、震える口調で言った。
「なんだね」
傍らに立つ小回りの男が同じく虚ろな目でモゴモゴと小さく答えた。
「私は……夢でも見ているのか？」
震える手つきである方向を指差す。
そこには喫水線より下を地中に埋めさせたバルチック潜水艦の姿があった。
いや、マラートだけではない。巡洋艦も、駆逐艦も、商船も、すべてが地中に喫水下を埋めていた。
より正確に表現するなら、喫水より下にあるべき『海』が無かった。
「そうだとしたら、随分とたちの悪い悪夢だよ」
デーニックは呻くように言った。
その異変に気付いたのは、マラート艦橋で当直についていた士官だった。
突然、辺りに霧が漂いだしたかと思うと、自分達の艦が停泊しているケーニヒスベルク軍港の外観が薄らぎ始め、やがて跡形も無く掻き消えてしまったのだ。
続いて足元に、地震でも起きたような揺らぎが奔った。
それも地上で感じるような…海上に停泊しているフネの中では絶対に有り得ないような揺れ方。
異変を感じて艦隊司令部に連絡しようにも、通信が全く繋がらない。
やがて港に停泊していた他の艦でも似たような混乱がおき、ある水兵が艦の喫水下に草木の生い茂る原野を見出したとき、混乱は最高潮に達した。このとき艦隊にいた最先任士官の判断で、この異常事態は東プロイセンの軍管区司令部に報告された。もちろん報告されたほうも大混乱である。
ケーニヒスベルクに存在する、あらゆる軍施設（艦隊司令部も含む）が通信途絶。ケーニヒスベルクに停泊していた艦隊からは指示を求める緊急の無電が飛び交い、仕舞いにはキールの行政・軍管区からベルリンまでを巻き込んだ大混乱が巻き起こった。
「私の艦隊が……」
軍服姿の男……異変が起きる前、所用でベルリン市内に宿泊していたおかげでクロンシュタット基地諸共消滅せずに済んだ艦隊司令長官海軍大将は悲嘆に暮れる。
「………君の艦隊ではない。我々の艦隊だよ」
未だショックから立ち直れず、それでも一言つっこむだった。
……これはえらい事だぞ。デーニックは港の余りの惨状に吐き気すら覚えた。
今朝、何も食べてこなかったのは正解だったらしい。単純に食事を取っているような暇など無かっただけなのだが。
地中にめり込んで奇妙なオブジェと化してしまっている艦隊・商船団は、ドイツ海軍・海運の船舶量を考えると発狂ものの事態といえるが、彼らには目の前の事態を認識するだけでも精一杯だった。
天変地異？
海底の隆起？
馬鹿な！もしそうなら目の前に広がる原野は一体なんだ？軍港は何処に消えた！？
目の前に広がる風景…まるでモンゴル辺りの草原でも見ているようだ。
既に、かつての海岸線周辺には物見遊山にやってきたらしいケーニヒスベルク市民による人だかりが出来つつある。
流石に自分達が今いるような港近辺は封鎖されているが。
（まずはこれを何とかしなくては…）
政治部としては、まず市民の統制をしなくてはならないだろう。
この原野がいかなる物か？突然現れたように、また忽然と消えて海に戻ってしまう可能性も無いではない。
また、ベルリンからは既にこの事態について説明を求めるべくデーニックに対する召喚命令が来ている。
「現実逃避している場合ではないぞ。提督」
どうにか気を持ち直すと、傍らで未だに震えているトリブツに話しかけた。
とにかく、今は市内と軍の混乱を収拾しなくてはならない。
デーニックはそう考え、踵を返した。
その後に続くように弱々しい足取りでトリブツが続く。
まるで幽鬼のような足取り……無理も無い。彼の司令部は消滅した軍港内の基地にあった。艦隊の将兵の多くもそこにいたのだ。
１９３９年８月２８日。早朝。
ドイツ 首都ベルリン
午前６時半。
ベルリンにて緊急政治局会議が招集された。
会議室にヒトラーが入室すると、既に参集していた閣僚、高級将校達は一斉に起立した。
ヒトラーは席に着くと、じろりと一同を睥睨した。
「……まずは情報が聞きたい。昨夜から今朝にかけて一体全体何が起きたのか、だ」
一言だけ言う。下らんことを言ったら承知せんぞと言わんばかりの表情で黙り込む。
国防軍のエーリッヒは軽く唇を湿らせた。
わけの分からない理由で早朝に起こされた書記長が、酷く機嫌を損ねているのは間違いない。
（まあ…無理も無かろうが）
自分だって、この情報を最初に耳にしたときは馬鹿を抜かすなと報告者を怒鳴りつけたくらいなのだから。それほどに、現在、ドイツ全土を見舞っている事態は常軌を逸していた。
普段、あれやこれやと口を挟む親衛隊のヒムラーは今日に限っては大人しいものだ。
（いや、大人しいのは今だけか）
エーリッヒはおもった。
小ざかしい親衛隊のことだ。具合の悪いことは皆こちらに報告させておいて、その後で総統の怒りの代弁者を気取って攻撃してくるに違いない。
そんなネガティブなことを考えながらも、エーリッヒは手元の報告書を読み上げた。
「では、ご報告いたします。昨夜未明……恐らくは日付が変わる前後から、ドイツ国外との通信一切が不能になりました。」
「原因は？」
「……根本的な原因については不明です」
ヒトラーからの視線がより強まったように感じ、エーリッヒは背中にじっとりと汗を滲ませた。
「……まどろっこしい言い方だな。根本的とは……つまり、直接的な原因については判明したというのか？」
「はい。ドイツ全土の各軍管区より届けられた報告を総合的に検討した結果……」
エーリッヒは軽く息継ぎをすると、意を決して言い放った。
「連邦と国境を接するすべての国家、さらに連邦が有する島嶼全てが消滅していることが判明しました」
一息に言い切った。
同時に、辺りを沈黙が包み込む。
ヒトラーは一瞬呆然と目を見開き、次いで周囲の閣僚達を見渡した。
そして周りにいる誰もが、エーリッヒの報告を一切訂正しようとしないことに気付くと、今度は途方にくれたように視線を宙に漂わせた。
別荘でも簡単に説明されてはいたものの、あまりの荒唐無稽さに怒る気力すら失せてしまったらしい。
その妙な雰囲気に、エーリッヒは自分の顔が羞恥に紅潮していくのが手に取るように分かった。
（俺だってこんな報告したくはない！）
そう叫びたいのを我慢して、話を続ける。
「この異変における最大の損害は、主に船舶に関わるものです。ここからは海軍司令部が報告を」
どこかホッとした様子でエーリッヒは席に着いた。
匙を投げたとも言う。
後を任されてしまった海軍司令部の提督はというと、一瞬恨めしげな視線をエーリッヒに向けた。
こんな馬鹿馬鹿しい報告、全部やってくれよと言いたげなのは誰の目にも明らかだった。
「まず、カリーニングラードに関してですが、昨夜の０時前後より濃霧が発生し……こちらは他の地域でも同様ですが……問題はバルト海に突如として謎の陸地が出現したことです。」
「………陸地だと？」
ヒトラーは未だショックから立ち直れぬまま、鸚鵡返しに呟く。
「はい。これにより、湾内に停泊していた軍民あらゆる船舶が座礁しております。また、島諸共消滅したことで、艦隊の指揮系統、人員ともに全滅しております。他の艦隊に関しては特に問題は無いようですが……この一連の異変により、我が国の軍艦艇はその３割を失ったことになります。商船舶については現在被害の集計を行っておりますが、こちらも深刻です」
次々と読み上げられる報告にヒトラーはただ呆然とするばかりだった。