千景さんも普通の人間だったんですね。
千景が寮に入って、初めて寝込んだのはいつだっただろう。
春ヶ丘カルテットのザフラ公演が終わって、日本に戻ってきて少ししてから。
布団から出てこず、至が起こして、いつもと様子が違うことに気づき、熱を測ったら39.1。
千景本人も驚いていたが、千景以上に密が驚いていたことが印象的だ。
「ふふ。
千景さんも普通の人間だったんですね。」
その際、布団で寝ている千景の看病をしながら至が笑って言った。
「うるさいな。」
具合も悪ければ機嫌も悪い千景は、額に乗せられたタオルをムスッとしながら至に投げつけた。
今までは1人で耐え忍んでいた。
気づかれないようにしていた。
まさか、他人とおなじ部屋で生活出来るようになっただけじゃなく、他人の前で自分が具合悪いことをオープンにするようになるなんて。
自分が1番驚いていると思ったら、密がすごく驚いていて、ちょっと笑ってしまった。
その日をきっかけに千景は具合を悪い時は寮でちゃんと寝るようになったし、看病もされるようになった。
MANKAIカンパニーはそれが当たり前、と受け止めてくれ、千景もそれに段々となじんでいった。
千景も、具合の悪い子がいれば、看病もするし、病院まで車を出す事もある。
それが普通で、当たり前で。
でもやっぱりまだ、自分が看病される側になるのは慣れなくて。
それでも、少しづつ慣れていった。
「...けほっ。
これは...今晩あたり熱、出る...かな。」
朝、千景は、喉の痛みと咳で目覚ましよりも先に目が覚めた。
とりあえず喉は痛いし、風邪薬を飲んで今日は凌ごう、とリビングに向かった。
「おはようございます。
今日、いつもより早いですね。」
既に起きて食事の準備をしている臣に声をかけられる。
「おはよう。
ちょっと目が覚めて。
ねぇ、風邪薬どこにあったっけ?」
千景は笑って挨拶をし、薬の場所を訊ねる。
「具合良くなさそうですね。
風邪薬、これですけど熱とかはありません?」
臣は風邪薬を出しながら聞く。
「今は平気。
とりあえず酷くならないように飲んでおこうかなって。」
ありがと、と言って風邪薬を受け取り、冷たい水で流し込む。
「あ。何か一口でも食べておいた方がいいですよ。」
千景が何も食べないで薬を飲み込んだのを見て、臣は千景さん!と声をかける。
「はは。大丈夫大丈夫。
食欲あんま無いし。」
全く気にする様子もなく千景は笑う。
無理はしないでくださいよ、と臣は困った顔で笑いながらも釘を打つ。
「うん。無理はしないよ。
とりあえず早めに会社行って具合悪くなる前に仕事片付けてくる。
ごめん、臣。
茅ヶ崎起きなかったら声掛けてくれる?」
「...分かりました。
本当に無理しちゃダメですよ。
具合悪ければ迎えにだって行くんで。
連絡くださいね。」
こういう時の臣は押しが強い。
ちゃんと返事をするまで逃してくれない。
「約束する。
約束ついでに、風邪薬飲んでたこととか諸々、茅ヶ崎には内緒にしてもらっていい?
あいつすぐ様子見に来るんだ。」
千景が言うと臣は少し考える。
「...分かりました。
至さんに言わない代わりに左京さんには言います。
それでいいなら言いません。」
臣は笑顔で、だけど圧をかけて言う。
「左京さんか...。
まぁ、わかった。
じゃ、頼むね。」
千景はそう言って支度をしに部屋に戻り、そのまま出社した。
いつもよりだいぶ早い出社だが、海外の取引先を持っている同僚は既にひと仕事終えていた。
そんな感じの同僚が数名。
今日は早いな、なんて言われて、金曜だから早く帰りたいんだ。なんて笑って返す。
千景は自席について、今日のスケジュールの確認、やることにざっと目を通す。
(これだったら早く帰れそうだな。
外訪入れてなくてよかった。)
千景は片付けられるものからとっとと手をつけて、片っ端から処理をしていった。
黙々と事務処理を進めて行き、たまにかかってくる取引先からの電話の対応をしていたら、あっという間に昼を過ぎていた。
今日は食欲もないからこのまま休憩を取らず、仕事を片付けてしまおう。
そう思った時だった。
「えっ!?話がちがいますよね!?」
同僚が血相を変えて電話の相手に叫んでいた。
みんながざわざわと、その同僚のことを遠まきに見つめる。
同僚も海外の顧客を単独で任され、1人でなんでも出来るやつだ。
その彼があんな風になるなんて、相当な問題があったに違いない。
千景は手元の仕事はほぼ片がつく状態だし、なんなら今日じゃなくてもいい。
体調も今のところ問題なさそうだ。
千景は、電話をしながらパソコンや書類を確認している同僚の隣に行き一緒に確認をはじめた。
あまりに自然に流れに入ったため、一瞬同僚は驚いていたが、千景だと分かると、電話をしながら資料を指さして、どういう状況かを共有してくれた。
千景は状況を把握し、すぐさまフォローに回る。
周りは自分の仕事をしつつも、2人の行く末を見守る。
そして最終的に千景が電話を変わってなんとか場を収めた。
「すまん!卯木助かった!
まさかあの部分で認識がズレてたなんて思ってなかった...
とりあえずお前のおかげで何とかなりそうだ。」
彼はこれから外訪2件、その後処理、それだけで軽く定時は越えるコースだった。
「これ、俺フォロー入ったわけだし、やっておく。
とりあえずこれからの2件集中しろよ。」
肩をぽんと叩いて、千景は早速彼の仕事に取り掛かった。
これはまぁ仕方ない。
社会人には付き物のアクシデントだ。
千景は持ってきていた薬だけ飲み込んだ。
あと少しで終わる、という所でまた同僚と揉めた取引先から連絡が入った。
嫌な予感。
見事に仕様変更の連絡だった。
相手の言い分としては今日までのところを明日までに変えてやったんだから今からだって仕様変更はできるはずだ、と。
千景はことを荒立てるのも面倒だったため、その仕様変更を引き受けた。
確実に定時上がりはなくなった。
(...これは少しまずいかもなぁ。)
仕事の手は止めず千景はぼんやり考えた。
「ただいまー」
至はネクタイを弛めながらリビングに入る。
「おかえりなさい。
あれ?千景さん、一緒じゃないんですか?」
臣は至が一人で帰ってきた事が気になった。
朝、仕事を早く片付けるために早く出ていったはずの千景が帰ってきていないのだ。
「千景さんに用事あった?
千景さん厄介な客に捕まってたっぽいよ。
しばらく帰れそうもないかなぁ。」
至は今日はLimeも素っ気ない千景が気になって帰りがけに千景のフロアまで行ってみた。
そしたら、あまり見ない表情で、どこかの国の言葉で、電話をしPCを叩いていた。
至が見ていることに気づくとLimeのスタンプが2つ。
『先に帰って』『遅くなります』一成が商社2人にノリで作ってくれた103専用スタンプが役に立った。
『先に帰ります』のスタンプを送って至は会社を後にした。
至の話を聞いた臣と、ソファに座って新聞を読んでいた左京は目配せをする。
「茅ヶ崎、卯木はどれぐらいかかりそうなんだ?」
左京が聞く。
「え、立て込んでそうだからまだだと思いますよ。
なんか話し合いとかです?
俺代わりに出ましょうか?」
至は左京に声をかける。
「...あー。
茅ヶ崎、卯木は体調大丈夫そうだったか?」
「あ、ちょ、左京さん!」
「なんだ?俺は卯木とは何も約束してねーぞ。」
左京と臣の会話を聞いて至は気づく。
「会社では普通...というかいつもより機嫌悪そうでしたけど...え?千景さんもしかして朝から具合悪かった?」
至が左京と臣を見る。
臣はバツが悪そうに、左京は臣を見て、ほら見ろ、とため息をつく。
「俺会社戻ります。」
笑顔を消して至はまた玄関へと向かう。
「...茅ヶ崎。
今帰ってきてる途中かもしれないだろ。」
「そしたら俺の手間ってだけなんで。
もし帰ってきたら連絡ください。」
「朝の時点で黙っていたのは悪かった。」
「臣と左京さんはなんも悪くないじゃないですか。
どうせ、千景さんが言ったんでしょ?
『茅ヶ崎には黙っておいて』とか。
とりあえず会社戻ります。」
至は車の鍵だけ持って、会社へと戻って行った。
「...さすがに怒ってましたね。」
「伏見は悪くねぇ。
茅ヶ崎は多分『自分に』怒ってんだよ。
...とりあえず、体調悪くなってたら病院か?
雪白とガイにも念の為伝えておく。」
そう言って左京は2人の部屋へ行き事情を話した。
「あー。
珍しくダメかと思った。
焦った。手遅れになる前にお前が騒いでくれてよかったよ。」
「卯木ー、ほんとごめん!
遅くまでごめん!
早く帰りたいって言ってたのにごめん!
...カノジョ?」
「こういう時はお互い様だろ。
何かあったらよろしく頼むな。
今日は早く帰れそうかなって。
そしたらただ単に帰りたくなっただけだから。」
「珍しいな、卯木がそんな風に言うなんて。」
千景と同僚はなんとか仕事を終えていた。
もう、フロアは真っ暗で、2人以外に残っている人間はいないはずだ。
ポーンとエレベーターの音がする。
「あ、茅ヶ崎くんだ。どうしたの?
忘れ物?」
同僚がいち早く至に気づき声をかける。
「お疲れ様です。
そうなんです。
月曜の仕事の見直ししたかったものをまるまる忘れてしまって。
先輩方はまだ残るんですか?」
作った笑顔で至は言う。
「いいや、もう帰るよ。
そっか。2人は同じ劇団だっけ。
今度ぜひ舞台見に行かせてもらうね。
じゃ、お疲れ様!」
千景の同僚はそう言って帰っていった。
「...忘れ物?」
千景は至に声をかける。
「はい。千景さんを連れて帰るのを忘れました。」
明らかに声が怒っている。
千景はとりあえず座ってデスク周りを片付けだす。
「俺は普通に帰れるよ。」
多分、臣は約束したから話さないだろうから左京さんから聞いたんだろうな、と思いながら千景はPCの電源を落とす。
「具合、朝から悪かったらしいじゃないですか。」
「いや、正しくは夜具合が悪くなりそうだなって思った。だよ。」
「屁理屈。もう夜ですけど。」
至はまだ怒っている。
いつもは直ぐに、仕方ないですね。で済むのに、今日はそうもいかないらしい。
自分が至に隠してた反面、バツが悪いから、真っ直ぐ顔を見ることが出来ない。
珍しく真剣に怒っている表情を見ることできるだろう。
でもやっぱり千景は目を合わせるのを避けてしまう。
「...もう、帰れるから。」
千景は帰る宣言をする。
「はい。もちろんです。
帰りますよ。」
至は千景の手首を握って、引っ張って歩く。
エレベーターをおりて駐車場へと向かう。
「?
電車だろ?」
「は?具合悪いかもしれない人間迎えに来るのに電車で来るとか本気で言ってるんですか?」
茅ヶ崎トゲトゲ期だ。
千景はそんなことを思う。
千景が大人しくついて行っても、至は手首を握る手を緩めないし、にこりともしない。
話しかけるのも気が引けるし、千景は落ち着かない気持ちで歩く。
「はい。乗ってください。」
全く笑わない至は、笑わないくせに助手席のドアを開け、千景を助手席に座らせる。
そして寮から持ってきたブランケットをかけて、ドアを閉める。
自分は運転席に周りエンジンをかける。
助手席のドリンクホルダーにはスポーツ飲料、体温計も用意されていた。
「熱計ってください。」
まだムスッとしている。
千景は大人しくそれに従う。
車の中はエンジンの音だけだ。
ピピッ
体温計の機械音が響く。
千景は体温計をみて一瞬固まる。
「何度です?」
「...38.7」
「...チッ。
熱あるじゃないですか。」
至は珍しく人に対して舌打ちをした。
至は基本的には穏やかで、人と喧嘩するようなことも無い。
ゲームの時は口が悪いが、直接舌打ちなんて初めてだった。
「...ごめん。」
千景はつい、謝る。
「はぁ。
なんで謝るんですか。
仕事、しなきゃいけなかったんでしょ」
ムスッとしたまま至は言う。
「うん。」
千景は大人しく頷く。
「それは仕方ないですよ。
ただ、臣と左京さんは知ってたんだなぁってだけです。」
その会話の後は2人とも無言のまま帰宅した。
千景が気がつくと寮に着いていた。
どうやら寝ていたらしい。
「卯木、起きれるか。」
「千景さん、とりあえず動かしますよ。」
ぼんやりとした意識の中で丞と臣の声がする。
大丈夫、と言いたいが、声が掠れて上手く届かない。
「どうだ?救急連れていくか?」
2人の他に左京の声がする。
あぁ、茅ヶ崎は怒ってたからな。茅ヶ崎はいないのはそういう訳か...。千景はぼうっとする意識の中で思う。
そしてまたゆっくり意識を手放した。
次に目を覚ましたのは見慣れた部屋の床だった。
布団を下に下ろしたらしい。
ソファには座ったまま眠る至がいた。
「...茅ヶ崎。ごめん。」
寝ている至に声をかける。
「んぁ。は、俺寝てた!
てか千景さん起きた。
具合はどうですか?
少しは落ち着きました??」
安心した表情を至は見せる。
「え、あ、うん。
ごめん。」
千景は思わずまた謝る。
「謝んないでくださいよ。
ほら、熱計って。」
体温計を渡され、また熱を測ってみる。
「38.3」
音がなり、出てきた数字を読み上げる。
「まだ高いけど、よかった。
車で40度越えちゃって焦りましたよ。
臣と丞が運んでくれました。
本当は救急連れていこうとしてたんですけど、頑なに拒否するから諦めて部屋で寝かせました。」
至は説明をする。
なんとなく、いつも通りの至に戻ったようで千景はほっとする。
熱のせいかぼーっとしてるし、特に泣きたくもないのに涙腺が緩む。
「!?
ち、千景さん!?
大丈夫です!?
どっか痛い!?」
黙って涙を流した千景を見て至は焦る。
焦った至を見て、そこで初めて千景は自分が涙を流したことに気がついた。
「え、いや、なんか。
安心して。」
隠すでもなく思った事を伝えた。
「安心?ですか?」
至はなんの事?と首を傾げる。
「…茅ヶ崎、怒ってたから。
具合、悪いのも隠してたし。
だから、なんか普段通りの茅ヶ崎みたら安心した。」
千景はやっぱり熱があるからか、普段は言わないようなことをスラスラという。
「は?かわいいかよ。千景さん。
俺は、まぁ、怒ってましたけど、千景さんにじゃなくて自分にです。
千景さんが素直に具合悪いの言うわけないじゃないですか。
だから、倒れたりしないよう、俺が気付こうって思ってたんですよ。
…なのに今回は具合悪いの気づかなかったし、しかも千景さん残業までしてたから。
最近は分かるようになってたのになーって。
怒ったんじゃなくて、いじけてた、が正しいかな。」
至は、千景の目元をタオルでそっと拭いて笑う。
「なんです?
俺、怒ったと思って悲しくなっちゃいました?」
柔らかく笑う至を見て千景はそんなことは無いけど、と言うが、表情は確実に安堵している。
「俺が千景さんにそんな、怒るわけないじゃないですか。
第一に勝てない。」
至が無駄にキメ顔で言うので、つい千景は笑ってしまう。
「ふふ。ようやく笑った。
はい、とりあえず俺はここにいるんで寝てください。
治るもんも治らなくなっちゃう。
ね?おやすみなさい。
千景さん。」
至は電気を消す。
千景は大人しく言われるがまま寝直そうとする。
暗闇の中で、携帯をいじっている至の周りがぼんやりと照らされる。
そんな至をぼうっと見ていたら、至と視線がぶつかった。
「…ねぇ、千景さん。
怒っては無いけど、ちょっと寂しいんで、俺には具合悪いの隠さないでってお願いは聞いて貰えないです?」
ちょっと眉を下げて至は笑う。
「…うん。
分かった。
今度から、茅ヶ崎には隠さないよ。
今日はごめん。
ありがとう…」
お礼をいい切ると同時に、千景はスっと眠りに落ちた。
「まったく。
本当に分かってるんですかね。
千景さん。」
千景の寝顔を眺めながら至はふっと笑って自分はソファに転がった。