おやすみ
#1
冷たい風が、頬を撫でる。空には、満月がぼんやりと浮かんでいる。こんな夜空、久しぶりだ。いつだって、焦燥感に追われて、空を見上げる余裕なんてなかった。
視界はぼやけて、足元がふらつく。意識が遠のく感覚。ああ、これが死というものか。意外に、静かだ。騒がしい日常の音とは無縁の、静寂。
振り返れば、人生は疾風怒濤だった。愛し、憎み、喜び、悲しみ。全てが、鮮やかな色彩で脳裏に焼き付いている。あの時の彼女の笑顔、父親の厳しいまなざし、友人との馬鹿騒ぎ。どれもが、今となっては愛おしい思い出だ。
「さようなら」…そう呟いてみたくなる。この世に未練はない、と言い切れるほど、潔くはない。けれど、もう、これ以上は頑張れない。疲れたんだ。
胸に込み上げるものがある。それは、後悔ではない。ただ、少しだけ、寂しい。愛する人たちに、ちゃんと「さようなら」を言えたかな? 伝えきれない思いが、胸を締め付ける。
最後の力を振り絞って、空を見上げる。満月が、私のために優しく光っているように見える。
「おやすみ…」
かすかな声で、そう呟いた。温かい風が、私の体を包み込む。意識が、ゆっくりと、闇に沈んでいく。全てが、静かに、静かに、終わっていく。 長い眠りにつく。この世の全てから解放されて、安らかな眠りに。 おやすみ。
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