僕は、平凡な自分が嫌だった。
毎日同じ道を歩き、同じ人と話し、同じように夜を迎える。
それを“幸せ”だと誰かが言うたびに、
胸の奥で何かがざらついた。

――なんでもない生活なんて、もううんざりだ。



そんなある日。
家に帰るための近道として
駅前の裏路地を歩いていた。
すると、奇妙な男に声をかけられた。
薄汚れたコートに、帽子の影で見えない目。
手には、光を反射する赤い林檎を持っていた。

「お前、今の自分に満足してないだろ？」
その声は、まるで心を見透かすようだった。

僕は、無意識に頷いていた。



「この林檎を食べれば――一端の何者かになれる。
　賢い奴らは、みんなもうやってるさ。」


売人の口元が歪む。
その言葉に、僕の理性がゆっくりと崩れていくのを感じた。
本当なら逃げるべきだったのかもしれない。
でも、あの瞬間の僕には“違う何か”が必要だった。

気づけば、財布から金を出していた。
男は林檎を差し出し、くすんだ声で言った。

「今の人生をやり直せ。そして、噛みしめろよ。」



――その夜。

自分の部屋で、蛍光灯の白い光がやけに冷たく感じた。
机の上に置かれた真っ赤な林檎が、まるで呼吸しているように見える。

僕は震える手でそれを掴み、
一口 ＿＿＿＿かじった。

甘いようで、どこか不思議な味がした。

舌、喉が痺れ、頭の中が真っ白になる。



次の瞬間、世界が反転した。




僕の知らない色。
僕の知らない音。
そして、僕の知らない“僕”。





――ここから、違う僕がはじまる。