二次創作
放つ光はペルーン
#1
雪解け水が北の彼の国のほうから春を告げるように流れてきた。普段はそれほど寒くならないここも、溶けてすぐの冷水によってひんやりとしている。かと言って肌寒いほどではない。春独特の心地よさが、城下をはじめ街全体を明るく包んでいた。
そして、今日も【完璧な紳士】の名の下、軽食を届けに彼が研究室のドアを蹴破ってきた。勝手に入られるのも集中力が減って非効率的だから、とドアを未だかつてないほど頑丈にしたのが逆にこの悲劇を生んでしまった。
「後でいくらでも構ってやる、と口うるさく言っているつもりなのだが」
「誰が部屋の掃除をしてると思っているんだ!」
タッサムは心底腹を立てたように話しているが、付き合う前より声色はどこか柔らかくなったし、世話を焼かれる頻度も増えた。これが彼なりの愛というものなのだろう。まあ、それで納得しているかと問われたら嘘になるが。
天気もいいし、頭痛もしないから今日ぐらいは彼を手伝ってやろう。物理的に重い腰を上げ手伝う旨を伝えると、小気味良い返事をされ、いつも通りてきぱきとした掃除が始まった。
心なしか、今日の掃除は早めに終わった。慣れというよりかは、普段より小綺麗にしてあったからだと思う。小声でいつもありがとう、と伝えたら得意気な笑みを浮かべて嬉しそうにしていた。
それもこれも、タッサムが気を張り詰めすぎないように。彼のストレスについては、あの件以降細心の注意を払っている。騎士として、また彼のたった一人の彼氏として、分かち合えるものはすべて分かち合いたいし、わかりたい。
手作りだという軽食を貰い、冷蔵庫に入れた。名残惜しいが、そろそろ俺も研究に戻らなければならない。手付かずの資料たちが、名義上片付けられたとはいえデスクに山積みになっている。
「それじゃ」
背を向け帰る前、はっとしたように振り向いて、
「ボクのほうはしばらく忙しくなるから、片付けはちゃんと自分でやるんだぞ」
そう言い残して、彼は研究室を去った。さも母のような言い分だったから、ドアが閉まってすぐため息が出てしまった。いや、というよりもこれは、一種の安心感というか、君が俺をまだ見捨てないでいてくれる慈悲に縋っている
君の存在は俺にとって大粒の雨だった。乾いた心は徐々に満たされ、豊穣という名の愛を知る。つくづく慈雨という言葉がよく似合う男だ。閉ざされた研究室の暗がりをふいに照らしに現れる、気まぐれな雨。
もちろん、輝かしい君の姿を見た後では、当然俺がとんでもなく不釣り合いに映る。「真実」を追い求めるあまり、冷酷だとか、あるいは自分を客観的に見たほうがいいだとか、そういった嫌疑の目を向けられるのはよくあることだ。
しかし、客観的という言葉に誘われ覗き込んだ足下は脆弱だった。なんと無様なことか。思えば、俺たちの───いや、俺が下した判断そのもの───は命綱にぶら下がるような行為の連続にすぎなかったのだ。
俺ばかりが恋に落ちて。タッサムからも一応好意は告げられているが、それでも感情のバランスがうまく取れているか、それが愛情だとか、一番注意すべき独占欲とかばかりに傾いてしまってはいないか心配でたまらない。
ただ、それでも自分の選択は合理的で正しいという誇張された自信によって固められていて、特に恋愛ではこんな状況を助ける船もないものだから、不埒な欲が限りなく表面化しやすい。そして何より、それを分かっていて彼から離れることができない自分が恐ろしい。
ここから考えうるのは、思考の連続性。やがて尾を噛んだ蛇のように、話はぐるりと振り出しへ戻り、負のループが幕を開ける。
───自分を身勝手だとは思わないのか?───恋の不合理性を打破できるのか? それとも諦めるのか?───では人格の意味は?───ならば、人らしくしているために何ができる?───
堂々巡りと化していく自問自答のスパイラルは、己を死へと足早に向かわせる。
哲学に触れてこなかったのもこれが理由だ。命のタイムリミットを無駄にしてまで、表面化の難しい事象を思索し続けるのはとことん不向きだと思っていたし、今でも不変の考えだ。
そう思っていたはずなのに、まったく君という不可解は、どうも俺の心の繊細なところまで捉えて離してくれない。紳士だった君が、俺よりも遥かに高潔な君が、俺を引き込んでいく。そのどうしようもない悦楽から逃れることは、どうあがいても不可能だ。
ならば、このまま落ちていこう。川に身を投げるか、春風に攫われるかして、地位や名誉などたまったもんじゃない。劣情とか愛さえあれば、きっとどこへだって行ける。それが例え、精神世界の中だけであったとしても、じゅうぶん幸せ───
次の瞬間、椅子の背もたれが音を立てて外れ、後頭部と背中に鈍い痛みが走る。突然の衝撃に、思わず床をのたうち回った。外れた背もたれがクッションになっていなかったら、意識が危うかったやもしれない。
かわりに、意識が開けた。今まで俺は何をぐるぐる考えていたんだろう。重い体に鞭を打ち、なんとかして上半身を起こした。胸に手を当てようとしたが、そうせずとも明確に、心臓がバクバクと全身を打ちつけているのがわかった。それに加え、手は震えている。
ある程度落ち着いたところで立ちあがろうとしたら、足をぶつけて、今度は資料の山がこちらへ向かって崩れ落ちてきた。最悪だ。一難去ってまた一難とは、まさにこういう状況をいうのだろう。
そういえば、悩んでばかりいて全く資料に手をつけていなかった。散らばった資料を片付けて、一度冷静にならなくては。
そうだ。春は頭のおかしな奴が増える。雪解け水と陽気に晒され、心の裡ではあるが、やけに俺らしくない醜態をさらしてしまったと今更後悔している。
頭を動かしておこうと、何かの学術論文のタブを開いたままの液晶の文を、無心で目で追った。内容はこうだ。
かつて、ヴォーロスという冥界の神がいた。家畜をむさぼり、地下に巣食う蛇の姿とされ、それは敬われていたという。
やがて年月が過ぎ、かつての神は排斥され、時代は正教の支配下へとおかれた───しかしその中でも、信仰は密かに守り継がれ、その名は俺の目に触れるまでになった。
どうしてこんなものを読んでいたのだろう? 神話学には興味がないのに。それでも、ここで語られていたヴォーロスと俺は不思議と似通っているように思えた。
職の都合上、ああやって密かに暮らしていくことはできないだろうが、せめて人の目に触れないよう、ひっそりと恋路を楽しむのもいいかもしれない。皆の尊敬の対象としてではなく、一匹の暗がりの蛇として。
そして、今日も【完璧な紳士】の名の下、軽食を届けに彼が研究室のドアを蹴破ってきた。勝手に入られるのも集中力が減って非効率的だから、とドアを未だかつてないほど頑丈にしたのが逆にこの悲劇を生んでしまった。
「後でいくらでも構ってやる、と口うるさく言っているつもりなのだが」
「誰が部屋の掃除をしてると思っているんだ!」
タッサムは心底腹を立てたように話しているが、付き合う前より声色はどこか柔らかくなったし、世話を焼かれる頻度も増えた。これが彼なりの愛というものなのだろう。まあ、それで納得しているかと問われたら嘘になるが。
天気もいいし、頭痛もしないから今日ぐらいは彼を手伝ってやろう。物理的に重い腰を上げ手伝う旨を伝えると、小気味良い返事をされ、いつも通りてきぱきとした掃除が始まった。
心なしか、今日の掃除は早めに終わった。慣れというよりかは、普段より小綺麗にしてあったからだと思う。小声でいつもありがとう、と伝えたら得意気な笑みを浮かべて嬉しそうにしていた。
それもこれも、タッサムが気を張り詰めすぎないように。彼のストレスについては、あの件以降細心の注意を払っている。騎士として、また彼のたった一人の彼氏として、分かち合えるものはすべて分かち合いたいし、わかりたい。
手作りだという軽食を貰い、冷蔵庫に入れた。名残惜しいが、そろそろ俺も研究に戻らなければならない。手付かずの資料たちが、名義上片付けられたとはいえデスクに山積みになっている。
「それじゃ」
背を向け帰る前、はっとしたように振り向いて、
「ボクのほうはしばらく忙しくなるから、片付けはちゃんと自分でやるんだぞ」
そう言い残して、彼は研究室を去った。さも母のような言い分だったから、ドアが閉まってすぐため息が出てしまった。いや、というよりもこれは、一種の安心感というか、君が俺をまだ見捨てないでいてくれる慈悲に縋っている
君の存在は俺にとって大粒の雨だった。乾いた心は徐々に満たされ、豊穣という名の愛を知る。つくづく慈雨という言葉がよく似合う男だ。閉ざされた研究室の暗がりをふいに照らしに現れる、気まぐれな雨。
もちろん、輝かしい君の姿を見た後では、当然俺がとんでもなく不釣り合いに映る。「真実」を追い求めるあまり、冷酷だとか、あるいは自分を客観的に見たほうがいいだとか、そういった嫌疑の目を向けられるのはよくあることだ。
しかし、客観的という言葉に誘われ覗き込んだ足下は脆弱だった。なんと無様なことか。思えば、俺たちの───いや、俺が下した判断そのもの───は命綱にぶら下がるような行為の連続にすぎなかったのだ。
俺ばかりが恋に落ちて。タッサムからも一応好意は告げられているが、それでも感情のバランスがうまく取れているか、それが愛情だとか、一番注意すべき独占欲とかばかりに傾いてしまってはいないか心配でたまらない。
ただ、それでも自分の選択は合理的で正しいという誇張された自信によって固められていて、特に恋愛ではこんな状況を助ける船もないものだから、不埒な欲が限りなく表面化しやすい。そして何より、それを分かっていて彼から離れることができない自分が恐ろしい。
ここから考えうるのは、思考の連続性。やがて尾を噛んだ蛇のように、話はぐるりと振り出しへ戻り、負のループが幕を開ける。
───自分を身勝手だとは思わないのか?───恋の不合理性を打破できるのか? それとも諦めるのか?───では人格の意味は?───ならば、人らしくしているために何ができる?───
堂々巡りと化していく自問自答のスパイラルは、己を死へと足早に向かわせる。
哲学に触れてこなかったのもこれが理由だ。命のタイムリミットを無駄にしてまで、表面化の難しい事象を思索し続けるのはとことん不向きだと思っていたし、今でも不変の考えだ。
そう思っていたはずなのに、まったく君という不可解は、どうも俺の心の繊細なところまで捉えて離してくれない。紳士だった君が、俺よりも遥かに高潔な君が、俺を引き込んでいく。そのどうしようもない悦楽から逃れることは、どうあがいても不可能だ。
ならば、このまま落ちていこう。川に身を投げるか、春風に攫われるかして、地位や名誉などたまったもんじゃない。劣情とか愛さえあれば、きっとどこへだって行ける。それが例え、精神世界の中だけであったとしても、じゅうぶん幸せ───
次の瞬間、椅子の背もたれが音を立てて外れ、後頭部と背中に鈍い痛みが走る。突然の衝撃に、思わず床をのたうち回った。外れた背もたれがクッションになっていなかったら、意識が危うかったやもしれない。
かわりに、意識が開けた。今まで俺は何をぐるぐる考えていたんだろう。重い体に鞭を打ち、なんとかして上半身を起こした。胸に手を当てようとしたが、そうせずとも明確に、心臓がバクバクと全身を打ちつけているのがわかった。それに加え、手は震えている。
ある程度落ち着いたところで立ちあがろうとしたら、足をぶつけて、今度は資料の山がこちらへ向かって崩れ落ちてきた。最悪だ。一難去ってまた一難とは、まさにこういう状況をいうのだろう。
そういえば、悩んでばかりいて全く資料に手をつけていなかった。散らばった資料を片付けて、一度冷静にならなくては。
そうだ。春は頭のおかしな奴が増える。雪解け水と陽気に晒され、心の裡ではあるが、やけに俺らしくない醜態をさらしてしまったと今更後悔している。
頭を動かしておこうと、何かの学術論文のタブを開いたままの液晶の文を、無心で目で追った。内容はこうだ。
かつて、ヴォーロスという冥界の神がいた。家畜をむさぼり、地下に巣食う蛇の姿とされ、それは敬われていたという。
やがて年月が過ぎ、かつての神は排斥され、時代は正教の支配下へとおかれた───しかしその中でも、信仰は密かに守り継がれ、その名は俺の目に触れるまでになった。
どうしてこんなものを読んでいたのだろう? 神話学には興味がないのに。それでも、ここで語られていたヴォーロスと俺は不思議と似通っているように思えた。
職の都合上、ああやって密かに暮らしていくことはできないだろうが、せめて人の目に触れないよう、ひっそりと恋路を楽しむのもいいかもしれない。皆の尊敬の対象としてではなく、一匹の暗がりの蛇として。
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