蒼太は、カフェの窓際に座っていた。
忙しい日常に追われる毎日の中で、ふとした瞬間に、あの頃のことを思い出す。

遥のことを忘れようとしても、無理だった。
彼が消えたその日から、蒼太の心は凍りついたままだった。

それでも、今は少しずつ前を向いて生きている。
でも、時々、あの日のことが、手が届きそうで届かない場所に感じる。

カフェの扉が開く音がして、振り向くと、そこに立っていたのは――

「藤倉蒼太くん？」

声の主は、遥の母親だった。
初めて見るときのように、蒼太の心臓が一瞬止まった。
それでも、遥の母親はそのまま、少しだけ微笑みながら近づいてきた。

「久しぶりね。覚えてる？」

「…はい。」

遥の母親は、以前と変わらない姿勢で蒼太を見つめていた。
今、何を言うべきか分からない。何も言わなくてもいいのかもしれない。

彼女が最初に口を開いた。

「…遥のこと、ずっと気にしてくれてたんでしょう？ あの子、君のことを話すことが多かったわ。」

蒼太は、胸が痛くなった。
遥のことを、こんな風に言われるのは、何度もないことだった。

「…母さん、元気ですか？」

蒼太がそう言うと、遥の母親は少し驚いたような顔をした後、静かに答えた。

「元気じゃないわね。あんなに必死で生きようとしてたのに、あの子が死んで、私もその後…どうしていいか分からなくなって。」

「…でも、母さん、ちゃんと生きてください。」

言葉が勝手に蒼太の口からこぼれた。

遥の母親は、その一言を静かに聞き入れた後、少しだけ目を伏せた。

「ありがとう。でも、私も分からないわね。あの子を失ったことで、私の中には、もう何も残っていないような気がする。何も。」

その言葉に、蒼太は何も言えなかった。
何もできない、ただ、痛みを分け合うことしかできない自分が、いまここにいる。

蒼太はそっとバッグから、あの本を取り出した。
遥のことを、書き綴った本。そのタイトルを遥の母親に差し出す。

「これは…」

「遥のことを、少しでも残したくて。僕は、彼のことを忘れたくないんです。」

遥の母親は、しばらく黙ってその本を見つめた。
そして、顔を上げると、静かに微笑んだ。

「ありがとう。君がそれを出したってことが、私には一番大きな慰めよ。」

その言葉に、蒼太は少しだけ胸が温かくなった気がした。
彼が遥を忘れないように、誰もが忘れないように――そのために彼は生きている。

遥の母親がふと、蒼太に向かって言った。

「…でも、あの子には、幸せになってほしかった。君が言っていた通り、もっと、ちゃんと生きてほしかった。」

蒼太は黙って頷く。
そして、もう一度遥の母親を見つめて、こう言った。

「僕も、あの子には幸せになってほしかった。だけど、彼があの時、僕に見せてくれた笑顔が、幸せだったんだと思います。」

遥の母親は、静かに涙を流した。
その涙を、蒼太は黙って見守ることしかできなかった。

「ありがとう。ありがとう、蒼太くん。あの子が見せた笑顔を、私も忘れないわ。」

そして、二人は黙ってカフェを後にした。
遥の母親は、もう一度微笑んで、静かに去って行った。

蒼太は、また一人になった。
だけど、もう一つ、心に“答え”が少しだけ見えてきた気がした。

遥が残したもの。
それは消えることなく、どこまでも続いていく。

それを、蒼太はこれからも大切にしていくのだと、心の中で誓った。